拾漆
とか、
そんな感じのことがさっきの場所で起きているのではないかと、弟子の凶暴さを懸念する師の首が中途半端に後ろに回されたがそれもすぐに戻された。
詠力が惜し気もなくディーヴへと注がれ、現在メーターが指し示す速度は普段の旅路を進んでいるときの三倍近くになっている。詠力が人一倍あり、体を鍛えているとはいえ、さすがに確実に自身の身体に限界が迫っているとカイナは感じとっていた。
しかし、レースが終わるまではもつだろう。あとを引く低いエンジン音をなびかせ、平坦な第五地点を疾走する。
稍もしないうちにすぐにブザビオの背中が見える程度に追いつくと、気配に気づいたのか振り返った彼はカイナの姿を見るなり目を剥いた。元々人よりも突出している目玉がさらに突き出したようになり、今にもこぼれ落ちてしまいそうである。
危機を感じ焦燥する心理状態がそうさせるのか、前のめりになりながらブザビオは一段と速度を上げた。万策尽きた彼の行動にはもはや芸が無い。カイナが追いつき、並走する。
わざとではない。追い越すつもりだったがブザビオが粘ったのだ。
第五地点も中間を過ぎ、彼方の地平線にたゆたう陽炎のなかにいよいよ観戦会場を捉えた二人の選手達がラストスパートをかけた。
追い越し追い越されの押し問答を繰り広げながら、残り五十キロ、四十キロ、三十キロとゴールへ迫っていく。
ときおり、横へ突き飛ばさんとするようにブザビオが勢いよくカイナの方へバイクごと体当たりを仕掛け、少しでも距離を開かせようと企むが、思惑は芳しくない。カイナは動じず、冷静にのらりくらりとかわすのみである。
残り二十キロを切った。
《来ました!カイナ選手とブザビオ選手の一騎打ちです!! ゴールまで残りわずか! 勝つのはどっちだああああああっ?!》
ゴールに近づくにつれ、スピーカー越しの解説係の声が聞こえてきた。その興奮ぶりを物語るように、一際甲高いハウリングが響く。
しかし観客たちは耳障りなハウリングなど気にも止めず、こちらへと疾走してくる選手のうち、どちらが勝利を掴むのかで熱気と盛り上がりは最高潮だった。
「がんばれカイナさん!」
「勝ってくれ! カイナ!!」
それぞれの名を呼ぶガヤガヤとした声の中に、確かに、精一杯彼を呼ぶ声があった。
最初はスタート地点であったライン、つまりゴールまで十キロを切った。
「うおおおぉおおぉおぉーーーっ!!!」
最後の力を絞り出し、アクセル全開。
観戦会場の玄関口からゴールの白線ラインまで、二人と二台は一気に駆け抜けた。
*
時間が止まったようだった。
ゴールラインを五キロも追い越し、もはや四週目に入りかけてようやく止まったとき、さっきの熱気が、歓声が嘘のように、会場は静まり返っていた。久しぶりに飛ばした影響で、聴力が少しだけ麻痺して、風の音や自身の大きく乱れたゼェゼェという呼吸も聞こえなくて、まるで聴力を失ったような感覚だった。
ただドクドクと高鳴る心臓の鼓動だけが自身の意識や脳を叩き、響いている。
レースはどうなったのか。
どっちが勝ったのか。
大粒の汗を流しながら首を回してぐるりと周囲を見回せば、三キロ弱ほど離れた場所でブザビオが止まっており、水をかぶったような量の汗を滴らせながらやはり息を切らせて周囲を見渡している。
《み、皆様ご覧になられましたでしょうか!! 今年の第十三回バイクレース!! 勝ったのは―――――
――――カイナ・ベスティロット選手だああああっ!!》
どっと、観戦会場が沸いた。
安堵とともに限界を迎え、意に訴え許可をもらうよりも先に、ディーヴの座席に座り込んだまま、ハンドル部分に倒れ込むように両腕を乗せてだらりと上半身を預けたカイナに歓声が降り注ぐ。
《なんと!! 今年初出場!! 白銀のニューフェイスが勝利を掴みとりましたああああああああっ!!!》
