参
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ガシャン、と音を立てたのは、屋根に規則正しい列を成して並べられた赤い瓦。突如急な重みが上からのしかかり、強く踏みつけられた瓦が擦れ合い、ぶつかり合ったからだ。
その瓦を踏みつけている張本人は、あろうことか人だった。
本来人が登り通行する場所ではない屋根に立っているその人物は後ろで二つに割れた燕尾のような外衣の裾とマフラー、長い黒髪を風になびかせてキョロキョロと周囲を見回す。
そして、ある位置で視線が止まった。
「いた……」
視線の先にいるのは屋根の突出した部分の上で丸まって寝ている一匹の白い猫。
リオトは下にいる師、カイナに向かって手を振ったあと、猫がいる方向を指さす。するとカイナは頷き、リオトが指さした方向へ向かう。二人が声を発さず身振り手振りで合図を送り合うのは、声に驚いた猫が逃げないための配慮である。
リオトが立っている建物の正面、猫がいる屋根の真下に回り込む師の背中が見えなくなったことを確認したリオトは未だ呑気に日向ぼっこを楽しむ猫に向き直り意を決す。
リオトは屋根の上を歩き、気配を消すこともなく無造作に猫に近寄る。すると、気配を察知した猫は顔をあげ、リオトの姿を目視するなり、弾かれたように体を起こす。
リオトは器用に屋根の上をかけ、ガシャガシャと瓦を踏み鳴らして猫を追い立てると、当然猫は逃げる。計算通りだ、と、リオトが余裕の笑みを浮かべたのも束の間、計算外の出来事が起きた。
「なんだとぉ!?」
リオトが思わず叫んだ。
確かに猫はリオトを敵と認知し逃げた。そこまではいい、問題は猫が逃げた方向だった。
計算ではリオトに追われ屋根から飛び降りた猫をカイナが受け止めておしまい、だったのだが、猫は二人の予想の斜め上をいった。猫は屋根から飛び降りず、軽やかなステップで瓦を踏み、持ち前のしなやかな体躯を活かしてリオトから向かって左側の、隣の建物の屋根へ飛び移ったのだ。
「相手は猫だと少々侮っていたな。リオト! 追うぞ!」
「はい!」
大きな返事を返したリオトは勢いよく屋根の上を駆け出し、隣の屋根に飛び移る。リオトの身体能力は昔からそれこそ猫のように高かった。
逃げた猫を追い、リオトは屋根の上を、カイナは街の裏通りをひた走った。
猫の逃走劇は終わらない。屋根から屋根へと飛び移り、走り続ける。そのあとを追うリオトも長い黒髪とマフラーをなびかせて追い続ける。
リオトの十メートル先を逃げ続ける猫が、またふわりと宙に身を投げた。しかし、その先に建物はない。猫の低い目線では、その先が見えなかったのだろう。
運が悪いことに、今リオトと猫がいた建物は大概二階三階建てだった他の物と比べて数メートル高い。さすがの猫でもこの高さから落ちれば無傷では済まない。
「マジか、───よっ!!」
かまわず言葉の最後に力を込め、リオトもまた空中へと飛び込んだ。猫に手を伸ばして抱き寄せ、未だ宙にあるままの体の体勢を器用に変え、着地。
「ぷは……」
かなりの負荷のかかった衝撃に足が耐えきれず、跪いていた体勢からバランスを崩して尻餅をつく。
腕のなかの猫はケロッとした表情をしており、怪我はないようだ。
「まったくこいつめ……」
尻餅をついたまま安堵の息と共に呟くと、腕や指に痛みが走り、リオトは顔をしかめて叫んだ。
「いたっ?! あだだだ!」
すぐに腕の中を見やると、さっきのリオトの呟きが気に食わなかったのか、白猫が容赦なくリオトの腕に爪を立て、指に噛み付いていた。
「ちょっ! いだだだ! 痛いってば! ご、ごめんごめん悪かったから!」
謝り倒さん勢いで下手に出て猫をなだめるが、大した効果はない。
「し、師匠助けてください! ってまだ来てないしまた迷ってるのかあの人……!」
声高な助けを求める声に答える声は未だ来ず。危険物を取り扱うかのように猫を文字通り猫つまみにして自身から離し、リオトは周囲を見渡す。
そこは人気のない広い空き地だった。建物と建物のあいだに張り巡らされた縄に干された洗濯物が穏やかな波間のようにそよ風に揺れはためいており、二歩三歩と歩くリオトの足音が大きく響く。
「裏路地かな。表の通りに戻るには、上しか無いか……」
街中へ戻るべくあゆみ出したリオトは道がわからないので再び建物の屋根へ飛び上がる。
「さあて師匠はどこさ迷ってっかな~」
屋根を伝って移動しながら、下に見える日差し射す通りや建物の影差す隘路をキョロキョロと見回す。カイナの眉目秀麗な容姿はいろいろな意味で目立つ。すぐに見つけられるはずだ。
「おろ?」
視点がある一点に止まったことで足が自然と止まり、ブーツの厚底が屋根を叩いてタン、と音を鳴らす。
