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師匠と弟子の旅路録  作者: 蒼理アオ
参.激走バイクレース!
39/101

拾弐


 *


 ゆっくりとドアノブを捻り、開けた扉の向こうにひろがる暗闇がリオトに安堵の息を吐かせる。


―――良かった。師匠はガレージに籠ったまんまだ。このまま寝て『昨日は夕方に戻ったが疲れてねこけていた』というていで通せば、たぶんバレな…。


「使い、ご苦労だった。しかしこれだけ時間を要したということは、さぞかし険しい旅路だったのだろうな?」


 それは死刑判決にも似た、聞き慣れた穏やかな声色の中にしかし怒気が潜む声だった。

 チーンという悲しくも切ない音が響いた気がしたのは、きっと気のせいではないと思う。




 とりあえず風呂をもらってきなさい。説教はなしはそれからだ。

 というカイナの言葉に従い、リオトはリビングで片付けをしていたレインに断りを入れ――その際ケガはないかどこも痛くはないかとすごい勢いで詰め寄られた――、シャワーを浴びたあと部屋の前まで戻った。

 カイナが少なからず怒っていることは明白なので、部屋に入るのはかなり抵抗があったが、リオトは首にかけたタオルを一度握りしめると覚悟を決めて扉のドアノブを捻る。

 おそるおそるゆっくり扉を開き、入口と扉の間からそっと中を覗き見る。


「…ああ。戻ったか」


 リオトに気づき首を動かしたカイナは、左側の壁際に一つだけある簡素な椅子に腰掛け、本を読んでいた。


―――くそぅなにをしてもムダに絵になっているからむかつくんだこの人は…!!


 壁に頭と両の拳、そしてやりどころのない怒りを押し付け、ぐぬぬと唸る。

 スラリとした長い足を組み、部屋の隅に置いてある少量の荷物のなかから取り出したのであろうメガネをかけて読書に耽るその姿は非の打ち所が無いぐらいに、かつムダにかっこいい。

 ちなみにカイナは目は悪くないが、読書をするときはいつもメガネをかけている。今回読んでいる本はたぶん少し前に流れの露天商から割安で買ったものだろう。たしか題名は『人の思想と自然界における倫理学』とかいう小さくて普通の分厚さのわりには小難しそうな本だった。

 椅子から立ち上がったカイナは読んでいたページに栞を挟んで本を閉じながら、今度は向かいの二つ並んでいるベッドのうち手前のベッドに腰掛けると、外してたたんだメガネとともに小難しい本を脇へ置いた。

 そして、


「さて、座れ」


 軽い口調で言いながらやや大きめに開いた自分の“脚と脚のあいだ”をぺしぺしとたたく。


―――“そこに座れ”と?


 言われた意味が理解できないリオトは扉の前に立ち尽くす。


「す・わ・れ」


 今度は有無を言わさぬ強めの口調だった。それに反して顔は貼り付けたような笑顔だったので怖い。

 しぶしぶと、リオトはカイナの脚と脚のあいだにすっぽりと収まった。


―――この状態で何をする気なんだ…。


 彼の意図するところがわからない被告人《弟子》はただじっと裁判長《師》からの判決《言葉》を待った。

 すると、不意に首にかけていたタオルがするりと取られたかと思えば、直後にまだ水気を持つ髪の毛に触れられた感覚がした。


「よく拭かないと、風邪をひいてしまうぞ……」


 優しい手つきで髪がタオルにくるまれ、拭かれていく。てっきり改めて説教が始まると思い肩に力を入れていたリオトだったが、髪を拭かれる感覚が心地よくなり、だんだんと和んでいく。

 そして最後にタオルが頭に乗せられ、タオル越しに感じる大きな手のぬくもりに微睡み始めた時だった。


「さあ、そろそろ聞かせてもらおうか。私が任せた使いでどんな珍道中を繰り広げたのかをな」


―――なん、だと…?!


 不意に頭を強い力で鷲掴みにされ、背後から聞こえた言葉にさきほどまでの穏やかさは微塵も残っていなかった。この体勢ではそもそも振り返ることは出来ないが、リオト自身にも今振り返ってカイナの鬼の形相を見る勇気はなかった。

 油断させておいてからのお説教開始。かなりの人の悪さが伺える。


 シャワーを浴びたばかりのはずが、既に顔や背中には大量の汗が滴っている気がした。恐怖にぷるぷると子鹿のように身を震わせながら、リオトは青ざめた顔でぽつぽつと報告を始めた。

 

「―――それからブザビオの手下の相手をしていたら森の奥まで入り込んでしまい、帰り道を探して森をさまよい、やっと街に戻った頃には完全に日が暮れていたと」

「お、おっしゃふほおりえふ…」


 おっしゃる通りですと言ったのだが、後ろから頬をむにむにと引っ張られているため、正しい発音がままならない。


「へも、はーふのはいりょーはひふひまひたはら」

(でも、パーツの材料は死守しましたから…)


 カイナは自分たちの荷物の隣に置いてある袋を横目に見やる。布と革でできた白い袋の中には、リオトが回収してきたサユラ草とリコット鉱石が入っている。リオトは頬を引っ張られたまま正しくは、明日玄じいに渡してパーツ製作を頼んできますから、と続ける。