カイナは肩や背中を大きく上下に動かしながら呼吸を正すが、しかしいつまでたっても体にのしかかるだるさと疲弊はマシになる様子も見せない。調子にのって詠力を放出し過ぎたらしい。
「カイナさん!」
「カイナ!」
観戦席から階段をつたい、レインとクルザが駆け寄ってくる。
「お前なら、勝ってくれるって信じてたぜ!」
「ありがとう、ありがとうございます!カイナさん……!」
わずかに顔を上げ、二人に力なく笑いかけるのが精一杯だた。ブザビオの方を一瞥するが二人以外の観客たちもカイナに駆け寄って囲まれていたため、彼の姿は見えなかった。
「あれ、そういえばリオトちゃんは……―――」
「師匠!」
彼を師と呼ぶ少し低めの声は、紛れもない。
途端にレインが振り返った。
「リオトちゃん!」
すいません通ります通して通してとカイナを囲む人だかりを掻き分けて現れた黒は声に感づいた観客たちが空けた隙間で一度足を止めると、うへぇと顔を歪めてだらりと腕を前に垂らす。それはやはりリオトだった。ここまで急いで戻ってきたのか、カイナに負けず劣らず呼吸が荒い。
その姿を見たレインの顔色が安堵の色を帯びる。
「レースは? 師匠が勝ったんだろ?」
さも当たり前というふうに左手を腰に当て、軽い口調でレインに尋ねる。
レインが嬉々とした表情で返すよりも先に、カイナは腕にまともに残っていない力を入れてよろよろとディーヴから降りると、リオトの手を引いて抱き寄せた。
顔を赤らめつつ驚き、口元を手で覆うレイン。
見開かれるリオトの目。
ひゅー!とはやし立て始めるクルザと観客たち。
「し、ししょ…っ」
わたわたと慌てて暴れながら離れようとするが、彼はそれを許さなかった。腰に回された左腕はびくともしない。
「……った…」
もはや立つ気力も危ういらしく体重の七割を預けながら、掠れたような声でなにかを呟く。よく聞き取れなかったリオトが問い返すと、今度はちゃんと聞こえるようにという配慮か、カイナは黒いイヤーカフが飾り立てる小さな耳に口を寄せる。
「勝ったぞ…。勝ったんだ…。…勝った…!」
荒野を爆走したせいか白雪の髪先からブーツのつま先まで、顔以外の体中至るところに砂埃を被った姿で、寝言やうわ言のように、カイナはただそう繰り返すのみだった。声が小さいのは疲弊もあるだろうが、なによりも優勝できたことに彼自身が感極まり、心の奥底から湧き上がる歓喜に声も体も震えている。
その嬉しさがこれでもかというほど伝わってきたから、リオトは諦めのため息を静かについて、腕を彼の背中に回してやった。
「はい。優勝はあなたのものです。カイナさん」
「リオトのおかげだ…」
パーツの材料をとってきてくれた…、妨害を止めてくれた…、と震える声で呟く。
「弟子の師匠孝行です。それに、正々堂々と自身の力で戦わないやつが優勝して、師匠が二番目の椅子に収まるなんてオレが許しません」
おどけるように言うと、カイナは少し笑ってようやく体を離した。
「認めねェっ!」
にぎやかな雰囲気に水を差したのは、額や顔に青筋を浮かべ眉を釣り上げたブザビオだった。どう見ても彼が激怒していることは明白で、気圧された、または恐怖におののいた観客たちが後ずさってブザビオとカイナの周りから離れ、やがて彼らを囲う形になった。道ができたことにより、ブザビオは歩く度に地響きが響きそうなほどにその一歩一歩に怒りと体重をのせて大股で彼に歩み寄ると、ビシリとカイナを指差し怒号を飛ばす。
「俺は認めねぇぞ! こいつはセコい手を使って俺やほかのやつに妨害を仕掛けたんだ! 俺はたしかにこの目で見た!!」
今度は自身の目を指さし、彼は声高にカイナに難癖をつけ始めた。最後の最後でそうくるかと、リオトは眉を顰めて不愉快そうな、そして呆れたような顔をする。
