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ヘルメス  作者: 捺耶 祭
32/45

日野つかさ-16-


 少年は帰宅ラッシュの雑踏から弾き出されてしまったかのように、歩道脇のベンチに座っていた。


 日は傾き、陽炎とともに街のビルの間に埋まっていく。


 菓子屋の前に設けられたアンティーク風のベンチに寂しげに腰掛ける少年のことなど、道行くサラリーマンやOLは気にも留めないだろう。


 駅を出てすぐの菓子屋の前は、家路に着くもの、待ち合わせをするもの、メールを打ちながらせわしなく足を動かすもの、夕食の食材を買うもの。


その誰もが夏の暑さを振り切るようにして自分のするべきことを全うすることが精一杯に見えた。


 少年は、短パンに戦隊ものの絵柄がプリントされたシャツを着て、麦藁帽子をかぶっていた。


 あご紐がゆるく、ゴムはその役割をもう十分には果たしてはいなかった。手にはラビットランドとプリントしてあるウサギ形の風船をしっかりと握り締める。


 誰が奪うわけでもないのに力強くただひたすらに。

 

 生ぬるい風が紐をゆらりと揺らす。


 少年を取り囲む状況は、あたりが完全に暗くなっても変わることはなかった。


 客観的に見ても区別があるとはいえない少年と歩道みちを行く人々との唯一の違いは、これから帰るところがあるか否かという点であった。


 少年はまったく動かない。


 視線を地面におとしたまま、いつまでたってもひとりで座っていた。


 誰かを待っているのだろうか?


 いや、待つ人など待ってくれる人さえもういなかった。


 少年は動かないのではない。動けないのだ。少年の目は、4歳という年齢を鑑みてもあまりに生気がなく絶望していた。


 途方にくれているわけではない。


 誰かに会いたい、どこかに行きたい、何かをしたいわけではない。


 少年の目には意思の光というものが欠落していた。


 それは、もう二度と迎えに来てくれることはないであろうと分かる親を信じて動かない以外選択の余地がないという事実だけを反映したものであった。


 やがて、菓子屋の閉店時間の八時になる。


 店の中の明かりが消え、街燈とベンチの背部に設けられた間接照明が、少年を悲劇の主人公のように演出する。


 この季節は夜でも蒸し暑い。少年は必要最低限の動作で滴ってきた汗をあごの辺りでぬぐい、その後もじっと地面を虚ろににらんでいた。


 タッタッタッ____


 遠くからスニーカーでアスファルトを蹴る音が聞こえた。それは徐々に少年に近づいていき、少年のすぐ前で止まる。


 ずいぶん急いでいたのだろう。肩で大きく息をしていた。


「うっそぉ、もうしまってんのー」


 息を切らしながらそう口にするのは一人の健康そうな女性であった。


 髪は長く赤毛で、タイトなジーンズにシャツ一枚という一見飾り気のない風貌からもハツラツとした印象を与えた。


「八時に仕事終わるって、その後時勢いかがなもんなのかしら?お菓子屋さんはしょうがないのかしらねー」


 女性は若く見えた。まだ二十代前半であろうか?いや、もっと若いかもしれない。


 この季節の蒸し暑い街の中を疾走しても崩れることのないくらいの薄いメイクでいて美しい顔立ちは、紛れもなく若いという証であった。


「そこのボク!ここの店長さんと知り合いだったりしない?」


 少年はうつむいたまま首を横に振る。


「そっかあ」


 そう口にして、ひとしきり落胆すると女性は少年の横に座った。


「そうだよね。お菓子屋さん明かり消えてるしね。こんなちっさいこを置き去りにするはずないか」


 女性は独り言のように言うと、背もたれに体を預けて深くため息をついた。


「あのさ。おねえさんバイトクビになっちゃってさ…。このままだと明日からなにも食べるものがないの。だからさ、閉店ぎりぎりに来て、パンの耳とあまりものの商品を分けてもらったあとにぃ、体よく働かせてもらえればなあと思ってたの。お菓子作りには結構自身あるし、それにこの店なんかすっごく自給が高いの!それがなにーっ!あまりものもらうどころか店閉まってるじゃないの!下心まる出しでぎりぎりにくるんじゃなくってもっと余裕もって来るんだったわ。…なーんて。間に合ってもそううまくいくわけないんだけど。うまくいくも何もさっきクビになったばっかだし 」


 あたりは帰宅ラッシュの慌しさから一転、夜の喧騒に包まれていた。


 街灯の灯火、ネオンライトの光、看板の明りがそれぞれ夜の闇を照らし出す。


 女性は熱っぽく語ったり、独りで落ち込んだりしていたが少年はまるで意に返さず、やはり聞いているのか聞いていないのかわからないようなうつろな視線で地面をにらんでいた。


 まるで、女性が等身大の子供の人形に話しかけているようにも見えるそんな光景は、しかし少年が一人でいたときよりも悲しげではなかった。


「私、ユキ」


 女性はひとしきり話たあとに、そう自己紹介をする。


「苗字は久藤。あんまし好きな苗字じゃないんだけどね。」


 感慨にふけるような遠い目で人波をみつめる。やがて少年をみて、


「きみは?」


 そう問いかけた。その一言が少年の止まっていた時間をふたたび動かした。 


 ____お■うさ■に言われたことを守らなくちゃ。


 生気を失っていた瞳に魂が宿る。少年はゆっくりと渇いた唇を動かすと、忘れないように頭の中で反復した言葉を口にした。


「…かさ…」


「ん?」


「くどう、つかさ…よんさい…です」


 これは教えてもらった。最後にあのひとから。もう顔も思い出せないけど、とても大きな存在だった。


「へ-。苗字同じだね!なんか運命感じちゃうっ。ところできみは____」


 その瞬間であった。


 少年を雁字搦めにしていた何らかの緊張が解き放たれたのは。


「ふぇ…。えっぐ…ぐすっ…うぁぁぁぁぁん」


 少年は糸が切れたようにいきなり大声で泣き始めた。女性があわてるのもお構いなしにその胸に飛び込んで顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。


 道行く人が振り返ろうと、手に握っていた風船が中を舞おうとお構いなしに。


「えっ…なに?なんなの?あー私じゃないですよ泣かせたりしたの。わたしは何もやってませんからね!」


 手を振りながら無実を訴える女性であったが、その片手はしっかりと少年を抱きしめていた。


 まるで親鳥がその羽で子をかばうかのように力強く。


「とりあえずー。ねっ?警察さんにいこう。パパとママとはぐれちゃったんだよねっ?!」 


 少年は何も応えずただ泣いていた。何が悲しかったのかはもう覚えていない。そもそも悲しくてないていたのかすらわからない。


 でも、あの時少年は確実に安心していた。



 その夢は唐突に終わりを告げた。



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