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ヘルメス  作者: 捺耶 祭
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日野つかさ-18-

「どうかしたんですか?そんな景気の悪い顔してっ?」


 ヴァンに話しかけられてつかさは、自分がほとんど何も考えずにただ歩いていることに気がついた。


目的地は家である。


 あたりは既に暗くなり、頬をなでた涼しげな風は季節感を孕んで冷たく感じた。


つかさは、駅前近くまで何も考えずに歩いていた。


 廃墟から無意識に来た道を歩いてきたため、つかさが押し倒された踏切も素通りしてきわけであるが、吉田がその場所に張り込んでいなかったのは僥倖であった。


 つかさは何も考えず、転ばなければいいといったふうにただ歩を進めていた。何も考えてはいなかったが、ジンの言葉が頭の中に永遠と響いていて気分が悪い。


 つかさはヴァンに話しかけられた瞬間から思考を復活さる。しかし、どうしてもジンの言葉が拭えずにそればかり考えてしまっていた。


「…ヴァン。オレは、」


 と、言いかけてつかさは口を閉じた。同時にヴァンに相談という形で弱音を吐こうとしていた自分をひどく恥じた。


 ひとりの世界を求め、ひとりで戦っているつもりでいたつかさが横にいて話しかけてくる存在に安らぎを求めようとしていたのだ。


 つかさはおそろしくなった。


 決意が揺らごうとしているのか?


オレが求めているのは「ひとりの世界」などではなかったというのか?


 他人を信じられないのではなく、自分を…?


 つかさはそこまでで冷酷に思考をやめた。


何があっても、得られた『チャンス』を手放すほどのことではない。


手放してしまったら、また逆戻り。


 つかさは、自分の目的が大きく変わってしまうよりも、今持っている得難い手段を失ってしまうことをひどく恐れた。


 そんなつかさを、ヴァンは心底楽しそうに見ていた。まるで、朝顔の成長を観察する子供のように、わが子の成長を見守る母親のように。


 つかさは、駅前のパン屋の前に差し掛かる。


 人通りは多く、店も繁盛しているようだった。ショウウインドウを覗くと、こんがり焼けたパンやケーキが夢見るように陳列されている。


 バターや砂糖のこげた、優しい香りが店を包んでいた。


 店内の時計を窓ガラス越しにみると、七時であった。


 夕飯の時間であったため、店内は満席で、持ち帰りの客もレジに並ぶほどであった。


 店の奥でせっせとパンを運ぶユキさんも見える。こちらには気がついていないようだ。つかさは自分が立つ空間と店の内部とでは、明るさや温度が決定的に違うように感じた。物理的なものではない。抽象的に例えるなら空間そのものが優しく脈打つような温もりを感じたのであった。


