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第七話

 皆の生活リズムが変化した。僕たちがいつも通りに行動しても、冬野たちは食堂にいないし霜山も登校してはいなかった。冬野側のメンバーは登校する時間が遅くなってきている。

「おはよう」

 一方で萩原は早起きするようになった。霜山程早くはないが、朝食から僕たちと一緒に行動している。部屋にいる時間が辛い、とのことだった。霜山との会話が減り、その代わりを僕たちに求めてきた。

「本当にごめんね。二人の邪魔しちゃって」

「邪魔って。そういう関係じゃないんで」

「え、そうなの?」

 霜山のように大きな声。それでも楓の本を読む様子に変わりは無い。萩原に耳を貸してもらって、不本意ながらまだ告白できてないんだ、と小声で言う。

「へえ」

 萩原は僕と楓とを交互に見る。

「てっきり詩織たちみたいに付き合ってるのかと思ってたんだけど」

「やっぱ普通はそうなるのかな。まあ、そもそもこの境遇が普通じゃないんだけど」

「そうだね。普通の人生だったら、明日香ともこんなことにならなかったのかな」

 どうしても暗くなってしまう。箱庭のメンバーの誰もが冬野たちの計画を気にしている。平然と読書している楓は凄い。興味が無い、ということはないはずだ。仲間がばらばらになってしまうことを苦痛に感じているようだから。それでも楓はいつも通りを演じている。きっと悲しい物語と歩調を合わせないようにしているのだ。

「二人は行かないよね?」

「いや、まだ決めてないんだよね。どっちにするか」

「お願い、行かないで」

 見つめられる。行かないと決めてはいるのだが。楓の方を見る。顔を上げていた楓が僕の視線からメッセージを受け取る。

「なるようになるよ」

 楓でも濁すしかなかったみたいだ。慰めているのは語調だけで、中身は空っぽだ。一度発してしまえば誤魔化すことはできず、萩原の視線は真っ白な床に落ちる。それが跳ね返って、こちらに突き刺さってくるようだった。

「よかった。いる」

 月島と鹿島が教室に入ってきた。彼らももっと来るのが遅いはず。

「今日は早いね」

「なんだか部屋にいても落ち着かなくて。教室来れば誰かいるかな、と思ったんだ」

 鹿島が萩原に抱き付いた。

「よかった。由美がいて」

「詩織、大好き」

 ドラマのカップルのようにいちゃいちゃする。それがちょっとした戯れだとわかってはいるのだろうが、月島の唇が尖っていた。

「由美、ずっと一緒だからね」

「うん。私、ずっと詩織と一緒にいるから」

 ずっと一緒。月島と鹿島もここに残ると決めている。脈絡無くハッピーエンドの雰囲気を急造するお遊びは、二人にとって精神安定剤になっているのかもしれなかった。

「詩織さん、いい加減離れましょうね」

 月島が鹿島を引き剥がす。腰に腕を回された鹿島は身長差のせいもあって抱っこされているみたいだった。「ああ、由美」と悲劇のヒロインのように腕を伸ばすが、楽しそうな顔をしている。そしてその表情のまま抵抗をやめた鹿島は月島とぺっとりくっ付く。

「なあ、今日の放課後、部活をしないか?」

 一通りいちゃついた後、月島は真顔になって僕たちに言った。萩原がすぐに「やりたい」と言う。

「私も付き合う」

「じゃあ、僕も」

「そういや将棋の本ってまだ来ないの?」

「どうなんだろう。手紙は来てないはずだけど」

 鹿島の質問に萩原が答える。少しずつありふれた穏やかな会話になっていく。教室に人も増えてきた。冬野たち、脱出を目論んでいるメンバーがぞろぞろと入ってくる。その中に霜山もいた。視線は一瞬だけ交わる。挨拶は無い。こちらはこちらで、彼らは彼らで談笑している。向こう側の会話を意識して聞いてみた。

