拾伍
「―――スピエルビター!!!」
右方向から複数の湾曲した白い筋が空を切って向かってくる。それはカイナたちに迫る巨岩を一瞬にして切り裂き、砂埃混じりの小石の雨へと変えた。
上から降ってくるそれらはまるで霰のように少し痛みを感じる程度に体を叩いていくが、愛機もろとも巨岩に押し潰されるよりは万倍マシだ。
そのままその場を走り過ぎ少し離れた場所で前輪を軸に後輪を滑らせてバイクを止めると、この場のどこかにあるはずの黒を探した。
「今の声は…」
その黒は少し離れた絶壁の上にいた。黒の長髪と燕尾のように二つに分かれた長い裾を荒野の乾いた風にはためかせ、黒は立っていた。
「あれ、お前んとこのロン毛小僧じゃねえか!」
カイナを視界に捉えたリオトの表情が安堵に緩み、目に見えて肩を大きく下げた。隣に止まったアムルスがこの場にいるはずの無い姿を認識し目を丸くする。小僧と言うあたり、アムルスはリオトが女だとわかっていないらしい。
そのとき、リオトのそばにある岩陰からなにかが飛び出し、飛びかかる。
気づいたリオトが応戦する。
陽光を反射し迫る鋭利は剣。それを手にしているのはオレンジがかった朱色の髪に右手首に赤のバンダナを巻いた男。ブザビオの手下だ。
「封欺解呪!」
顕現させた黒魂魄を右手で逆手に持ち、左手で鞘をわずかに抜いた状態で柄と鞘の間からのぞく刃で剣を受け止める。間合いをある程度詰められていたせいで鞘を完全に抜き放つ暇がなかった。
「この間は世話になったなあガキィ?」
「なあに、気にするな。こちらこそ大人げなくブチ切れて悪かったな。思わず加減を忘れてイテコマしてしまった」
リオトの言い方が気に食わなかったのか、男はひくりと片眉を揺らした。
「リオト!」
下から名を呼ぶ師の声がした。声色にはわずかな不安と焦りが潜んでいる。反し、戦闘狂モードに入ったリオトの表情は明るいものだった。
「ここはオレが引き受けた! 行けバカ師!」
こちらを向かずに叫ぶと、鞘から刀身を完全に抜き放ち、ガキンとソードを弾いて、飛び退り体勢を立て直す男に追い打ちをかける。
あの心底楽しそうな表情が消えない限り、きっとあの子に負けはないだろう。
カイナが笑った。
「では、任せたぞバカ弟子!」
再度エンジンを吹かせ、アクセルを回すと、バイクを旋回させてアムルスと共にコースを走る。
「ゴルベーザは!」
「先に行ったみてぇだ! 俺たちも急ぐぞ!」
「ああ!」
低いエンジン音を響かせて岩木を抜けて谷間へと入っていく二つの背中を見送り、リオトは正面の男をまっすぐに見据える。
「さあ、来いよ。何度でも叩きのめしてやる」
「この間はガキ一匹だと思って油断しだが、今日はそうはいかねえ。泣きっ面かかせてやるよ」
視線がぶつかり、得物の切っ先が互いを指し合う。
その時、足元に浮かび上がる光る黄土色の円。紛れもなく詠唱陣であるそれの出現はリオトの予測範囲内だった。
一度身を低く屈ませてから、思い切り地を蹴ってバネの要領で宙へ高く飛び上がる。岩陰で同じ黄土色の詠唱陣の中央に立っている、首にバンダナを巻いた朱色の髪の男を術者と認識したリオトは剣を構えていた男の頭上を通り過ぎながら投擲ナイフを左手に握ると、そのまま体を捻りながらナイフを放って牽制。術者の男は詠唱を中断し後退した。
剣の男の背後に降り立ったリオトは即座に地を蹴って駆け、術者の男を仕留めにかかる。
しかし、背後には既に気配が迫っている。術者を仕留めるには間に合わないと判断したリオトが足を止めて振り返ると、すでに拳は目前にあった。地を転がってかろうじて避ければ、やはりバンダナを二の腕に巻いたホモの拳闘士がいた。
立ち上がり黒魂魄を構えなおしたリオトの背後には剣の男、前方にはホモの拳闘士、その奥には術者が一人。
―――…ん? 一人?
