拾肆
解説係が一際大きな声でレース開始を告げた。
五人がエンジンを吹かせ、アクセルを回したのはほぼ同時だったように思う。まき立つ砂埃が晴れる頃には、すでにスタート地点には誰の姿も見えなかった。
すると、あちこちで待機していた警護騎士達数人がコース上に足を踏み入れ、なにやら一斉に詠唱を始めた。全員の足元には濃い紫色に淡く光る詠唱陣が浮かび上がり、微風が巻き起こる。
「何してんの、あれ」
「あれは選手たちを追跡、監視するために闇の詠力の塊を飛ばしてんだ。大掛かりだから、かなり人手がいるらしいけどよ。あともう少ししたら映るさ」
「映る?」
クルザの説明の矢先、観客席の上空に、等間隔で横幅の広い大きな長方形の光の塊が四つほど音もなく出現する。光が紫であることから、これらも警護騎士たちによる詠術のようだ。
すると、その長方形の光の塊に徐々になにかが映し出される。
少しぼやけているそれは、やや荒れた道を砂埃を纏い走りゆく五つの背中。
「あれは、師匠たち?」
「今は後ろから映してるみたいだね」
やがてハッキリと映りだし、現在の順位が明確になる。
『おぉーーっと! ブザビオ選手! いきなりトップを爆走中だああああぁ!! その三メートルほど後ろにゴルベーザ選手が続く! 約七メートル後ろにはアムルス選手とカイナ選手! その十メートル以上後ろにはバージィ選手! あれほど脂肪を落としときなと昨年にワタクシ忠告差し上げましたよおおおぉ?!』
───本気出せばたぶん師匠の方が速いから、今はアムルスと一緒に様子見か……。
最後尾のギンギラギンはどうか知らないが、少なくともゴルベーザも様子見といったところだろう。三年連続二位入賞ならば、彼が一番レース中のブザビオの行動を見てきたはずだ。
「今年は参加者が五人だけど、これって多い方? 少ない方?」
「平均、ぐらいかな。昔は多くて十から十五人弱ぐらいだったから」
と、そこで急にレインが口元に手を添えておかしそうに笑い始める。
「そういえば、かなり前に一度だけすごい記録だして優勝した人がいたよね。お父さんも他の人も、誰も適わなかった」
「それは言わんでくれ……。今思い出しても腹が立つ……!」
クルザが苦虫をかみ潰したような顔で肩を落とし、持ち込んだ簡素な木の丸椅子に座り込むと、レインがくすくすと笑う。
「へえ。そんな人いたんだな」
「リオト」
振り返れば、そこに立っていたのは仙人。
ではなく、この前と同じ紺色の甚平に下駄をはいたラフな姿の玄次郎だった。
「おう。玄じぃ。観に来てたのか」
両手を背中の後ろで組み、少し背を曲げた体勢でリオトたちに歩み寄る。
「暇じゃしのぅ。散歩がてら来てみたんじゃ。ところでリオト、あのアムルスの隣の若造は名はなんという?」
ということは、選手紹介の時にはまだ観客席にいなかったらしい。
唐突にそう問いかけてきた顔が思いのほか真剣だったせいか、それとも玄次郎が指さしたのが思いがけず恩師だったからか。驚き少し呆気に取られたリオトは、目を丸くしつつも口を開く。
「あ、ああ。あれがオレの師、カイナ・べスティロットだよ」
左手は後ろへ回したまま、右手で長い顎鬚を撫でながら、玄次郎は考え事をするようにわずかに俯き、何度かぼそぼそとカイナの名を反芻する。
「玄次郎さん、カイナさんをご存知なんですか?」
俯いている玄次郎の顔をのぞき込もうとするようにレインが首をかしげる。小さな顔の両脇に垂れている髪の毛が揺れた。
「いや、まぁーったく知らん」
ぴしゃり。ある種の期待を裏切れたレインとリオトは勢いよくがくりと肩を落とす。
「なんじゃそりゃ……」
「アムルスのほかにも知り合いにバイク乗りがいたんでの。知り合いかと思ったら違ったわい」
「ああそう……。オレちょっと用事あるから抜けるわ。またあとでな」
藪から棒にそういうと、リオトは人の間を縫って観客席を出ていく。
「えっ?! リオトちゃん!?」
「オレの分まで師匠とアムルスの応援よろしく!」