「そういやさ、凄く面白い漫画があるんだよ。最近読み直してるんだけどさ。お前も読んでみる?」

「いいの?貸して貸して」

「おう。それじゃあ放課後こっちの部屋に来いよ」

 漫画の話をしていた冬野と霜山は時々こちらの様子をうかがってくる。目が合うとすぐに顔を逸らす。賑やかな教室の中には互いに殻に篭っているような雰囲気があった。言いたいことや気になることを隠しながら、触れないようにしている。間に壁を挟んでいるイメージでもって教室を見渡すと、迷路が見えそうだった。人間関係の迷路。皆が仲良し。それはフィクションに近いものなのだと、今になって僕は知った。

「この文の訳を、それじゃあ小谷」

 英語の授業。僕たちが学ぶことに何の意味があるのだろう、と考えてしまう。普通の人たちにとっては外国人と交流するためのツールになるのかもしれないが、この箱庭で生きる僕たちにとっては、漫画などで英語が混ざっていた時に時間をかけずに読解するためのものでしかなかった。受験のために勉強している、と考えたとしても、それが本当にあるのかわからない。変てこな玩具を与えられているような感じがするのだ。

「人類の行いによる地球の環境への影響は少なくない」

「はい、その通り」

 やたらと回りくどいクイズゲーム。そんな印象。あるいは一日の中に退屈な時間を作るためにこんなことをさせられているのかもしれない。どうあれ愉快ではない。

 今学んでいることが、本当に役立ってくれたらいいのに。そのことを誰かが保証してくれたなら、頑張ろうって気になれる。冬野たちだってきっと馬鹿なことを考えずに真面目に。

 自分が今考えたことを英語にするとどうなるのだろう。考えてみるが、すぐに挫折する。ここから脱出することなんてできるわけがないと思った。

「いやあ、やっと終わった」

「はあ、疲れた」

 そんなことを言いながら次々と教室から人がいなくなっていく中、僕を含めて五人が席に座ったままでいた。掃除当番だったメンバーが「帰ろ帰ろ」と言う。そして彼らを乗せてエレベーターのドアは閉まり、会話が遠ざかっていく。教室は瞬く間に無音に囲まれる。孤島になった。

「よし、それじゃあ部活を始めるぞ」

 彼に似合わない威勢のいい声とばんと机を叩く音。月島は静けさを払おうとしたようだが、その直後にしんとした一秒が生まれた。

「やろっか」

 溜め息をつき、気だるげに言いながら楓は立ち上がる。机や椅子もまた面倒そうに、がたがた、という音を出していた。

「そうね」

 僕も同じようにして立ち上がり、月島と鹿島の席へ向かう。

「ヘイ、ノリ悪いなベイビー。せっかくの部活だ。もっと楽しくいこうぜ」

「普通に話したら?」

 楓の冷えた言葉が月島の頭にかかる。月島は「すまない」と言い、俯いた。

「それで、部活って何やるの?」

 萩原に問われて、月島は「そうだな」と考え出す。行き当たりばったりだ。そんなものだろう。気分が晴れないのをどうにかしたくて部活をしようと言い出したのだろう。

「とりあえず将棋を指そうか」

 頭上にある暗雲から目を逸らすための部活。僕たちの視線は月島の机に置かれた薄っぺらの将棋盤に注がれる。しかし部活という言葉が用いられているが、雰囲気は中学生の頃に教室でやったトランプの大富豪とあまり変わらない。

「あ、そうか。これ取られちゃうんだ。ミスっちゃった」

「駄目だよちゃんと考えなきゃ」

「これ、何すればいいの」

 鹿島の持ち駒がどんどん増えていく。飛車や角が全て鹿島の駒になっていて、彼女が優勢なのは素人目から見ても明らかだった。そして一方的に萩原を負かした鹿島は「さあ次は誰と誰がやる?」と言う。