「まったく…」


 呆れ混じりのため息と共にようやく頬から離れた大きな手。代わりに今度はリオト自身がわずかに痛む頬に手を添え、さすった。


「私はそこまでしてくれとは言っていない」


 久しぶりに年甲斐もなくバイクに熱中してしまった自分の監督不行き届きが原因でもあることはわかっている。リオトが自分のためを思ってくれたこともわかっているし、レインのためとはいえブザビオの挑発に乗ったことについても責任を感じている。だから責任をとる意味で一人で材料集めに向かった。

 しかし、こちらも一応叱っておかなければ。


「お前は子供ではないし、戦うすべを心得ている。だからある程度の単独行動は構わない。しかし、街の外に出るときや本当に危険が伴うかもしれない時は私に言いなさいと言ったはずだ」


 リオトはむっとする。

 子供じゃないのに。戦えるのに。それでもまだカイナの庇護を受けなければならないというのなら、それではどれだけ武術を身につけたって、強くなったって、結局意味がないじゃないか。

 カイナに守られるのが嫌というわけではないが、だからといってリオトは常に彼の後ろにいて守られるだけのお荷物なるために一緒にいるわけではない。

 確かに自分はまだまだ未熟だ。それでも、彼と共に戦いたい。背中を守りたい。頼られたい。

 弟子として、ただ納得がいかないのだ。


「仕方がないから今ここでもう一度言おう。大きな危険が伴う場合や街の外に出るときは必ず《自分で》私に言いなさい。守らなかった場合チョコは没収だ」


 ぐっ、というリオトの小さな声が漏れた。大ダメージを受けた証拠である。だが、それでもリオトは首を動かさない。自分の弟子としての意地とプライドをわかってくれないのにおとなしくはいわかりましたと頷くのはいささか癪だった。

珍しくへそを曲げている弟子に、カイナがもう一度ため息をついた。

 こうなったら強行手段に出るしかない。


「わっ!?」


 突如強い力で肩を引っ張られた。急なことに対応できず、リオトの体は後ろへ倒れ、ベッドのスプリングが大きく軋んだ。

 とっさに閉じた目を開ければ、視界には天井を背景バックに妖しく笑うカイナが映る。


「っ! ちょっ…! なにすんですか…!」


 みるみる顔を赤くしてリオトは暴れ出す。だが力の差か、両腕は大きな手の強い拘束を免れきれない。

 逃れられないと悟ったリオトは動きを止めた代わりにとうとう耳まで赤くなった顔を必死に逸らす。男が女をベッドに押し倒すと言えば、その気が無くても連想してしまうことはただ一つ。

 なにを隠そう、リオトは《そういったこと》に一切の免疫を持たない類の典型的な例である。

 それでなくともカイナは世間一般のなかでも美形に振り分けられるタイプだ。くわえて紳士的な性格――女子供と老人に限る――にたくましい体つき、少し骨ばった大きな手、おまけに宿屋にいるときや今のようにリラックスしているときは白いワイシャツのボタンを二つ外しておりそこから見え隠れする鎖骨から胸元と、漂う男の色香。そんな男に押し倒されて見つめられて、意識しない女性がいるだろうか。

 いつも一緒にいて、彼の笑顔など何度も見て見慣れてきたさすがのリオトも、この状況では意識せざるを得ない。


「ししょ…、は、放して…ください…」


 絞り出したような小さな声にカイナの笑みが深まる。どれだけ強がって男のようにふるまってみても、やはり妙齢の女の子である。

 しかし、まだ終わりではない。


「ダメだ。言うことを聞かない悪い子には、仕置きが必要だろう?」


 まだわずかに湿り気を帯びている黒髪の間からのぞく小さな耳に顔を寄せ、わざと吐息とともに低い声を出す。

 案の定、リオトは肩を揺らして身をよじる。


「っ…! わ、わかりました! 今度からはちゃんと一言言いますから!」


 作戦成功である。


「本当だな?」

「本当です!」


 多少うるんでいる蒼色で必死にカイナの紅を見つめ返し、訴える。


「よし。いい子だ」


 満足そうにいつもと同じ優しく穏やかな微笑をうかべたカイナは、リオトの前髪の上から額辺りに口づけを落とし、リオトの上から退いた。


「私はもう少しディーヴを弄ってくる。お前は先に寝なさい。疲れているだろう」


 のっそりと上体を起こしたリオトは、してやられたと眉をしかめていた。それに苦笑したカイナは続ける。


「まあそんな顔をするな。ちゃんと感謝している」


 そこで背を向けると、そのまま部屋の扉まで歩み寄り、ドアノブを捻った。


「お使い、ご苦労だったな。ありがとう」


 扉の向こうへ去る寸前に、彼は肩ごしに顔を振り返らせてそう言い残し、静かに扉を閉めた。

 ガチャリと扉が閉まって、一人取り残されたリオトは靴を脱いでベッドに横になる。


「師匠のばか…」


 呟いて目を閉じるも、すぐにまた目を開けた。かすかにカイナのにおいがした気がしたからだ。残り香かと思いつつ首を上へ動かして気づいた、枕もとに畳んで置いてある白い外衣。カイナのものだ。

 無意識か否か、それに手を伸ばし、掴んで引き寄せる。大きな外衣をしっかりと抱きしめて、さっきまですぐそばにあった大好きな優しいにおいにうずまりながら、リオトは眠りについた。



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