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ヘルメス  作者: 捺耶 祭
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古泉 忍-8-


 目の前の雑踏は、そのすべてがつかさにとって危なげなものに見えて成らなかった。


 ジンを逃がしてしまったことで、今日中にしおり以外の学校関係者の記憶を全部消すという計画が狂ってしまった。まだ、担任の吉田の記憶を消していない。


 ジンの記憶を消したあとに、吉田の記憶を消す。吉田は仕事熱心であるため毎日7時以降までは学校で仕事をしたりソフトボール部の監督をしていたりする。人気の少ない放課後に呼び出せるという大きな利点があるため、放課後の時間を使い今日までに吉田の記憶を消すハズだった。その計画が今狂ってしまった。


 ジンの記憶を今すぐ消すことができれば問題はないだろう。しかし、つかさはジンがそれを許してくれるほど間抜けではないことを身をもって実感した。つかさは明日も学校に行かなければならないのだ。


 通学路一帯がいつもより混雑する原因は商店街の祭りであった。


 毎年のことだが、つかさの通う高校は商店街から近いということで、祭りに出し物をいくつか提供している。出し物に直接関わりのない生徒たちも下校時間とちょうど重なるということで大勢観に来ていた。


 つまり、明日も学校に用のある「なぞの転校生」の日野つかさは、どこにその視線があるかわからない状況であまり目立つ行動ができないのである。最悪の場合、今日までにジンの記憶を消すことができなかったら、しおりとジン以外だれも「日野つかさ」を知らない教室まで赴かなければならないかもしれない。


 それは非常にまずいことであった。


 「日野つかさ」を知らない人間しかいない教室は、つかさがいない状況が正常なのだ。そこに平然と入り込むことは非常にリスクが高いことであるとつかさは感じた。


 しおりは呼び出せば出てきそうなものだが、ジンは簡単にはいかないだろう。教室はジンにとっては一番の隠れ家になるはずだ。


 つかさはジンを追いかけて走っていた。


 歩いて出店を冷やかして回る人々の中を走りぬいていくのはただでさえ目立つのだ。人にぶつかりなどしたらジンを見失ってしまうだけでは済まないかもしれない。そのような不安を傍らに、最大の注意を払いながら何とかジンと一定の距離を保っていられた。


 しかし、商店街通りに入ってからつかさはおかしいと感じることがあった。逃げるためなら全力疾走すればよいものを先ほどから、後ろを振り返ってつかさのことを確認しながら走っている。そんな余裕を見せ付けられながら、先ほどから約20メートルの距離が埋まらないのは、単純にジンの運動神経がいいからだ。


 では、なぜなのだ?なぜ人ごみに隠れようとしない?なぜオレを振り切ろうとしない?


 追いかけるのに精一杯で思考までに頭が回らないつかさは銃で狙うことも、追いつくこともできず注意深く走り続けることしかできなかった。


 そうこうしているうちに商店街を出て、人々も先ほどの大通りよりはマシになる。しかし、その先には商店街と住宅地を分けるように設けられた踏切が設置してあった。よりにもよって今、将に踏切が降りようとブザーが鳴り始めたころジンはその間をすり抜けたのだ。


 完全に降りきるまでに後数秒。


 このまま逃しては完全に見失ってしまう。今なら間に合う。全力で走りさえすれば。


 すでに胸の位置まで降りてきた踏切をくぐろうとしたそのとき、つかさは何者かに襟首をつかまれてその場に倒されてしまった。


 ジンが走り去っていくのを見送りながらつかさは、背中から落ちて転んだ。厳密に言えばそれはしりもちだった。しかし、ここにきて転ばされることで張っていた緊張の糸が切れて、情けなくもゆっくりと背を地面についてしまった。


「___っぐ」


 痛みこそなかったが、自分を倒した人間に対して大声で罵倒してやりたい気持ちに身を焦がした。


「日野!なんてことしてるんだ」


「…!先生」


 周囲の野次馬が面白いものでも見つけたかのように、興味深げにふたりを見ている。その中につかさの高校の生徒らしき人間は誰一人としていなかった。


 しかし、それを喜んでいられる精神的余裕はつかさにはなかった。つかさの襟首をつかんで引き倒したのはつかさの担任の吉田であった。元野球部のエースで体も一般より一回り大きいその教師は襟首から手を離し、事情を聞きた気につかさを見下ろしていた。


「…はあ、っはあ…。先生…これは」


 つかさは息を切らしながら、痛みを訴える喉とカラカラになって不快に粘つく口で弁解をしょうと試みたが、それはまともな言葉にはならなかった。


 つかさは、学校に残っていると思い込んでいた吉田の腕に「見回り指導員」の文字があることに気がついた。どうやら今日は祭りの見回りのために出払っているらしい。


 ややあって電車が猛スピードで通り抜ける。つかさが向こう側に渡るには十分すぎる時間ではあったが、吉田のした行動はやり方はどうであれ大人として模範的な行動といえよう。しかし、今のつかさにとっては完全なる邪魔者であった。


「先生、急いでいるんです。すみませんがここは」


「いいや、しっかりとした事情を聞くまではだめだ。こっちに来い。そこでは邪魔になる」


 吉田はつかさの手を無理やりにつかんで、まるで咎人を連行するかのようにつかさを引っ張っていこうとした。


 つかさはそれをよしとはしない。問題を起こすのはまずいことになるが、ジンを逃がすのはもっとまずいのだ。


 つかさは非常に焦っていた。


 どうする?どう切り抜ける?


 腕を掴まれて無理矢理に歩かされている間にも、つかさは必死に考えた。しかし、咄嗟に頭に浮かんだのは状況を打破するための妙案などではなく後悔であった。


 なぜ、ジンを逃がした?ここにいるはずのない吉田につかまっているのはなぜだ?


 すべて自分の浅はかな計画のためだ。


 ジンを取り逃がしたことに始まり、偶然にも踏切を無視しようとしたところを吉田に見つかり。


 ああ、なぜこうもうまくいかない。


 計画の甘さが自分にあることは十分理解していた。しかし、その公開を焦りは怒りへと変えた。


「いいから手を離せ!」

 

 つかさは疲労でだるく、重くなった体に鞭打って力いっぱい吉田の手をほどいた。


「日野…?」


 怒声とともに無理やりに手をほどいたつかさを見て、つかさに模範生の姿を見ていた吉田は面を食らった。疲労や焦りがつかさの思考を直情的にしているのは言うまでもない。しかし、今の状況ではこれが最善なのだ。


 振り返って走り始めたとき、ジンはつかさの20メートル先にいた。



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