以前に森の中で戦った時は、たしか術者が二人いたはず。まさか、とリオトは眉をしかめた。
その様子を見た拳闘士の男は嘲笑う。
「一人足りないって? 俺たちだってバカじゃない。なにもここに全員集結しておく必要なんかねえだろ? 俺たちが受けた命令は二つある」
口を閉じると、今度は奥にいる術者が口を開く。
「一つは一周目は手を出すな。二つ目は、」
最後にしゃべったのは背後の男。
「俺たちでお前を足止めしろ。一人はその隙に奥のコースで待ち伏せろ」
なるほど、とリオトは感心したようにうなずくと、黒魂魄を肩に担ぐ。
「ようするに早急にお前ら全員を八つ裂きにしたあと残り一人とあのトサカを地獄に送ればいいわけだ」
すでにスイッチが入っているリオトは強気に、不敵に笑う。その殺気と威圧感に気圧され、男たちのなかにわずかな恐怖が芽吹く。するすると手を伸ばす恐怖の蔓草は男たちの心身をからめとり縛り上げる。
その場に縫い付けられでもしたかのように、得物を構える動作は鈍かった。
拳闘士の男が構えるのを見て、奥の術者の男は思い出したように強張った体を動かして構える。背後でも布が擦れる音がした。
「いくぞ!」
荒々しく叫んだ皮切りの声はリオトへの威嚇か、それとも自身や仲間への気付けか。
*
リオトにあとを任せて全速力でひた走り、二つ目の谷に入って二十秒。
強風を真正面から受けてもなお荒野の上で一寸の乱れもなくそそり立つ赤色と、その斜め後ろを走る青い背中を見つけた。複雑に入り組んでいる谷ではまっすぐ走れないため、多少速度が落ちるのだ。
周回は残り一周半を切った。
「おっと…!」
谷を抜け、前方三十メートルほど先に立ちはだかる岩塊を認識し、冷静に、しかし勢いよくカイナはハンドルを切った。
車体とともに、体がグワンと揺れる。
続いて断崖絶壁の隘路に入り込み、選手達は神経を研ぎ澄ます。
すぐ隣で手招きする死神を振り切り、四人の中で三番目に隘路を走り抜けたカイナは一先ず詰めていた息をそっと吐き出した。背後では最後に隘路を抜けたアムルスが同じようにぷい~と間の抜けた声ともに安堵の息を吐き出す。その顔が疲労を帯びていることが振り返らずとも容易に察することができ、カイナは笑った。
間もなくして、四人は自然が手がけたアートとでも言うべき岩のアーチをくぐり抜けていく。並び立つ間隔も、大きさも、太さも、何一つまとまりの無いそれらの脇をすり抜け進んでいくと、不意に視界の隅を何かの影が掠めた。
それはブザビオだった。カイナやアムルス、ゴルベーザがコースのほぼ真ん中を進んでいるにも関わらず、彼だけは何故かコースの端を壁に沿って進んでいる。
別段コース内の走行位置の規定まであるわけではないのでコース内のどこを走ろうが彼の勝手ではある。―――あるのだが…。
あの男がロクな人間ではないと判明している今、彼の一挙一動をいちいち訝ってしまう。
自身の疑り深さに自嘲の笑みをうかべてふっと息を吐き、顔を上げたそのときだった。
前触れもなく、こちらを振り返るブザビオと目が合った。突出した眼球をまぶたで半分ほど覆い、少々黄ばんだ歯を見せてニンマリと気色の悪い笑みをうかべている。
―――なんだ…?