早くも活気が最高潮になりつつある観客席で、とっさにレインは飛び出していったリオトを呼び止めようと体ごと振り返るが、足が早いのか人ごみのせいか、リオトの背中はすでに見えなくなっていた。
「もう、リオトちゃんたら……!」
両手を腰に当ててため息とともに肩を落とす。
レースの観戦と応援を続けようとレインは体の向きを戻すが、玄次郎は未だ真剣な顔つきで頭上の長方形の光の塊に映り込む試合中継を見ていた。
いつもよりも乗りやすく、身軽で、スピードが出しやすく感じるのは、装備一式を弄った成果か、それともレースのために旅の荷物をすべて下ろしてあるからか。
ディーヴを走らせているときは大抵旅の道中の移動の時なので、いつもの温もりを感じない背中と腹部に妙な寂しさを感じた。
その代わり燃料である自身の詠力の消費はいつもに比べて格段に少なく、そしてスピードが出やすくなっている。
速度を上げるタイミングを考える必要はあるが元々カイナの詠力は人並外れて高い。
これなら、優勝出来るかもしれない。
だが問題はあの男だ。カイナは四、五メートル前でまるで蜂かなにかのようにブンブンと大きなエンジン音を響かせて走る赤いトサカを見る。隣でアムルスがサイレンサー付け忘れたんじゃねぇの?と呟いた。
「アムルス、しばらく様子を見よう。下手に動くな」
ほぼ隣に並んでいるし、二人のバイクのエンジン音は聴覚を遮るほど喧しくはないから届くだろうと声を投げれば頷きと共に声が返ってきた。
「あいよ。そっちこそ脱落すんなよ! お前とは最後まで張り合いてぇからな!」
「了解した」
コースは八百四キロ。制限時間は十五分。優勝するには分速で百キロオーバーする必要がある。ラストスパートまで詠力を温存し、ブザビオの出方を見ることにする。
草一つ生えていない乾いた荒野を駆けていると、やがてとても狭い谷間が見え、その両脇には警備にあたっている警護騎士たちが旗を振ってその谷間を進めと教えてくれていた。
谷間に差し掛かる直前に、ゴルベーザが速度を上げ先頭へ出ようとするが、ブザビオがそれを許さない。同じように速度を上げで先頭を守りきり、谷間に入り込んだ。
バイクが一台通るだけで限界であるほどに狭いこの谷間では、並列することが出来ないため一度入ると谷を抜けるまで前方を走る選手を抜かせない。そこで先頭になりさらに速度を上げれば、後ろとの距離がかなり稼げる。
ゴルベーザはそれを狙ったようだが、当然ブザビオも気づいていたのだろう。
わずかに速度を落としたアムルスに先に行けと前を譲られカイナも谷間へ入る。ゴルベーザ越しに嫌味たっぷりのしたり顔で肩越しにちらりと後ろを見るブザビオの顔が見えた。それはゴルベーザに向けられたものだとは思うが、二割ぐらいはカイナに向けられたものと考えられなくもない。
怒りか悔しさか、ゴルベーザの肩がわずかに力んだ気がした。
日も遮られわずかに薄暗く、かつ緩いカーブが続く谷をしばらく走り、谷を抜けると今度は大きな岩が立ち並ぶゾーンへ入る。
風化でできたのか、真ん中がちょうど人の括れのように細くなっているものや、ひし形のように逆に真ん中が太くなっているもの、ときには見方によっては枝分かれしたサボテンや人の姿にも見える、ある種のオブジェのようにも見えるものなど、様々な形をした岩々が点在している。
それらの間を縫うように駆け抜け、再び谷へと入り込む。今度は岩肌が鍾乳洞のように垂れ下がり、道筋が迷路のようにぐねぐねと入り組んでいる。
―――一本道じゃなかったら確実に迷子になっていたな…。
両脇の岩壁にぶつからないよう注意しながら、しばらく道なりに走り続ける。
すると、不意にブザビオが速度を緩め、ゴルベーザとの距離を自ら縮めた。
なにをする気なのかとゴルベーザは眉を顰めて訝しみ、カイナもまたブザビオの一挙一動を見張るが、その表情は見えない。
あまり車間が開いていない状態で前を走られるのは正直鬱陶しいが、これは追い抜くチャンスだ。
