第二話
目を覚ますと、楓はもう制服に着替えていて、ベッドの上、ぼんやりと窓の外を見ながら朝日に抱かれていた。その姿をベッドに住んでいる小さなぬいぐるみたちが見ていた。お気に入りというわけではないみたいだ。僕たちがこの部屋に住むことになった時から彼らはいた。だからだろう。彼女は彼らに心を許している。
「おはよう」
そう言うと、楓はこちらを見て「おはよう」と返してくれる。テーブルの上に置かれている制服を取って、洗面所へ。着替えて、寝癖があるか確認する。
「お待たせ」
「ん」
ベッドから離れて、制服の黒いスカートが健気に揺れた。エレベーターの機械にカードを通す。僕が先、楓は後。食堂。ここに来ると時間がわかる。六時半。
「よう」
僕たちを見つけた冬野が手を挙げた。彼と同じ部屋に住んでいる二人も一緒だった。
「おは」
楓は何も言わずに軽く手を挙げて返す。「ここ座れよ」と言われる。彼らの座っているテーブルには三人分席が空いている。
「ありがとう」
そう言いながらお盆を取る。朝食はバイキング。トーストと牛乳とサラダとスクランブルエッグとソーセージとヨーグルト。楓は食べる量が少ないから、最初は同じ所で立ち止まったのに、途中からどんどん彼女だけ進んでいく。満足するまで取りながら、僕は大人を追いかける子どもみたいに楓との距離を埋めようと早足になる。けれど僕が席に着く時には彼女はもう腰を落ち着けて紅茶を飲んでいた。
「いただきます」
僕以外はもう食べ始めていて、一人で手を合わせる。
「なあ、今日の授業って何があるっけ?」
冬野が言う。彼の質問は同じ部屋に住んでいる二人ではなく僕たち、特に楓に向けられていた。楓はトーストをかじり、紅茶を口に含んで、そして「現代文とか英語とか」と答えた。
「そうか」
微妙な返事する。たぶん彼女の胸ポケットにある生徒手帳が目当てだったのだろう。楓は時間割を生徒手帳に貼り付けているから。そう察しながらも何も言わずにいる自分に酔う。
「他には?」
そう聞いてくる冬野に、彼女の生徒手帳に気付かない振りをしながら「確か古文があったんじゃないかな」と言う。そして「っていうかどうしてそんなの気にするのよ」と質問を投げて、楓の平穏を取り戻す。
「どの授業で寝るか、作戦を立てたいんだ」
昨日寝てないんだよね、と雪本が言う。
「何してたのさ」
「アニメ見てた。全三十九話」
終わりにするタイミングを掴み損ねて最後まで見てしまったのだということを二人は話す。
「最終回終わった時はまだ外暗くてな。寝る時間あるんじゃないかと思いながら余韻に浸ってたら、すぐに明るくなりやがった」
「コーヒー取ってくる」
さっきまで黙っていた白井がカップを手に立ち上がる。それを冬野が「聖也」と呼び止める。そして「俺のも頼む」と言ってカップを渡す。雪本も「俺のも」と。白井は一瞬だけ固まった。しかしすぐに「わかった」と言って受け取った。
「で、そのアニメ面白かったの?」
「かなりな。ここ最近見たやつの中じゃ一番好きだな」
冬野は「貸そうか」と持ちかけてくる。アニメ。興味があるわけではない。
「見てみる?」
楓に聞く。テレビを使う時は読書する時と違って音が出る。だから同居している彼女が嫌と言うならやめておこう、と思って。カップを置いた楓が、ふむ、といった感じで考え始める。視線が斜め上に行く。
「別にいいんじゃない」
数秒経って、それなのに素っ気無く。まるで最初から興味なんて無く、考える振りだけしていたかのように。楓の言葉は時々はっきりと頭に伝わってこない。何を考えているのかよくわからない、そんな言葉。楓の心を掴み損ねる度に、とても複雑な人だ、と思う。
「それじゃあ、借りるよ」
「おう、わかった」
白井が戻ってきた。冬野はコーヒーをぐびぐび飲む。それが眠気を遠ざけてくれる、と信じて。十分に寝ていて、ゆったりと紅茶を飲んでいる楓がすぐ傍にいるせいで、彼らの行いは酷く幼稚なものに見えた。
「そんな飲んだって、意味無いだろうに」
うんうん、と楓は頷いた。
「うるさい。カフェインは眠気に効果があるんだよ。そしてコーヒーは緑茶や紅茶よりカフェインが多く含まれているんだ」
言われなくたって知っている。つまりは眠気に効果があるカフェインの多く含まれているコーヒーを飲めば授業中寝ないでいられる、と言いたいのだろうけど。そうしたところでどうせ寝てしまうだろう、って言いたくて僕は意味が無いと言ったわけで。微妙に噛み合っていなかった。きっと眠くて頭がぼうっとしているのだろう。
「もう一杯飲むぞ」
そう言って冬野は自分と雪本のカップを白井に押し付ける。嫌そうな顔をするものの、白井はカップを受け取って立ち上がる。「俺はもういいんだけど」と雪本は言ったが、気だるげに歩く白井には聞こえなかったみたいだ。