おそらく、やつの企みはまだ終わっていない。しかし舎弟たちは今ごろ愛弟子にシバき倒されているはず…。
ではなんだ。いったいなにをするつもりなのか。
カイナが眉を潜めていると、二十メートル先を走っているゴルベーザのバイクのマフラーが大きく吹いて振動し、見る見る速度を上げていく。
「今が好機!」
「よっしゃあ! このまま一気にあのトサカを追い抜いていくぜ!」
ブザビオが先頭から退いたことでチャンスと見たらしいアムルスもアクセル全開で彼のあとに続いた。
そこでブザビオの顔が悦に歪み、右手が動いたのを視界の端に捉えたカイナが叫ぶ。
「よせ二人とも! 罠だ!」
言い終わるか否かのところで、三人がいる地点からの七十メートルほど先に佇む岩のアーチの根元に前触れもなくピシリと亀裂が走り、やがて崩れ出した。
賞賛に値する自然のオブジェからただの巨岩となりながら、地に落ちていく岩石が猛獣の唸り声にも似た、腹の底にまで響くようなすさまじい地響きを辺りに響かせながら広範囲に砂埃を巻き起こす。
「なっ?!」
「マジかよ!?」
突如たることに反応はできても対処まではできない二人はなすすべもなく砂埃の中に呑まれていく。
「くっ…!」
カイナはハンドルを切り、巻き込まれぬよう停車して砂埃を吸い込まないようにマフラーを口元に押し当てる。
「アムルス! ゴルベーザ!」
徐々におさまっていく砂埃の中に二人の姿を探すが、見えてきたのは崩れ落ちてきた巨岩たちのみだった。
何度か名を叫んでみてもそれに返す声はない。カイナが奥歯をかみしめる。
振り返りブザビオを探すが、どこにも姿は無い。すでに先に行ったようだ。
「くそ…!」
アクセルを回し、後を追おうとしたそのとき、
「うぇ、…けっほけほ…!」
岩石の向こうから苦しそうな咳嗽が聞こえた。
「アムルス!? アムルスか!?」
再び岩石の向こうへ声を送ってみる。少しの間咳き込む声が続いていたが、少しして、今度は弱々しくも確かに彼に返す声があった。
「おー、カイナ…。無事か…。いてて…!」
「お前達こそ大丈夫か?!」
少しでもその声をはっきり聞きたくて、カイナはバイクから降りるとゴーグルを一度額あたりまで上げながら岩石の側へ走り寄る。
「おう。俺もゴルベーザも動ける程度にはなんとか五体満足だ。ただ、」
言葉を切ったアムルスは一度空気をゆっくり吸い込んでから、ため息とともに言葉を発した。
「俺とゴルベーザのバイクがハデに転んで負傷した。まだ走れるかもしれねえがどのみちこの岩に囲まれて身動きが取れねぇ…」
「そうか…」
ということは、彼らはここで脱落となる。無事であることに心から安堵してはいるが、よりによって一番真剣に競い合える好敵手と言える二人が脱落し、カイナはうなだれた。
縦に五メートル、横に三メートルほどもある目の前の巨岩を退かすにも、どう考えても三人では無理そうだ。大剣を出したところで二人にまで傷を負わせてしまうかもしれない。それならばおとなしく発煙筒で近くに待機している警護騎士に救助してもらうほうが安全だろう。
「貴公、たしかカイナ・ベスティロットといったな。貴公を誇りある同志と見込んで頼みがある」
岩の向こうから降ってきたのはやや野太い声。ゴルベーザだ。
カイナは顔を上げて次の言葉を待つ。
「俺達の無念を貴公に託したい。
―――どうか、勝ってくれ」
まっすぐで、切実な、強い思いがこめられた言葉だった。眼前の物言わぬ冷たくて無骨な岩石が視界も距離すらも遮り、、なにをしたところで相手には言葉以外伝わらない。
しかしカイナは、強く頷いた。
「全力を尽くし、必ず、貴殿らに報いると約束する」
ゴルベーザは安心したようにこわばらせていた表情をふっと崩し、かすかに笑みを浮かべる。
「恩に着る」
「頼んだぜカイナ!」
二人の思いを受け取ったカイナはゴーグルをはめ直し、愛機に跨った。
「任せろ」
マフラーをいじって鼻から下を覆い、ハンドルを捻ってエンジンを吹かせる。
「ディーヴ、久々に飛ばすぞ。少々手荒い操縦になるが許してくれ」
相手は物言わぬ鉄の馬だが、それでもカイナは断りを入れ、愛おしげに装甲を撫でる。
アムルスやゴルベーザのため、クルザ父娘のため、手伝ってくれた弟子のため。そして、くだらないかもしれない。けれども捨てられないバイク乗りとしてのプライドのために、なんとしても勝たなくてはならないのだ。
例え誰かに笑われたって構わない。この勝負だけは、小悪党なんぞに譲れるものか。
「いくぞ───!!」
アクセルを回し地を蹴って、低いエンジン音を響かせながら鉄の馬はカイナを乗せ、地の彼方へと走り出した。




