漆
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今朝は久方ぶりにゆっくりとベッドで寝ていたリオトは左右の手にお玉と鍋を携えた奏者レインによる鼓膜を破らん勢いの高らかな演奏により盛大に顔をしかめて目を覚ました。
しかし、おはよう、リオトちゃん。なんて言いながら可愛らしい笑顔を向けられてはどれだけ腹がたとうとも紳士精神を立派に師から受け継いでいるリオトは未だ鼓膜に張り付いている甲高い音とそれによる軽症の頭痛による不快感に顔を顰めたままでいても、レインに怒号を飛ばすことはなかった。
顔を洗って顔と気分をいくらかスッキリさせたリオトはレインとクルザ父娘と朝食をとったあと、依然としてガレージにこもりきりのカイナに朝食を届け終え、暇になったところで買い物に付き合って欲しいというレインの誘いを快諾し、二人で外に出た。
太陽が朝の肌寒さを退かせ、その熱を今から最大限に放出する準備を始める午前十時すぎ。軒を連ねる部品屋や鍛冶屋、その他の店が店開きを始め、工房からは作業をする音や声が、通りを行き交う人の数が徐々に増え騒がしくなり始める。
視界と耳に入るのは男たちの野太い声ばかりだが、不思議と暑苦しさは感じなかった。
「付き合わせてごめんねリオトちゃん」
「いや、暇だったし、さっき朝食届けたときに師匠からお使い頼まれたから、外にはちょうど用事があったしいいよ」
フォローを入れると、ありがと!とレインは嬉しそうに笑った。肩を並べて歩く二人は他愛もない話をしながら晴天の下を歩く。
「オヤァ?」
今まで気がつかなかった。よくみたら知り合いだった。偶然出会って驚いた。
そういった不意をつかれ驚いた場合に出る言葉の筈なのに、その声に驚きの色は含まれていなかった。
まことに遺憾なことにその声に聞き覚えがあるリオトは瞬時に眉を顰めて足を止める。その隣で、レインもまた歩みを止めていた。
「誰かと思えばレインじゃねぇか」
この声はおそらく自称孤高のスーパーライダー、ブザビオ・ブッチ・ブッチャーだ。
名を思い出したリオトは再び吹き出しそうになる口元を必死で押さえる。
すると、後ろからずかずかと巨大生物が歩くような地響きにも似た音がする。ブザビオが歩み寄って来ているのだろう。
リオトはそっこく争いの火種を消し、平常心を取り戻すことに努める。
「リオトちゃん、行きましょ」
「え、ああ…」
今まで聞いたことのないような、低く冷めた声を聞いたリオトは呆気にとられつつ半ば引っ張られながらレインについていく。
しかし、それが気に入らなかったらしいブザビオはそれを許さなかった。
「待てよレイン。随分つれねぇじゃねえか」
ブザビオは大股でずんずんと二人に詰め寄るとレインの腕を掴んで歩みを無理やり止めさせ、強引に自分の方へ振り向かせる。
「っ…!」
力が強すぎたのか、レインの口から小さな悲鳴が漏れた。
気づいていないのかお構いなしなのか、ブザビオはニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべて舐め回すようにレインの頭の先から足の先まで無遠慮に視線を巡らせる。
そしてそのままレインを自分の方へ引き寄せようとブザビオがわずかに動いた瞬間、さすがに黙っていられなくなったリオトが二人の間に割って入った。
そこではじめてリオトの存在を認知したかのようにブザビオの目がわずかに丸くなる。
「なんだてめえ?」
赤い眉が真ん中に寄せられシワを作り、ブザビオは怒気を隠すこともなく顕にする。レインの腕を掴むブザビオの手の隙間に素早く手を差し入れて離させ、レインを背に庇い距離をとった冷静なリオトの行動が癪に障ったらしい。
リオトとてこんなところで無闇に無益な争いを繰り広げてあとでカイナに怒られたくはないと内心焦っている。がしかし今は仕方が無いだろう。適当に受け流して早くこの場を去ろう。
「恋仲の二人のあいだを邪魔するたァ、ずいぶん野暮じゃねえか、ああ?」
何言ってんだこのニワトリ野郎・・・。
「ほう。それは失礼した。しかし、オレの目には仲睦まじい恋人の会話というよりも、女性に執拗に言い寄る惨めな男の絵図に見えたがな」
ブザビオの額に青筋が浮かぶ。
しまった、少し口が過ぎた。おまけにカイナの口調をマネてしまったせいで我ながらいささか嫌味な言い方になってしまった。
だが後の祭り。
「ガキ、口だけは達者らしいな」
「口だけかどうか、試してみるか?」
まずいとは思いつつも、これから乱闘が始まるのかと思えば、リオトは胸のうちに喜びさえ抱いた。
身の程知らずの愚者を捻り潰すことほど楽しいことはない。戦闘狂の性だ。
「残念だったわね」
突如、リオトの背に庇われていたレインが口を開いた。その声色はさっきと変わらず冷たい。
「今年のレースの優勝を、あなたは手にできない」
ピクリとブザビオの眉が動いた。
「なんだと?」
「今年こそ、あなたは敗北し地に堕ちるわ。“あのとき”の報いを受ける時が来たのよ」
―――“あのとき”…?