「ああ」
がっくりとしている雪本。彼の分もしっかり入れて白井は戻ってきて、雪本は再び「ああ」と溜め息をついた。楓の方を見ると、もう食べ終わっているようだった。彼女は人形のようにじっと座っている。急いで牛乳を飲み干す。
「そろそろ行こうか」
「うん」
立ち上がる。
「それじゃまた後で」
三人が「おう」とか「また」とか返してくるが、雪本だけ暗雲のような返事だった。
部屋に戻って歯を磨く。そして観葉植物に水をやる。用事を済ませてしまうと、時間が空く。今は七時過ぎといったところだろうか。授業が始まるまで、まだ結構時間がある。「どうしようか」と言う前に楓の様子をうかがう。彼女は鞄に本を入れていた。昨日読んでいた小説だ。
なるほど。
僕も自分の鞄に本を入れる。そして立ち上がると彼女と目が合った。
「行こう」
楓はそう言って、僕は頷いた。楓が洗濯物と書かれた紙袋をドアの近くに置いて、そして僕たちは部屋を出る。一日の中で何度も通る真っ白な廊下が僕たちの通学路だ。味気無いな、と思う。通学というのは普通道路を歩くものらしい。僕たちはそんな所を歩いたことが無い。エレベーターに乗って、押せるボタンのうち食堂ではない方を押す。ドアが開くと、教室だ。教室にはもう人がいた。
「おはよう」
霜山だ。彼女が一番早い。早起きしすぎるものだから、おばあさんみたい、と言われる。だから彼女と一緒に住んでいる萩原はまだ来ていない。おそらく寝ているのだろう。「おはよう」と返す僕と楓の声が重なった。どきりとする。しかしそのことにコメントをする気配は無かった。
「休み、何してた?」
椅子ではなく机に座っている霜山は、まるで何も無かったかのように聞いてくる。
「これ読んでた」
鞄から本を出す。「昨日届いたんだよね」と言う。「これも」と言って楓も同じように本を霜山に見せた。
「また小説か。凄いね」
「霜山も読めばいいじゃん」
活字苦手、と霜山は苦い顔をした。テレビを見てばかりなのだろう。
「読んだ方がいいんじゃない?」と楓が言った。「教室に一人でいる時、退屈してるでしょ?」
「まあ、そうなんだけども」
「とりあえず軽いの読めば?挿絵があるやつ。冬野の部屋にいっぱいあるはずだよ」
「じゃあ今度借りてみようかな」
そう言いながらも霜山は、でもさ、と言う。
「教室にテレビ置いてドラマ見たりゲームやったりできるようになれば一番いいんだけどね」
「そんな無茶な」
「携帯機があればゲームはできるんだろうけど、持ち物検査がなあ」
ゲームを持ち込んだら没収されるだろう。没収されるとしばらくの間、新しく物を取り寄せることができなくなってしまう。ペナルティを恐れない人間は冬野たちくらいなものだ。彼らの場合、物を取り寄せすぎたせいで、新しく取り寄せる前にそれらを消化しなければならないというだけなのだが。
「トランプはオッケーだったよね」
楓が言う。
「中学の時は。もう高校生だからアウトってことはあるのかな」
まさか、と言った霜山は「でもトランプはもう飽きちゃったなあ」と足をぶらぶらさせる。
「トランプがオッケーならボードゲームとかもありなんじゃないの」
将棋とか囲碁とかチェスとか、と楓は挙げる。そっか、と言って霜山は手を叩く。
「でもルールわかんないや。楓は知ってる?」
「私も知らない」
視線がこちらに来る。首を振る。
「将棋の本ってあるのかな。教科書みたいな感じで」
「どうなんだろう。でも取扱説明書くらいあるんじゃないの」
「じゃあ今度頼んでみようかな。ありったけの本を取り寄せてみようよ」と言った霜山は「なんかそこまでやると、部活みたいだね。面白そう」とはしゃぐ。
部活、か。
部活動で奮闘するって内容の漫画を何冊か読んだことがある。それは青春なのだという。先輩や後輩と一緒に目標へ向かって努力していく姿が素晴らしい、ということらしい。僕たちには先輩も後輩もいないようなものだ。そもそも関係を持つこと自体ほとんど無い。先輩と呼ぶべき人がいるなら、小さい頃に身の回りの世話をしてもらったお姉さんのみだろう。彼女でも十歳近く離れている。同い年だけで構成された部活だとしても、目標というものが無い。だから真似事にしかならないのだろう。
「うん、面白そう。やってみたいかも」
その言葉は僕の本心だったけど、同時に、すぐに飽きて終わってしまうんだろうな、とも思っていた。
霜山は完全に部活をやる気になったようで、授業が始まるまでの間勧誘をしていた。将棋部ということになったらしい。登校してきた人に「将棋部やってみない?」と声をかけていた。