見つけたのはリオトが心から敬慕してやまない恩師、ではなく、通りを歩いているつい数時間前に昼食を共にした少年。
「レイグ!」
「え、───わっ!!?」
名前を呼ばれ立ち止まった直後、後ろや前からではなく上から降って現れた人物に驚き思わず後ずさる。
「り、リオトさん!?」
「師匠見なかった?」
「カイナさんですよね? 見てませんけど……」
「そうか……。わっ! コラコラ! 暴れるなって! あと爪も牙も立てるな!」
悲鳴をあげるリオトの腕の中にレイグは目線を持っていく。目に止まったのは、肉球がついた小さな手の爪を立て、放せと言わんばかりにジタバタと暴れる白い猫。
「レイグ! 悪いけどパス!」
「ちょっ!? っとと!」
突如として乱暴に自身の胸へと放られる白猫。反射的に腕を広げて受け止めると、白猫はすっぽりとレイグの腕のなかに収まり、途端にさっきの暴れん坊っぷりとは打って変わってまさに借りてきた猫のようにおとなしくなった。
「ったく……。オレは動物に好かれないタチだから、動物苦手なのに……」
ごく軽いものばかりだがいくつもの赤い引っかき傷や咬傷ができた両手や腕をさすりながら、リオトは深いため息をついた。
「この子、どうしたんですか? あとカイナさんも」
「それが、お前と別れたあとしばらく街を散策してたんだけど、その途中で飼い猫がいなくなったって泣いてる子供がいてさ。師匠って子供好きだから、見つけてきてやるって安請け合いしちゃって…。それで猫探してるうちに師匠とはぐれたんだ。あの人ちょっと方向音痴だから多分今頃街中をさまよってると思う…。レイグこそなにしてんだ?」
「僕は買い物です。一度家に戻ったんですけど、今日の夕飯の材料が無くて…」
そこでレイグは、何かを思いついたらしくあ、と呟いてリオトに申し出た。
「よかったらカイナさん探すのお手伝いしましょうか? 失礼ですけど、まだ街の通りとか造りとかあまりわからないでしょう?」
「それは願ってもないが、いいのか?」
「もちろん!」
屈託ない笑顔で了承され、なんだか妙に罪悪感が湧き上がるが、道がわからずカイナと入れ違いになるのは避けたいのでここはレイグを頼ることにする。
「じゃあお願いしようかな。ついでに師匠と合流するまでその猫も頼むよ……」
「了解です! じゃあとりあえず表通りに出ましょうか。こっちです」
歩き出したレイグに続き、リオトは隣を歩く。
「ところで、買い物するのになんでこんな裏通り歩いてたんだ?」
視線だけをレイグに向け、リオトが問いかける。
「うちは街の端っこにあるので、店がある大通りまで遠いから、この道使えば近道なんです」
「こんな人目につかないところ通るから絡まれるんだよ」
腕を組みながら呆れたように言うと、いろんな意味で返す言葉もないレイグは苦笑混じりの乾いた笑いを返す。
「あの、リオトさんはカイナさんと旅をしていると言ってましたけど、お二人とも御家族はどうしているんですか?」
そこに人がいるなら、その人には絶対に親という存在がいる。ただ気になったから聞いてみた。それだけだった。
「ああ、オレさ、小さい時の記憶無いんだ」
「え……?」
予想の斜め上を行く返答が、思わずレイグの歩みを止めさせた。レイグの足音がやみ、二歩先で止まったリオトも振り向きながら足を止めた。
「四年ぐらい前かな……。気がついたら知らない場所で倒れてた。名前とか家がどこだとか、自分の事はなにもわからなくて、過去の記憶の一切が無くなっていた。あのときはさすがに周りが怖かったよ。ちなみに、師匠も家族はいないってさ。前に聞いたらそう言ってた」
出てくる言葉とは裏腹に、リオトは軽い口調で答えた。
レイグは想像した。自分の事も世界のこともなにもわからなくて、頼れるものも人もいなくて、知らない場所にたった一人で立っている自分の姿を。どんなにとてつもなく怖くて、心細くて、寂しくて、辛いだろう。
二人の間に沈黙が降り立ち、レイグが申しわけなさそうな、しかしどう言えばいいかわからないという困惑したような表情をうかべる。
するとリオトはげんなりした顔をして重苦しい沈黙をけたたましく破る。
「あーあーもう! この話すると聞いたやつ全員片っ端からそんな顔すんだからたまったもんじゃないよ! オレは自分が記憶喪失だろうが天涯孤独だろうが、べつにどーでもいい!」
「で、でも…、独りは、辛いです……」
リオトの勢いに押されながら、レイグがいうと、リオトはフンと鼻を鳴らして腕を組む。
「辛くなんかないさ」
体を前へ反転させると、長い黒髪がマフラーと一緒にゆらりと揺れる。
「今は、胸を張って名乗れる名前と、帰る場所があるんだからな」
「え? 今なんて…」
「なんでもねーよ。行くぞ」
「あ、待ってください!」
長い髪とマフラーを翻してスタスタと歩いて行くリオトの背中をレイグはあわてて追いかけた。