推察するに、クルザとレイン父娘とブザビオにはなんらかの因縁があるようだ。しかしレインの声色と表情はただのケンカ程度では収まらぬほどに深い恨みを孕んでいる。いったい過去に何があったというのか。
すると、ブザビオは口元を歪めてレインの言葉をバカにするように声高に笑い出した。
「今まで無敗の俺様が、今更誰に負けるってんだ?」
レインは答えなかった。カイナの名を出そうにも、それは彼に対するただの期待であって確実なことではないからだ。
図に乗るブザビオの笑い声が大きくなり、後ろにいるレインの悔しそうな歯ぎしりが、耳元でやけに大きく響いた。
―――師匠、すみません。
「カイナ・ベスティロット」
ブザビオが嘲笑を止め、リオトを見下ろす。
「一週間後にアンタを負かす男の名だ。聞くのは二度目のはずだ」
すぐに思い当たったのか、ブザビオは再び口元に気色の悪い笑みを浮かべる。
「ああ。昨日の白髪野郎か」
―――しらっ…?!
口と片眉が引き攣り、思わず黒魂魄を出しそうになるがぐっとこらえる。
できるところまでは穏便にことを済ませるためだ。
しかし、できるならば今ここでこの鶏モドキを斬り刻んでミンチにしてやりたい。決しておいしい肉ではないだろうけど。
「悪いが、今年の優勝は我が師、カイナ・ベスティロットのものだ」
ブザビオは鼻で笑って返す。
「おもしれぇこと言うじゃねえか。威勢がいいだけのやつならわんさかいる。しかも見たところ、あの白髪もお前もこのレースは初めてみてぇだしな」
「たとえ初出場でも、こそこそ裏で手を回してライバルを潰すなんて卑怯なマネするようなやつに師匠は負けない」
リオトの眼光が鋭くなると、ブザビオもまた出目金のように突き出た両眼を瞼で半分覆い、睨みをきかせる。
しかしどれだけ睨み付けようとも、臆さずにらみ返してくるリオトの態度が、ブザビオの眉間にシワを刻ませる。
「そこまで言うなら見せてもらおうじゃねぇか」
ブザビオは二人に背を向けて言う。
「一週間後のレースのために、せいぜいバイクと自分の腕を鍛えとくんだな」
そのまま立ち去るブザビオが悪意に満ちた笑みをたたえていることに、二人は気づかない。
立ち去るブザビオの背中をしばしのあいだ睨みつけながら見送り、一呼吸おいてから、レインが口を開いた。
「…あの、リオトちゃん。庇ってくれて、本当にありがとう。…嬉しかった」
しかし、リオトは言葉を返さない。それどころか、その体は小刻みに振動している。
「リオトちゃん?どうしたの?まさか、アイツになにかされたんじゃ…?!」
あの男は自分が勝つためならば悪魔に魂を売ることだって厭わない。背に庇われていた自分の死角で、ブザビオがリオトに密かに危害を加えていても不思議ではないのだ。
「…しよう……」
うわ言のように出てきた小さな声を、レインは聞き取れなかった。レインの手がリオトの腕へ伸びる。
「リオトちゃ―――」
しかしレインの手がリオトの腕に触れる前に、リオトは腰でも抜けたかのようにへなへなとその場にしゃがみこんだ。
「どうしよおぉ~~…!」
膝をつき、両手で頭を抱えて俯きながら、リオトは困惑と悲しみと焦りに満ちた声で半ば喚く。
「え? ちょっ、どうしたの?」
「怒られるっ!」
「誰に?」
「師匠に決まってるだろぉ~…!!」
うわあああ…、とまるでこの世の終わりとでも言わんばかりにリオトはこのあとに待ち受けるわかりきった展開に打ち拉がれた。