「思ったより集まったね」
授業が始まる直前、霜山はそう言って喜んでいた。冬野たち三人と、月島鹿島ペア。僕と楓と萩原はほとんど強制的に加入させられて、合計九人。約三分の一が部活に入ったことになる。
「幸先いいね」
楓は大して興味無さそうに言った。
「というわけでこの接線の方程式は」
退屈な授業。先生が説明している間や問題を解く時間。所々で脳みそが暇を持て余していた。忙しい時は黒板に書いてあることをノートに書き写すので精一杯になるのに、余る時は余るのだ。その起伏が僕の視線を真横に誘導する。隣に座っているのは楓だ。一緒に住んでいる人が隣接するように決められた席順は、ここ六年一切動いてない。
可愛いな。
わかりきっていることなのに、そう思ってしまう。僕は楓のことが好きだ。何年も一緒に暮らしている。愛着がわくのは自然なことだろう。月島と鹿島のように付き合っていてもおかしくない。だからこそ僕は踏み出せずにいる。楓も僕の好意に気付いているのだろうけど、何もアクションを起こさない。僕たちは意地を張っているのかもしれない。それに加えて、今の生活で十分満たされているから、何かをしようという意欲が起こらないのだ。ずっとこのままでいい、と。
楓が視線に気付いたようで、こちらを向いた。彼女は一秒だけ僕と目を合わせて、その間だけ笑みを作った。すぐに真顔に戻って黒板を見ながら先生の話を聞く。僕も先生から茶化されるのは嫌なので、彼女に倣って授業に集中する。揃いも揃って眠っていた三人組が教師に叱られて目を覚ました。
授業がある日の昼食は一番融通が利かない。給食という体で、食べる物が固定されているのだ。今日はカレーを食べるという気分ではないのだけど。それに食堂ではなく教室で食べることに何か意味を見出せるわけでもなく。不自由だ。
一日ごとに外の風景がごっそり変化していたらいいのに。
次の瞬間には冷静になって、可笑しくなる。自分の思ったことがあまりにも楓の言いそうなことだったからだ。彼女はスプーンを持った右手を机の上にだらりと置き、じっと空を眺めていた。そう、こういう時に彼女が言いそうなのだ。楓はゆっくりと顔をこちらに向けて口を開いた。
「思ったんだけどさ」
どきりとする。僕は次に彼女が言う台詞を知っているような気がした。
「部活やるなら、大会を開かないとね」
予感とは違う台詞が出てきた。ぽかんとする。
「ああ、うん。そうだね。でもできるのかな。普通は他の高校と試合するみたいなんだけど」
しかしここで他校との交流ができるとは思えない。
「そもそも高校なんてもう存在しないかもしれないしね」
「え?」
「なんちゃってね。そう思っただけ」
楓がこんなことを言った後は決まって、彼女はどうしてこうも不思議なことばかり言うのだろう、と考え込んでしまう。一体どういう脳みそをしているのか。常人とは違う物がそこにあるような気がする。あるいは、長い付き合いだから何から何まで言う必要なんて無いと思っていて、面白そうなことだけ口に出すことにしているのかもしれない。彼女は、ふふ、と口の端を持ち上げながらスプーンを動かしていた。
放課後になって霜山から部活の話があるかな、と思って様子をうかがう。萩原と話しながらのんびりと鞄の中にファイルやノートを入れていた。待っていようかと思ったのだが、楓は彼女たちを気にする風も無く「帰ろっか」と言ってきた。
「ん、わかった」
楓優先。エレベーターの中で「楓は部活、どう思ってるの?」と聞いてみた。
「一年や二年の時にこういう話にならなくてよかったって思う。途中で飽きて、皆やらなくなったら切ないよね」
楓は自分のカードで部屋の鍵を開けて、言う。
「もう三年生だから、卒業するまで続くんじゃないかな」
「長いブームって感じだね」
そうだね、と楓は頷く。そしてテレビの横に置かれている紙を一枚取る。
「後は将棋の本がどれだけあるかってところだね」
そう言って楓は要望を書く用紙とにらめっこする。本が一冊も無ければ、一週間も経たずに部活の話は無かったことになるだろう。早速本を入手しようとするあたり、楓は結構乗り気なのかもしれない。しかしボールペンの先はいつまで経っても紙に触れずにいた。メトロノームのように揺れる。
「なんて書けばいいんだろう?」
彼女は首を傾げた。
「とりあえず将棋の本を探してもらって、それからリスト化してもらうか全部もらうか、だね」
「そっか」
やっとボールペンが文字を書き始める。覗き込むと、リスト化してください、と書いていた。ボールペンを置き、楓は立ち上がる。
「行ってくる」
「うん」
楓は紙をひらひらと鰹節のように揺らしながら部屋を出ていった。