「じゃあ柿田と小川で」

 月島に指名される。「いや、僕は別にいいんだけど」と拒否するものの、無理やり座らされる。

「ほら先手後手決めて」

 手を上下に振る。じゃんけん、ぽん、のリズム。楓もそれに合わせて手を出す。楓はチョキを出していて、彼女が先手になった。

「なんで無言でじゃんけんできるの」

「やってるうちになった」

 楓は盤をじっと見つめながら簡素に答える。そして質問をしてきた鹿島に彼女は「これ、何すればいいの?」聞いた。

「飛車と角が強いから、それを頑張って使えばいいんだよ」

「ふうん」

 一分くらい考えて、角の斜め前にあった歩兵を押して前に動かした。

「そうそう。そうすれば角が一気に働くようになったでしょ?」

「なるほど」

 僕も彼女の真似をして、角を働くようにした。そして楓はやはりじっくり考えてから、自分の角で僕の角を奪った。

「これ、裏返せるんだよね?」

「うん。成れるよ」

 彼女は角を裏返す。赤で小難しい漢字が書かれている。さっきの鹿島と萩原の戦いを見ていたけど、飛車が裏返ったやつと似ていて区別できそうにない。これは角だ、と記憶しておく。

「っていうかこれ、もう負けなんじゃ」

 こちらの角が取られてしまった上に楓の角はパワーアップしてしまった。これはきっと不利だ。

「大丈夫だよ、飛車か銀で取れるから」

 月島の助言。よく盤を見てみると、確かに飛車か銀のどちらかで楓の強くなった角を取れる。ラッキーだ。どっちで取った方がいいのだろう。考えて、強い飛車で取ることにした。テストの応用問題を解くペースよりもゆっくりと戦いは進行していく。楓が最初に角がいた位置に角を置いた。真似する手をすぐに思い付くが、飛車がいるせいで置けなかった。おまけに今度は飛車が狙われている。それなら飛車を別の所に移動させればいい。最初にいた位置に戻す。楓の角が僕の香車を奪った。

「なあ、これいつになったら終わるんだ?」

「頑張ればすぐに終わるはずなんだけど」

 始めてから一時間近く経っていた。これが誰かの部屋だったら、すごく長い、で済んでいたのかもしれないけれど、教室には時計があり、それが経過した時間を冷静に告げていた。お互いに王手するものの、いつになっても王は死なない。意外と逃げ道がある。意外と飛車や角が役に立たない。どうやっても王様が死なないゲームなのではないか、と思えてくる。僕も楓も疲れてしまって、よく考えて指せ、と月島に言われるものの、全く考えずに駒を動かしていた。

「あ、これ終わった?」

「みたい」

 さらに三十分経って、ようやく王様の逃げる場所が無くなった。勝ったのは僕だ。

「ああ、疲れた」

 がくり、と楓がうな垂れる。それは負けて悔しい、というよりも、今すぐ寝てしまいたいくらいに疲れた、というモーションだった。確かに僕も全然嬉しくない。終わったことで最後まで残っていた一粒の緊張感が消えて、体内にあるのは疲労だけになっていた。

「お疲れ様」

「あ、終わったんだ」

 途中から見るのに疲れてしまって、自分の席に突っ伏していた萩原が顔を上げる。

「長かったねえ。もう五時過ぎてるよ」

「帰ろう」

 楓は疲労によってどろりとした目をしていた。こんな彼女は珍しい、と思ったが、同じ苦痛を味わっていた僕はこうなるのも仕方ないとわかっていた。「そうしよう」と言って頷いた。

「そうか。まだ二局しかやってないんだがな」

「勘弁してくれ」

 もう一回やったら死んでしまいそうだ。それは言いすぎだとしても、頬が削れてしまうことだろう。

「じゃあ今日はこれで終わりにするか」

 月島は持ち駒になっていた盤の外の駒を拾い集め、盤の上に落とす。そしてノートを閉じるようにぱたんと盤を二つに折った。相当疲れたみたいで、楓は座ったまま動かなかった。僕は自分の席に行き、鞄を二つ取ってくる。