はじめは適当にあしらって終えるつもりだったが、レインの悔しそうな歯ぎしりがリオトの喧嘩っぱやさと戦闘狂っ気に火をつけてしまい、ついあんなことを言ってしまった。
今更後悔したところで後の祭り。それでもリオトのなかに多大なる後悔が渦巻く。
「チョコが…、オレのチョコが…。よしよしがあ…」
「よ、よしよし…?」
両手を地につき、わなわなと体を震わせながらがっくりとうなだれるリオトの言う『よしよし』が、頭を撫でてもらうことであると辛うじて理解できたレインは慌てて子供をあやすように彼女の背中をさすりながら声をかける。
「大丈夫だよリオトちゃん。カイナさんには私から話すから。だからそう落ち込まないで、ね?お買い物済ませて早く帰ろ?」
そのとき、二人に駆け寄る影が一つ。
「おいレインちゃん!」
名を呼ばれたレインはリオトを励ますためにやや下げていた顔をとっさに上げた。
「アムルスさん!」
「なんかブザビオに絡まれてたみてぇだったけど、なにもされてないか?」
アムルスはレインの隣に膝をつくと、レインに異常がないかを目だけでくまなく探し始める。
「わ、わたしは大丈夫。この子の、リオトちゃんのおかげで……」
レインが視線を落とし、アムルスもそれに倣う。視界に映るのは、未だ項垂れたままのリオト。しかしリオトの周りの空気はどう見てもどんよりと沈みきっており、ブザビオに敗北でもしたようにしか見えない。
「ああ、今落ち込んでるのは別のことでだから心配ないわ」
アムルスの心境を読んだかのように、レインが一言添える。
「確かこいつ、カイナの……」
昨日、悪漢に絡まれたレインをリオトが助けたあと、アムルスは、なにもないならよかった。この悪いのは俺が警護騎士の支部に突き出しとく。と、帰るついでに連行してくれたのだ。
その際、言葉はかわさなかったものの、幼さの残る顔立ちに漆黒の髪とつり上がった青色の目を、アムルスは覚えていた。
「ええ、お弟子さんよ。昨日のお礼に、レースが終わるまでうちに泊まってもらってるの。それで買い物に付き合ってもらってたんだけど……」
運悪く絡まれたか、とアムルスは事の顛末を悟る。
「ほらリオトちゃん。いいかげん立って!早くバイクの部品を買ってお使い済まさないと、ますます怒られちゃうよ?」
ハッ!と弾かれたようにリオトは顔を上げた。
「なんだ。パーツ屋行くのか?なら一緒に行こうぜ。俺も部品の調達に行くんだ」
顔はまだ少し沈んだままだったが、ようやくリオトが体を起こすと、膝立ちだったレインも腰をあげ、ワンピースについた砂埃をはたいて払う。
「俺が贔屓にしてるとこなんだけど、そこでもいいか?」
「いいけど、アムルスはクルザのおやっさんの店では部品を揃えないのか?」
歩きながら、アムルスは頷く。
「ああ。バイクに詳しくないやつからすればわかりにくいかも知らんが、希少なバイクにもいくつか種類があってよ。俺の愛機にはクルザの旦那ンとこの部品は合わねえんだ。だからこのレースに参加するやつは全員、この街に馴染みの部品屋を持つんだ。そういうカイナはどうなんだ?」
「師匠はおやっさんとこの部品使ってるみたいだ。でも今回のお使いの部品はおやっさんとこには置いてないらしくてさ」
リオトはショートパンツのポケットに手をつっこみ、この部品なんだけど、と言いながら、中に入っているものを出す。
開いた手のひらの上にあったのはアイドルスクリューという、バイクのアイドリング回転数調整するために使われるネジのような部品。
「アイドルスクリューか。あそこの店は大体のバイクの部品は扱ってたはずだから、あると思うぜ」




