第一話
ベランダに置かれた大きな椅子に腰掛けて、彼女は外を眺めていた。いつものことだ。最近生まれた習慣。彼女が何を見ているのか予想することもままならずにぼんやりと彼女の姿を僕が眺めることも含めて、ここしばらく頻出している光景だった。空はずっと青いままだし、漂っている雲も気になるような物ではないように感じる。ましてや下の方を見たって、背の低い家屋が無表情に広がっているだけで、遠くを見ようとしても地平線を遮るようにして遠くの方には巨大な壁がその手を広げているのだ。何も無い。それなのに彼女は外を眺めていた。
綺麗だ。
彼女の行為は無意味に見えるものの、木製のチェアに座っている黒い髪と白い服の少女の姿はドラマの一場面を想像させた。だからしばらくの間僕の視線は手元にある物語から剥がされてしまう。きっと本を読んでいた方が面白いはずなのに。頭の中の計算と実際の行動が食い違う。もしかしたら外を眺めている時、彼女の脳内でも同じようなことが起きているのかもしれない。そんなことを考えて、僕は本に目を戻す。しばらくして楓も部屋の中に戻ってきた。
「お茶飲む?」
「うん。お願い」
そう交わして、楓がキッチンへ向かう。
物音は意識の外にあったが、紅茶をいれた楓がこちらに来るのは察知できて、僕は本を閉じる。僕の向かいに座る楓。彼女のソファには大きな兎のぬいぐるみが座っていた。僕の隣にはそれと同じくらいの熊のぬいぐるみがいる。楓はゆっくりとカップに口を付けた。小さな音で流れるBGMのようにさりげない動き。おいしいなどと言うことは無く、小さじ一杯程の息だけが口から漏れて空気に混ざる。彼女の作る雰囲気を壊さないようにそっと紅茶を飲む。綺麗に配置されたお人形の時間。何も喋らずにいることが心地よい。
本に目を戻す。視界の端、じっとしていた楓が立ち上がるのが見えた。顔を上げ、彼女の動きを目で追う。本棚。今日届いたばかりの小説を取ってこちらに戻ってくる。
物語に没頭しているようでいて、時折前に座っている彼女のことが気になってしまう。穏やかな波のように僕の興味は揺れる。ゆらり、ゆらり、と。僕の手元にあるページを示す数はどんどん大きくなっていき、同様に彼女の右手に乗る既読ページも砂時計のように積み重なっていく。
「そういや、今日はどうする?」
ページだけでなく、外の明るさも変わってくる。それを目印に僕は夕飯の話を持ち出した。
「今日はここで食べたい気分」
「わかった。じゃあ僕が行ってくるよ。何がいい?」
しおりを挟み、本をテーブルに置く。彼女は本から目を離さないまま「和食」と答える。食堂に行く間も惜しいってことか。
「オッケー。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
靴を履いて部屋を出る。両側にドアが並ぶ真っ白な廊下を歩く。真っ白。音も臭いも無い。エレベーターの横の機械にカードを通す。ドアはすぐに開いた。中に入ると、たくさんあるボタンのうち、二つだけが光っている。その二つのうち、上の方にあるボタンを押す。エレベーターはもしかしたら動いていないのではと思ってしまうくらい大人しく動く。それでもきちんと移動しているようなのだ。キン、という音が鳴ってドアが開くと、目の前は食堂になっている。
エレベーターから出てすぐの所に置かれている机。紙を二枚取って、ボールペンでそれぞれに記入していく。メニューは二人共同じでいいだろう。選んで丸を付ける。希望する時間帯。時計を見ると、今は四時だった。六時台に丸を付け、提出する。そして行きと同じようにしてエレベーターに乗って、帰る。カードで鍵を開けて、部屋に入る。
「ただいま」
「おかえり」
一言ずつ。そしてお互いに本の世界に戻る。
ドアがノックされる。「夕飯です」と声がする。はっとして、外を見るともう日が暮れていた。楓が既に玄関へ向かっていた。僕も駆け足でそれに追い付いて、お盆を受け取る。
「いただきます」
運んできてくれたおばさんに二人で会釈する。ドアを閉め、二人きりになってからもう一度「いただきます」と言って手を合わせる。楓はまず味噌汁を飲んで、それから箸を持ってご飯を食べる。彼女はビーズを拾い集めるかのように少しずつ食べていく。僕もなるべく彼女のペースに合わそうとするのだが、食べるのに夢中になると速くなってしまう。彼女のどの食器からも平等に食べ物が減っていく中できゅうりの漬物だけが出された時のまま保管されてあった。
「漬物、いらない?」
念のため聞くと、彼女は頷いた。
「それじゃ、いただきます」
「お願いします」
楓はぺこりとお辞儀をする。僕は小皿をこちらに引き寄せて漬物をゆっくり食べる。それで食べ終わるタイミングを合わせる。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
そして椅子にもたれる。
「お風呂先入っていいよ」
本の続きを読もうとすると、彼女がそう言った。
「了解」
お風呂場には窓が無い。シャワーを浴びていると音さえも遠ざかって、自分が外界から遮断されているかのように感じられた。喩えるなら密室という表現になるだろう。そんな場所にいると、たまにかえって外のことが気になる瞬間が生まれる。とても高い所にいるということを意識する。僕たちの住んでいるこの建物はとても高い。ここが何階であるのかということはわからないけど、ベランダから見える建物の中で見下ろさずに済むのは地平線を遮っているあの壁だけだということは確かだ。ここが豪華なマンションなのか、それともホテルなのかはわからない。でも自分の住居のことを意識する度に、僕たちがおそらく特別な存在であるのだということも意識せずにはいられなくなる。
ここは、箱庭なのだ。
どうやら家族でも恋人でもない異性と一緒に暮らすことになったり親友が集まって生活したりすることは普通の生活ではなくて、人間が抱える理想の一種であるらしい。ここでの生活は幸せの塊であるのだと思う。数年前までそんな自覚は無かった。でも小説やアニメや映画を見ているうちに普通の日常が少しずつわかってきて。
たぶん僕たちは幸せなんだ。
そう自分に言い聞かせ、お風呂から出る。
「ただいま」
「おかえり」
僕が自分のベッドに腰掛けるとそれまでもう一つのベッドに座って読書していた楓が立ち上がった。ししおどしのように心地よいタイミングを自然に掴み、彼女はお風呂場に向かう。
机の上からお盆は消えていて、代わりに二人分の衣服が置いてあった。僕が先にお風呂に入ると、いつもなら楓がお風呂に入っている間に僕がやっていることを彼女が済ませているので、不思議な気分だ。楽でいいな、と思う反面、寂しいものがある。それでもすぐに、まあいいか、と思って僕は読書を再開する。
この部屋には時計が無い。小説の中で朝になったり夜になったりしていると、何時なのか全くわからなくなってしまう。困ったな、と思う。けれどそれは反射的に浮かんでくる言葉で、直後には、楓が寝るのに合わせて寝れば大丈夫だろう、なんてことを考えていた。
お風呂から出てきた白いパジャマの楓は昼間のようにベランダに出て、何かを眺めていた。おそらく夜空なのだろうけど。外は寒くないのだろうか。今度、羽織る物をもらってきた方がいいかもしれない。
戻ってきた楓は冷蔵庫を開ける。コップに飲み物を注ぐ音が聞こえた。そして洗面所へ。一連の動作はそろそろ寝るというサインだ。僕も彼女の後を追うように歯磨きをしに洗面所へ行く。一緒に歯を磨いて、それぞれのベッドに入り、消灯。一日が終わるというのは、真っ暗になることだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
そう交わして、僕たちは真っ暗になった。