肆
恩師カイナが方向音痴であることを知ったのは、リオトがカイナと出会ったときのことだった。それなりの年数を重ねて暮らしている村のはずれで彼は村へ行くはずが道を逸れて林道に入ってしまい、完全なる迷子になっていたところをリオトと出会った。
弟子入りしてからも、リオトは幾度となくカイナの方向音痴ぶりを目の当たりにしており、迷子になったカイナはいつもどういう結果を辿っているかといえば……。
「ねぇお兄さぁん、いいでしょぉう?」
「お兄さんみたいなイケメンならぁ、いーっぱいサービスしちゃうなぁ?」
わざとらしく間延びさせた猫なで声が耳にまとわりつくかのようだった。
いや、実際まとわりついている。
「いや、悪いが結構だ。弟子を待たせているので失礼する」
「あ~、照れてるんだぁ? うふふ、かぁわいい」
「なんだったらぁ、そのお弟子さんも二人まとめてサービスするわよぉ?」
服としての役割をあまり果たしていない、どちらかといえばもはや服というよりは隠さなければならない箇所を申し訳程度、必要最低限の布面積と量で隠し、男という男を片っ端から引きずり込み、体を売って儲けとする娼婦がカイナを四方八方から囲み、胸や生脚を強調しながら、まるで絡みつく蜘蛛の糸のように彼の腕や体にまとわりついている。
一方、そういった色仕掛けや曰く愛や思いやりのない行為に一切の興味も関心も示さないカイナはキッパリと返すが、せっかく見つけた顔のいいカモを逃がすものかと、娼婦は必死になってカイナを引き止める。
女子供と老人には一切手を出さないという心の底から本心である紳士な信条を持つ以上、彼は本当に乱暴をしないし暴言も性質上吐かない。それがこんな泥沼の争いに巻き込まれる決定打であることは重々承知しているが、しかしあまりにもしつこいためにさすがのカイナも少々うんざりとした顔をしていた。
「というわけで、ちょっと目を離すとすぐに街娘や娼婦に絡まれるという、敬慕する我が師ながら少々めんどくさいお人なわけだ」
そんなカイナの様子を建物の影から伺っていたリオトがレイグに説明すると、レイグはいろいろな意味で呆然としており、その腕のなかの猫は退屈そうにあくびをしていた。
ちなみにリオトがここから動かないのは言わずもがなあの女豹の群れから恩師を救い出すのがめんどくさいからである。
「どうするんですか…?」
「どーすっかなぁ……」
腕を組み、建物の壁に背をあずけてもたれかかる。
「と、とりあえず助けないと……」
「ヤなこっためんどくさい」
リオト、まさかの恩師救出拒否。
レイグは困惑しながら続ける。
「え!? で、でもカイナさんが……」
「あんなところに飛び込むなんて自殺行為だ。べつになにかと命懸けの戦闘してるんじゃないんだから大丈夫だよ。さきにその猫を子供に届けよう。戻る頃にはアレも収まってるさ」
「えええぇっ?!」
いくぞ、とリオトは迷いなく踵を返し来た道を戻っていく。結えられた黒髪が尾のようにたなびく。
どうしようかと迷うレイグが一度振り返ると、未だ娼婦たちは困り果てているカイナを無視し、我こそがとカイナの腕や体を引っ張りあい、醜い泥沼の争奪戦を繰り広げていた。
その光景はさしずめ一匹の羊を奪い合う飢えた猛獣たち。確かに、あのなかに飛び込みカイナを救出するのはいささか高難度だ。
というか、ぶっちゃけ近づきたくない。
レイグは目の当たりにした女性の怖さに震えつつ、心の中でカイナに合掌と謝罪をし、リオトのあとを追った。
「レイグ、ここから北側の居住区へはどう行けばいい?」
「御案内します、こっちですね」
道を遡り、再び建物に陽を遮られわずかに薄暗い路地裏の隘路へ入ったリオトはレイグの案内のもと、居住区を目指す。
歩くことおよそ10分。
いくつも建ち並ぶ家々。そのうちの赤い屋根の家の前に落ち着きなくきょろきょろと周囲を見回す幼い少女が一人。少女はリオトとレイグ、そしてレイグの腕の中にいる猫に気が付き、駆け寄ってくる。
「ミィ!」
少女は猫をそう呼ぶと、レイグの腕の中から白猫を抱き上げて抱きしめる。
すると、白猫も嬉しそうに少女の頬に擦り寄る。
「見つかってよかったね」
「うん! ありがとうくろいおにいちゃん! しろいおにいちゃん! …あれ?」
微笑えむレイグと少し離れたところで腕を組んでそっぽを向いているリオトを順番に見たあと、少女は首をかしげて問いかける。
「おにいちゃん、だぁれ? しろいおにいちゃんは?」
「あ~、しろいおにいちゃんは、今、ちょっと忙しくて来られないんだ」
レイグのやや苦笑まじりの返答に違和感を感じることもなく、少女は素直にそっか!と返す。
「本当にありがとう!じゃあね!」
「うん。バイバイ」
手を振るレイグに応えて手を振り返し、少女は家の中へと入って行った。
「さて、じゃあ師匠の様子を見にもど───」
「その必要はないぞ」
セリフを遮ると同時に、リオトの頭を大きな手がむんずと鷲掴み、リオトは肩を揺らす。
「弟子が師を見捨てるとは、なかなかいい度胸だなリオト」
背後から聞こえる低音にはあからさまに怒気が含まれており、頭を掴まれて首が回せないリオトは顔を青くしながらダラダラと汗を流す。
「な、なぜ師匠がここに…」
「私がお前たちに気がついていないとでも思っていたのか」
言葉が紡がれるに連れて、頭を鷲掴む手に徐々に力が含まれる。
それがカイナの怒りを余すところなく物語っており、同時にカイナがどれだけ助けが欲しかったかをも表している。
「あのあと、壮大にして壮絶な乱闘が繰り広げられ始め、隙をついてあの場を免れ、お前たちのあとをついてきた。方向音痴の人間でも、人のあとをつければ迷いなどしない」
「ししょ…、オレの頭は握力測定器じゃないです…」
ギリギリと軋む音が聞こえ始め、リオトが決死の抗議をするが、カイナは無視してレイグに声をかける。
「レイグ、バカ弟子が世話になった。すまなかったな」
「いえ、どどどういたしまして…」
リオトの頭を握り潰さん勢いで鷲掴む手をそのままに、穏やかに笑うカイナは怒りの対象外であるレイグでも怖い。返事を噛んだ。
「ちょっ、ししょ…、マジでヤバイ…! 頭かち割れそう…!」
リオトの悲痛な訴えにより、ようやくカイナが手を放すと、リオトはその場にしゃがみこみ文字通り頭を抱える。
「まったく…。ではなレイグ。帰るぞバカ弟子」
「ま、待って師匠…、頭くらくらする…。れ、レイグ…、またな…」
「あ、はい。お大事に…」
なんと言えばいいのかわからず、レイグは冷や汗を流しながら、スタスタと歩いていくカイナと、ふらつく足取りでよたよたと後を追うリオトの背中を見送った。