「見苦しいぞトサカ。勝負は師匠の勝ちだ。オレの宣言どおり、師匠はアンタを負かした」
「お前はまたいつの間にそんな宣言を…」
背後から聞こえたカイナの小声には聞こえていないフリを決め込む。
すると、ブザビオは血走った目を剥いて今度はリオトを的にする。
「そ、そこのガキだ! こいつはそのガキをルート上で待機させて、次から次へと詠術で妨害を仕掛けやがったんだ! アムルスやゴルベーザの脱落だって、全部ライバルを蹴落とすためのこいつらの計画だ!」
リオトにまで火の粉をふりかけ、カイナを一位の座から引きずり下ろす算段なのだろう。
だが、ブザビオの言うことがでたらめな言いがかりであることはここにいる誰もが分かっていた。
「てめえ、いいかげんにしねぇと本気で…!」
しかしさすがにキレたのか、喧嘩腰でずい、と前に踏み出したリオトの腕を、カイナが掴んで止めた。自身よりも細い腕を軽く引き、下がりなさいとアイコンタクトを送るとリオトはしぶしぶといったふうに彼の後ろへ引っ込む。微風を孕んだ黒髪が真横をすり抜けた。
一歩踏み出して歩み寄り、カイナは言う。
「ブザビオ、この勝利に関して、私は貴殿にすまなかったと頭を垂れるつもりは無い。ただ、同じバイク乗りとして頼む。どうかこれ以上貴殿自身や私たちを含めたバイク乗りの誇りを穢さないでほしい」
真剣な声色が気に入らないらしいブザビオはカッと目を見開き唾を撒き散らしながら叫び返す。
「なにがバイク乗りの誇りだこのクソヤローが!! ナマ言ってんじゃねえ!! 首尾よく妨害が成功して優勝できたからってイイ気になりやがって!! きたねぇマネした奴がキレイゴトほざいてんじゃねぇよ!!」
野太い怒鳴り声が響き渡った。恐怖か気圧されたか、言い返す者はいない。
背後で殺気立つ愛弟子―――しかも詠力の流れを感じたのでおそらく黒魂魄を出して抜刀する気でいるらしい―――を振り返ることはせず手で制し、カイナは一呼吸おきながらゆっくり瞬きをすると、乱れの無い穏やかな声色で語り始める。
「私の愛機、ディーヴは元々昔世話になっていた恩師がこの世を去ったときに受け継ぐ形で譲り受けたものだ」
後ろで警護騎士の救護班に救出され、観戦会場に戻ってきたアムルスとゴルベーザが駆けてくるのを気配で察知する。
「当時恩師の逝去に哀惜していた反面、こいつが私の愛機なのだと言えるようになったときは不謹慎だが本当に、とても嬉しかった。彼の誇りとともにディーヴを受け継ぎ手にできたことこそが、私のバイク乗りとしての自慢であり誇りだ」
固く握った右手の拳を左胸に添え、カイナはブザビオをまっすぐに見据えて続けた。
「貴殿のなかにも、きっとバイク乗りとしての誇りがあると私は信じている。それに、なにがどうであれ、この街に来て貴殿やアムルス達と勝負ができてよかった。この広い世界の中でたださえ数少ない同志たちに巡り会えたのだから、こんなに嬉しいことは無い」
屈託ない笑顔をうかべて、笑う。
しかしその笑顔がますますブザビオの反感を買ったらしい。額の青筋がピキピキと音を立て、凹凸した黒い頬と太い唇は怒りに震え引きつっている。
「…っの、クソが!!」
ひきつる口元を無理やり制しゆがむ唇からこぼれでたのは、決して友好的な言葉ではなかった。
「認めねえ! 認めねえっ!! 優勝は、俺様のモンだあああっ!!」
ヤケになったか、ブザビオが拳を振り上げる。リオトが構えをとるが、先に動いたのはカイナだった。
「ちょっ! 師匠!」
いいかげん体力も詠力も一度に消耗しすぎてヨロヨロのくせに自身がそのことを忘れているかのように俊敏に動き出したカイナに思わずリオトが声を投げるが、彼は足を止めない。