この谷を抜けたら一気に速度を上げて追い抜かそう。そう考え、ゴルベーザはハンドルを握りしめる。
そして十秒後、道が拓け、谷を抜けた。
だがブザビオの方が三秒早かった。一気に力いっぱいハンドルを手前に捻りあげる。
急な超加速操作にブザビオのバイクは嘶く馬の曲芸のように後輪だけで直立すると同時に、回転速度を上げたその後輪が激しい砂埃を発生させた。
それは当然、背後のゴルベーザたちを直に襲う。
「貴様っ―――ぐっ!」
砂埃はすぐ後ろにいたゴルベーザに直撃し、視界を奪う。
「おぉっとすまねえ! ちいと勢い余っちまった!」
沸き立つ砂埃の向こうから演技がかった心にもない声が投げかけられる。驚きと警戒から、ゴルベーザのバイクの速度が下がった。
カイナも砂埃を吸い込まぬようリオトから借りたマフラーを左手で握りしめ口元に押し当てる。少し吸い込んだのか、後ろからけほけほと軽くせき込むアムルスの声が聞こえた。
「大丈夫か」
「へーきへーき! ったくやってくれたなあの雄鶏!」
肩ごしに振り返れば、アムルスは左手を軽く上げてニッと歯を見せて笑う。しかし目じりには若干の水滴。
やがて砂埃が晴れてきたが、正面にブザビオの姿は無かった。
カイナたちの二メートル前まで下がってきたゴルベーザにも大した外傷は見受けられない。
砂埃ぐらいなら自然に発生するものであり、はっきりと妨害とはみなされにくいギリギリのもの。それを目くらましに、ブザビオはカイナたちを振りきった。 これで約五キロは突き放されただろう。
すぐさまゴルベーザは速度を上げ、カイナとアムルスもそれに続く。
昔に小爆発でもあったのか、小さなクレーターがぽつぽつとできている広い荒野を駆け抜け、かなり風化してアーチ状になった岩々が一定間隔で連なる下を潜り抜ける。
左は岩壁、右は底知れぬ崖、バイク一台ならかろうじて走行できる程度の道幅だが一歩間違えれば奈落の底へ真っ逆さま、そんな危険な文字通り崖っぷちの道を突き進んだ。道が拓け、広大な大地が太陽光を反射し、遥か彼方の地平線で揺らめく陽炎の中にブザビオの姿を見つけた。その奥にはレースの観戦会場。
これで一周目。レース優勝の条件はコースを三周すること。まだまだ巻き返すことは可能だ。ブザビオを筆頭に観戦会場に入り、観客たちは各々で声援をあげる。ゴルベーザやカイナ、アムルスは六十秒遅れで二週目に入る。
解説役が現在の順位を述べ、観客たちは盛り上がっていた。
ここからは徐々に距離を詰めていく。
観戦会場を通り過ぎ、まっすぐに走って警備兼誘導にあたっている警護騎士たちの脇をすり抜け、ブザビオの五メートル後ろにゴルベーザ、カイナ、アムルスと続いて狭い谷に入る。
ぐんぐんとゴルベーザが追い上げ、感づいたブザビオが飛ばす。カイナとアムルスも追い上げる。
ブザビオが一度肩ごしに振り返る。そのふてぶてしい顔にはまだ余裕があった。
速度を上げているからか、一周目よりも早く谷を抜け、岩の林を走る。
ふと、何かに気づいたカイナは頭上を仰いだ。
澄み渡る蒼穹を背景に、何か、なにか小さなものが横切り、カイナたちの数メートル先にある砂時計のように真ん中あたりが細くくびれている岩木の、そのちょうどくびれの部分に当たった。それは音こそ聞こえなかったが、しかしその岩木のくびれ部分にピキピキと亀裂が走る。
最初は大まかに入った亀裂が、徐々に細かくなる。ブザビオが通り過ぎた二秒後には岩木が三人に向かって崩れ落ちてくる。まるでタイミングを見計らったように。
「ちょおおおおおいいいいぃぃ?!!」
アムルスが血色を青くして叫んだ。カイナとゴルベーザは驚き目を見開く。
岩木が大きすぎるため避けても速度を上げても、詠術の詠唱も間に合わない。
イチかバチか。詠唱を始めかけたそのときだった。
「気随にして無垢なる風神の御子、戯れの天つ風は駆け抜ける疾風のごとく―――」
借り物のマフラーのにおいを纏った風が、カイナの頬を撫でた。




