玖
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「《世界の、果て》……?」
《世界の果て》をこの目で見ること。
それこそがこの旅の単純明快で簡潔な概要であり、ただ一つの目的なのだと言う彼から聞いたその言葉を繰り返すと、彼はそうだと頷いた。
「リオト、お前は世界の果てになにが……、いや、その前に、この世界に《果て》があると思うか?」
問いかけたカイナの表情に緊張感が無かったので、試しに聞いてみただけだというのはわかった。しかしそれは今までに考えたことすらない問いで、従って今のリオトには漠然と想像することもできなかった。
首をかしげ、難しい顔をして黙り込むリオトの姿を見て、カイナはやはり笑った。
「想像もつかないだろう?そもそも、船を使って水平線の彼方まで行ってみたところで、また同じ海と、背後にあった大陸の反対側に辿り着くだけだし、誰かに聞いてみたとしても全員が口を揃えてそう言うだろう」
大昔、この世界の地図がまだ作られておらず、どこまで世界が続いているのかもわからなかった時代。各地の地理学者たちの努力によりやっと大方の大陸の地図が完成した時期に、今度は実際に海へ出て、幾日もかけて船で水平線の彼方まで航海をした一人の探検家がいたそうだ。
結果はさきほどカイナが言ったこととまったく同じことになったらしい。出発した港がある街、その街がある大海原に面した大陸の端っこ、その端っこから遠く離れた真反対の陸地の、大海原に面した端っこに行き着いたのだ。
そうして、世界は陸続き、または海続きになっていることが学者たちによって証明され、それが疑う余地など無い真実であり、常識とされてきた。
「しかし、私の師は違った。酔狂にもこの世界に《果て》があるとそれこそ信じて疑わず、長年世界を旅して回り、あるのかどうかもわからない《世界の果て》を探し続けた。理由なんて無い。《世界の果て》がどんな場所なのかをこの目で見てみたい。ただそれだけだと彼は話していた」
そして、カイナはさらに話を続けた。
彼は師であると同時に、親代わりのようなものだった。行き場を無くした自分をそばに置いてくれて、一から武術なども教え、短い期間だったが一緒に旅をしたこともあったと。
だが、残念ながら彼は長年抱いていた夢を叶えることができずにこの世を去った。
「結局私は、彼に大した恩返しもできなかった。だからせめて、彼の夢を引き継ぐことにしたんだ。師が叶えられなかった夢を、今度は私とお前で叶えるんだ」
スッと右手を差し出し、かつては同じように弟子だった青年は言う。
「今更だが、ついてきてくれるか、リオト?」
その手を掴んで、弟子は笑う。
「あなたが行くなら、どこまでも共に。師匠」
そのとき彼は、嬉しそうに、だが師匠と呼ばれたくすぐったさからか、少しはにかみながら笑った。
*
「うっ……、いってぇ……」
意識が戻るや否や、首の真後ろに鈍い痛みが走る。
意識を失う前にくらった打撃のフラッシュバックだ。
さすろうと動かした右手は背中に回ったまま動かなかった。そうして自分が縛りあげられていることに気づく。
なにやら懐かしい夢を見ていたが、少し頭に響く首の痛みにくわえて体の正面側の右半身から感じている石畳の冷たさと少しの肌寒さのおかげで、目覚めたばかりだが意識が覚醒するのは早かった。
手を使わずに器用に体を起こせばそこは地下牢か何かで、当然目の前には鉄格子が並んでいる。足元は青緑色の大きな石が埋め込まれた石畳、周りの壁はそれよりも小さいねずみ色の板石を積み上げて作られている。
明かりは牢の中と外の通路に灯してある燭台のみで薄暗い。脚の力のみでまた器用に立ち上がり、唯一の出入り口である右隅の扉を見てみると、頑丈そうな錠前がご丁寧に二つ。外の通路には誰もいないが、端のほうに扉が一つ見えた。
そしてもう一つ、さっきの戦闘でリオトがナイフを使ったためか、仕込みナイフが全て抜き取られているということ。動いた時に分かったのだが、いつもよりも体が身軽だったのだ。おそらく用心のためと思われるが、あのゴロツキのなかの誰かが自分の服の中や体を弄ったのかと思うと虫唾が走る。早く風呂に入りたい。
「縄抜けも念のため教わってるけど、うまく………」
一度その場に座り込み、もぞもぞと腕を動かすこと三分。ふっと楽になる両腕。
「できました師匠!」
声量を抑えつつ、両腕を頭上へ突き出して喜びをかみしめる。再度腰を上げ、鉄格子に手を添える。
「こんなところに針金があるなんてさすがに思わないよねぇ…」
髪の結び口から垂れている髪紐の中から針金をだし、錠前の鍵穴へ差し込む。カチャカチャと金属が軽くぶつかり合う音を響かせながら粘ること三分。ガチャリと解錠した音と共に一つ目の錠前が下へ落下する。慌てて左手でキャッチ。
「あぶな…」
ふぅと一息ついて、二つ目の錠前へ手を付ける。三分後、解錠。遠い昔に捨てた自己流の技が未だ廃れていなかったことに複雑な気分になる。
開いた錠前を足元に置いて針金をしまい、そっと扉を開ける。キィと軋む嫌な音でバレないかどうかを心配しながら、必要最低限の角度まで開き、身を滑り込ませる。
これで第一関門、牢屋自体からの脱出はクリアだ。続いては牢屋があるこのフロアからの脱出である。扉の向こうには人の気配が二つ、見張りだろう。
このフロアにはリオトが入れられていた牢屋の両脇にも牢屋があったが、どちらにもカイナの姿は無い。おそらくはゴロツキの親玉、賞金首のところにいるのだろうが、仕込みナイフはすべて抜き取られ、残る武器は体術と詠術のみ。この建物の構造も、賞金首がどこにいるのかもわからない。味方はゼロ。
しかし、リオトには切り札がある。
「さっきは演技かましてほどほどのところで捕まる手はずだったけど、潜入したらいよいよ本気で暴れていいっていう師匠からのお許しに甘えて、ここからはマジでいくぜ」
意識を集中させ、右手を前へ突き出し、目を閉じる。
「封欺解呪!」
リオトを中心に、足元に大きな円形の陣が浮かび上がる。淡い紫の光を発するそれは闇属性の詠術だ。陣が一際強く光ると、かざされているリオトの右手の前に同じく淡い紫色の光を放つ球体が現れる。それを掴むと、球体は長い棒状のものへと変形する。直後、それを掴むリオトの手元から端へ向かうにつれて光が散り失せ、黒い刀が姿を現す。鍔のない合口型で、長さは柄の先端までを含めて二尺と六寸、およそ八十センチほどのやや長め。鞘には瞳と同じ蒼色の下げ緒が、柄の先端には同色の飾り紐が下がっている。
名は黒魂魄。恩師カイナから授かった大切な愛刀である。
カイナから教わった彼オリジナルの術で、普段は刀を粒子レベルに分解し、体の周囲にまとわせているが、こうしてその術を解除することで、粒子を再び物質へと再構築する錬金術のような技。こうすることで持ち運びが楽になり、仕込んだナイフは取られても、本命の武器は取られずに済むのだ。
左手で鞘を持ち、右手でゆっくりと刃を引き抜く。鞘や柄の色に対し、一点の曇りもシミもない刀身が燭台の明かりを反射し、リオトの顔を映し出す。
すぅ、とゆっくり息を吸い、ふぅ、とゆっくり息を吐き出しながら、リオトは霞の構えをとる。
そして、固い床を蹴った。