「大丈夫?立てる?」

「頑張る」

 楓は目を瞑って大きく深呼吸した。すうう、はああ。目を開ける。いつもの何事にも興味の無さそうな表情が出来上がった。

「ありがとう」

 彼女は立ち上がって鞄を受け取った。そして僕たちはエレベーター横の機械に次々とカードを通していく。

「なあ、明日もやらないか?」

 エレベーターに乗る前、月島はそう言った。鹿島も「やろうよ」と言って誘ってくる。

「うん、わかった」

 萩原は頷いた。三人の視線が僕たちに向けられる。疲労のせいで「嫌だよ」と突っぱねてみたくなった。しかし明日の予定を作っておきたいと思っている彼らの不安が透けて見えている。冗談でも言うわけにはいかず、僕は了解と答えるしかなかった。

 月島たちは平穏を装うことにどう感じているのだろうか。自分たちは不安をどうにか誤魔化そうとしていると自覚しているはずだ。そうだとわかっていながら目を逸らす行為にどんな意味があるのか。部屋に戻ると、冬野から手紙が来ていた。ノートを破って文字を書いただけの非常に雑な手紙だった。大事な話があるからこれを読んだら二人共すぐに来い、と書かれてあった。どうしたって平穏は崩れるみたいだ。そう思いながら、僕は楓と一緒に冬野の部屋に向かう。

 ドアをノックすると白井が出てきた。

「何か用?」

「冬野に呼ばれたんだけど」

 手紙を見せる。

「わかった」と言って白井は「冬野、柿田と小川が来た」と部屋の中に報告する。すぐに冬野は出てきた。

「来たか」

 それだけ言うと冬野は「ちょっと話をしてくる。その間頼んだぞ」と白井に告げる。白井は、こくり、と頷く。忠実で頼りがいのある家来の。そんな感じだった。

「お前たちの部屋でいいか?」

「うん。大丈夫」

 僕たちの部屋に戻りながら、彼がここから脱出してしまったらアニメのDVDボックスを返す機会が無くなってしまうな、と思った。まだ見ている途中だ。一日一話見るか見ないかのペース。部屋に入って、楓がソファに座っていた大きなぬいぐるみをベッドにどけた。冬野がどしりと座り、それに向かい合う形で僕たちは座る。冬野は僕たちの目を交互にじっと見て、言った。

「俺たちは明日計画を決行しようと思う。だからお前たちには決めてもらわないといけない。来るか、来ないか」

 大体そんな話だとは思っていたが。

「明日なんだ」

 いつ来るかわからなかった、箱庭が壊れる日。それが目前に迫っていたことは驚きだった。部活のことを思い出す。今までの幸せを少しでも維持するための活動。明日もやる予定だった。しかし世界は進展してしまう。こんな小さな世界でも、彼らや僕たちが恐れていた変化は起きてしまうのだ。

「俺たちとしては一人でも多くいた方が助かるんだが」

「私は行かない」

 矢のようにすぱっと楓は拒否した。

「ごめん、僕も、行かない」

 一方で僕の言葉は彼女のようにはならず、迷走する。言いたいことがありすぎた。その中から取り出したのは希望にすがりつくような質問。

「なあ、やめる気は無いのか?」

 無いと答えるに決まっていた。もう引き返せる空気ではないはずだ。それでも聞かずにはいられない。引き止めようとしなければならなかった。仮に効果が無かったとしても言わなければ、残された世界に幸福が一つも存在しなくなってしまいそうだった。