 つかさもシュークリームを買おうかと、ドアをひこうとした瞬間であった。


 つかさはハッと自分のしようとしていることの意味を考える。


 ヴァンに弱音を吐こうとして、できず、次はユキ心の安寧を求めようとしているのではないか。断ち切った思考がぶり返す。


 考えすぎだ。ユキさんに会わなければいいだけの話だ。今日は忙しいようだし、表にもでてくるかどうか。


「ねえ、つかささんっ!」


「なんだ?」


 そういって、つかさはヴァンの声がした後ろを振り返る。


 そこにヴァンの姿はなかった。


 まるで、「ボクはお邪魔なのでどっかいってます。ごゆっくり」と言われているような気分になる。


 つかさはドアから手を離し、そして家路につこうと歩みを進める。


 つかさは自身が精神的にも肉体的にも憔悴しきってしまったように思う。


 吉田に倒されたために背中がアザになっているのか肩甲骨の下あたりがひどく痛んだ。


帰ったら泥のように眠ろう。


つかの間の孤独を感じて帰路につこう。


キャンディを舐めるみたいに、孤独を舌の上でころがして。


しかし、その孤独はまさにつかの間であった。


「今日も誰かの記憶を消したのか?つかさ」


「…!」


 その声は唐突に背後から聞こえてきた。


つかさが後ろを振り向くとそこにいたのは、紺色のベストに眼鏡のいかにもインテリ風の男であった。


 つかさがこのような体験をしたのは初めてではない。


ヴァンと初めて会ったときもこのような状況だった気がする。


しかし、だからこそ動揺を隠せなかった。


「見知らぬ誰かが自分の名を、していることを知っている」そんなことが二度も起きるとはつかさも考えていなかった。


「あんた誰だ?」


 つかさはひどく疲れ、完璧な上面など繕う余裕がなかった。しかし、完璧でないにしろ敵意や怪訝顔は隠せたはずである。


 つかさは考えた。


 記憶を消していることを知っていて、さらに名前まで知っている人間だ。つかさが他人に対して偽りの自分を演じていることももう知っているのだろう。


この男がつかさ自身にとって有益にしろ有害にしろ、いつもしているように慇懃に振舞うことは無意味だと確信したつかさはとっさに素の自分で接した。


「僕の名前は匠史(たくみ)。名前などどうだっていい、君の置かれている状況に対して忠告しにきた」


「忠告だって?このスクールバッグの中に入っているものについてのか。そんなの必要ない」


 つかさは突然の出来事にも落ち着いていた。いや、驚く気力などなかった。


「じゃあ、あいつ___ヘルメスにはもう会っているんだな」


 ヘルメス。


つかさはそれがヴァンのことであると気がつくのに少々時間を要した。


ヴァンは自己紹介のときにヴァン=ジオル=ヘルメスと名乗っていたことを思い出す。


「ヘルメス?あんたヴァンのことをわざわざそう呼んでいるのか」


 匠史と名乗ったその男は一度考え込むようなそぶりを見せた。


「そうか。つかさにとってはヘルメスではないんだな。むしろあいつはもう"ヘルメス"ではないのか。まあ君の前に現れたそいつのことだ」


 つかさの前に堂々と立ち言葉を吐く男は、当たり前のようにつかさを『つかさ』と言って呼びつける。


 まるで昔から知っているような口ぶりが、いちいちつかさの癇に触る。


「それで、記憶を消してたらなんなんだ」


 感情が剥き出しになって、自然と語気も荒くなる。


「今すぐやめろ。でないと取り返しのつかないことになる」


 つかさは、「ハッ」と言って不愉快に笑い捨てた。


「『取り返しのつかない』だって?それは誰に対してだ。誰も困りはしないし、誰も悲しみはしない。皆のなかのオレの記憶はキレイになくなって、オレはひとりの世界で幸せに生きる。確かに戻ることができないという意味では『取り返しがつかない』のかもな。でも、戻る必要なんてない。不都合なんてどこにも存在しない」


 男に向けられたつかさの声は大きく、荒々しかった。にもかかわらず、二人のすぐ横を流れていく往来は全く気に求めていないようである。


 匠史と名乗った男は、つかさのことを憐れむように見つめた。その瞳にはなぜか自責の念が写っていた。


 男はしっかりとつかさを見据え諭すようにいう。


「つかさ。ひとりと言うものは美しい。他という不純物をまったく含まないソレはまるでひと粒の上等な宝石のような美しさを持っている。しかしな、ソレは逆に言えばひとつの完成された形に過ぎず、宝石モノという域を出ないんだ。いかに美しくとも誰も愛でてはくれない、もし愛でてくれる人がいたならその宝石は他の影響を受けて変わってしまう。人に触れて手垢のにまみれ、空気に触れて酸化し、日光にあたって化学変化する。それは微々たる物といえど他の混入を意味するからね。完璧な宝石である条件に他人はあってはならないんだ。つまり、つかさが他人からのつながりを切ったのなら、お前は人なんかじゃない概念になるんだよ」


「…」


「ひとりと言うものはとても美しいと私は思っている。しかしね、ひとりじゃあなんの面白みもない知覚されない概念とは無のことだ。それを『生きている』なんて胸を張って言えるのかい?」


「知った風な口を利くな」


 つかさに先ほどまでの苛立ちはなく、ただ静かに答えた。


「今日記憶を消した中につかさの友人のジンくんがいたはずだ。その記憶を消したとき、なにか思わなかったか?」


 「なにか」その漠然とした物言いでも、つかさは目の前の男が何を云いたいのか理解してしまった。しかし、同時にそれを認めようとはしなかった。


「…」

 

「まあいい。そのまま消し続けろ。あと数人だろ?つかさならわかるはずだ」


 今日で二度目。知っていた男と知らない男に一度づつ送られた言葉。


 それらの言葉は伽藍にこだます呪詛のように、眠りに落ちるまでつかさの頭に響いて消えなかった。


 急いで書いてしまったので、あとでちょっと手直しします。

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