弐
ーーー少年がいた。焦げ茶色の髪に、愛嬌ある丸っこい榛色の瞳を無理矢理キッと釣り上げている。
まだ細く小さな体躯から推測するに歳はやっと十を超えた辺りぐらいだろう。その少年は建物と建物の間に積み重ねられている大きな木箱の後ろで身をかがめ、隠れるようにしてそこにいた。しかし彼は、友人とかくれんぼをしている真っ最中というわけでもなければ極度の人見知りで他人に会うだけで卒倒するというわけでもない。
口を一文字にきゅっと引き結び、なにか確固たる決意を宿したような神妙な面持ちで見つめる先には、一軒のパン屋。今から訪れる正午に備え、そのパン屋の店主だろうか、簡素なエプロンを身につけた中年の男はさきほどから次々と多種のパンを作り上げていく。焼き上がったパンはすべてカウンターや棚に並べてあるバスケットのなかへと置かれていくので、辺り一帯には食欲を刺激する香ばしい匂いを漂っている。
店主は少年の視線にも気づかないまま、現在焼いているパンの様子を見に奥へと消えてしまった。
用心深くも、少年は数秒待ってすぐには店主が戻らないことを確認すると、木箱の裏から飛び出した。一直線に向かった先にあるのは横の台に並列されてある長方形の茶色い塊。白い包みに入れて一斤丸ごと売られている食パンである。
少年は奥の工房をのぞき込む。店主は次に焼くパンの生地を口笛交じりにこねていた。店主が少年に気づく気配は微塵もない。
少年は目線を食パンに戻すと、細い両腕で食パンを棚から引っ張り出し、抱えて店を飛び出した。
バレる前に、急がなければ。食パンを抱えているせいで両腕が振れず、いつもよりも速度が遅い。焦る少年は全速力で地を蹴った。
「ちょい待ち」
「ぐえっ!」
突然、それはもう無遠慮に、首根っこを捕まえられ、少年の首を襟元が締めた。
反射的に振り返れば、そこに立っていたのは少年よりも一回り弱年上と思われる人物。長い黒髪を結い上げ、さきほどまで自身の首根っこを掴んでいた両腕はふてぶてしく組まれている。しかし、やや長めの前髪から見え隠れする蒼色は穏やかなもので、威圧感は感じられない。中性的な顔立ちと、少年よりはずっと高い背格好からは性別を判別しがたい。
自身を見下ろす静穏な笑みに少年は思わず怯み後ずさるが、一歩下がった右足を再び前へ戻し、少年は全力で目の前の人物を睨みつけた。
「なんだよお前」
すると、人物はにっこり笑って口を開いた。
「いきなり呼び止めて悪いな。とりあえず、『ソレ』返してこい」
迷いなく指で指し示される、少年の腕の中の一斤の食パン。
泥棒呼ばわりはまだされていない。だが少年は思わず「うっ」と肩を揺らした。
「な、なんでだよ!」
「正直に言え。お前は《ソレ》をどうやって手に入れた」
「か、買ったに決まってるだろ!」
見え透いた嘘に蒼色が尖り、さきほどまでの穏やかさは消え、声色に力が入る。
「お前がパンに手をかけたとき、店主のおっさんは奥にいた」
「金はコレがあった場所に置いた!」
「知ってるか少年。たとえ代金を置いてきても、じかに金を渡しても、相手に許しをもらってねぇならそれは盗んだのと同義だ」
「う、うるさいこのヘリクツ人間! 何も知らねーやつがエラソーに口出すな!」
『うるさい白髪! 何も知らないくせにエラソーにべらべらと……! お前になにがわかる!』
犬の甲高い咆哮にも似た少年の言葉に重なったのは、いつの日かの、悲しみと寂しさに耐えかねた悲鳴。
「『ああ。わからない。だから……、教えてくれないか?君になにがあったのか』」
表情と声色を静穏に戻して微笑み、右手をそっと前に出すと、少年は驚いたようにわずかに目を見開いた。肩が小刻みに震え、目尻が湿り気を帯びる。
「う、……うぅ……」
それらを抑え、耐えるように歯を食いしばり、
そして、
「うっせーこのしっぽ頭ああああっ!!」
「ぶっ!?」
少年は腕のなかの食パンを目の前の人物の顔に叩きつけた。予期せぬ襲撃をかわせず、食パンは顔面にクリーンヒット。
子供の力で投げられたパンとはいえ結構な勢いと威力を兼ね備えていたそれに、思わず人物の脚が後ろへ動く。
その隙に逃走を図るべく、少年は踵を返して地を蹴った。
しかし、
「ぶべっ!?」
「おっと、」
ぼすん、と少年の小さな体がなにかにぶつかった。尻もちをつかなかったのはまだ走り出しで勢いがそこまでついていなかったからだ。
壁かなにかにぶつかったにしては痛みや衝撃が小さいし、上から声も降ってきた。ということは、少年がぶつかったのは人間ということになる。
「すまない。いきなりだったものだから対処できなかった。無事か?」
そう言って顔を上げた少年の顔をのぞき込むのは、立て続けに現れた二人目、かつまたしても顔も知らぬ他人の登場に呆気に取られ目を丸くする少年よりもはるかに高身長の青年。
ごくわずかに青色がかった白髪と、燈籠の灯にも似た温かく穏やかな光を宿す紅の瞳が印象的である。
「どうやら手懐けられなかったようだな、リオト」
からかうように言葉を投げてけらけらと笑う青年に、リオトと呼ばれた人物は顔面からずり落ちる食パンを受け止めると、ふてくされた顔でため息をつきながら返す。
「……だから子供は嫌いなんです」
変わらず、青年はけらけらと笑い続ける。はっと我に返った少年はその場を立ち去ろうとするが、青年にすばやく腕をつかまれ身動きが取れなくなった。
「怯えることはない。私はカイナ、あの子はリオト。私たちは怪しいものじゃ……」
「べつに怯えてねーし! それより放せよシラガ頭!」
「しらっ……!?」
「ぶっ!」
それは鈍器を用いた打撃にも等しい、ガツンというような強い衝撃。カイナがショックを受けると同時に、リオトが吹いた。しかしショックのほうが大きかったのか、カイナはリオトを睨んだりはせず、代わりに顔をわずかに俯かせた。
「シラガ……。そうか…やはり白髪や、銀髪とは言えないか……。そうか…、シラガか…、シラガなのか……」
「師匠落ち着いてください怖いです」
相手が子供だからこそ、その一言がかなり効いたらしい。どんよりとした重い空気を纏ってなにやらぶつぶつと呟き始めた。
とりあえずリオトも少年の腕を掴んで捕まえておきつつ、カイナをパンを抱えている左腕の肘で小突いて下がらせる。
「少年、名前は?」
「誰が教えるかバーカ!」
べー!と舌を出す少年に、リオトは額に青筋をうかべ口をひきつらせる。いつもならカイナが子供の相手をして手懐けるのだが、今日は彼の数少ない地雷が踏まれてあえなく撃沈したので復活にはしばらくかかる。
そもそも子供の相手など例え大金を積まれて懇願されても頑としてお断りなのだが、今日は、今回はわけが違った。子供が嫌いでも苦手でも、なんであろうとも放っておくことができなかった。
しかし子供の扱いを心得ていないリオトでは埒があかず、どうしたものかと眉をしかめて考えあぐねていたそのときだった。
「ルノア!」