「無い」

 やっぱり。往生際が悪い、とわかっていながら粘る。それでアニメのようになんとかなってくれ、と願いつつ。

「やめといた方がいいと思う。どうせ成功しないってわかってるはずだよ」

「それでもだ。お前はいいのか?このままだとずっと誰かの操り人形だ。そいつらに勝つのが理想的だが、負けても噛み付くくらいのことはするべきじゃないのか?」

「勝つとか負けるとかいう問題じゃないでしょ。もし誰かの手のひらの上で踊らされているなら癪だけど、でも、そうだとしても僕たちはここで生きていくしかないと思う」

「どうにかなる。いや、どうにかできる。何が問題なのか、具体的に挙げて、それに対処する方法を考えれば道は絶対にある」

 力強い言葉。自分の可能性を信じている者の発言だった。

「僕たちはヒーローなんかじゃないよ」

「どうだろうな。案外俺たちは不死身かもしれないぞ」

 成分の大半は冗談であった。しかし本気も混ざっているようだった。

 もしかしたら本当に不死身かもしれない。そうでなかったとしても、常人より数倍頑丈な肉体かもしれない。

 そう思っているのが、にやりとした表情に出ていた。僕は絶句してしまった。楓は無言を貫いている。どちらからも反論が出てこなかったので、冬野は立ち上がった。

「俺の話はそれだけだ。邪魔したな」

 ドアの前で彼は「ああ、そうだ」と言って振り返った。

「柿田、お前に話がある。ちょっと来い」

 重要な話は今終わったばかりだ。一体他に何の話があるのか。面倒だ、と思いながらも僕は冬野に付いていった。

「お前、まだ小川に告白してないのか?」

「そうだけど」

「いいか。今すぐ告白しろ」

「どうして」

 思わず強く反発してしまう。大事なことを他人に決められるのはやっぱり不快だ。

「もしオッケーだったらここに残ればいい。だけどな、振られる可能性だってある。そしたら俺たちと一緒に来ればいい。そうすれば脱出した先で新たな出会いがある」

「何言ってんの、お前」

「何って、お前が幸せになる方法だよ」

 当然だ、と言わんばかりに。呆れてしまう。上手く言葉にはできないのだけど。

「それは、なんか違うと思う」

「じゃあ聞くがな、もしも小川に振られたらどうするつもりなんだ?」

「考えてないよ、そんなこと」

 はあ、と溜め息をつかれてしまう。つきたいのはこっちの方だ。

「そうやって自分は挫折とは無縁だと思っている。いや、挫折なんかしないと信じたい、と思っている。だから先のことは考えないし、失敗するのが怖いから告白もしない。そうなんだろ?」

 急に僕の内面を攻撃しようとしてきた。それも好戦的に口の端を上げて。もしかしてこいつは僕のことを嫌っていたのではないか。そんな疑惑が浮かんだ。僕は仲間だと思っていたのに。ショックだった。それに加えて図星を突かれたダメージもあって、何も言えずにいた。

「そんなだと損をするぞ。お前はもう少し賢くやるべきだ。お前にはそれだけの能力があるんだから」

 今度は僕を褒める。まるで僕のことを思いやって厳しいことを言っているという風だ。きっとそうなのだ。彼は友達として仲間として僕の助言をしているつもりなのだ。

「ここは可能性が狭すぎるんだ。人がたくさんいれば、それだけお前のことを好きになってくれる異性の数だって」

「そうじゃないんだよ」

 遮る。一瞬でも疑って悪かった、と思う。でも僕には僕の考えがあるから、真っ直ぐに言っておかないといけない。彼のためじゃなくて、僕が後悔しないために。

「相手が自分のことを好きって言ってくれるからって理由で好きになるわけじゃない。打算はいらないんだ。もしそれで傷付くのだとしても、ちゃんと自分の感情に素直でいられた結果なら、それでいい」

 彼にとってはそういう考え方が賢くないのだろう。だけど恋愛に限らず人付き合いというものは、突き詰めれば心のためにあるものだ。賢さが必ずしも正しさになるわけじゃない。そして僕の心は打算での付き合いを嫌っているのだ。

「僕は楓とここにいたいから、ここに残るよ」

「そうか。わかった」と彼は言った。そして「お前がそれでいいって言うならそれでいいさ。俺が強制することじゃないもんな」と最後に言い、自分の部屋に帰っていく。

「大してわかってないじゃんか」

 彼は納得できなかったから諦めたのだ。理解できないことを理解した、みたいなどうしようもない妥協点。もう気軽に会えなくなるのに、溝を強く意識させられる会話の終わりというのはすっきりしない。だからと追いかけて、とことん話し合う気にもなれない。部屋に戻るまでに疲労が二割増しになっていた。

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