日野つかさ-14-
「つかさ。起きているか、飯だ」
「はい。今行きます」
六時二十分を回ったところで宗斎がつかさを朝食に呼んだ。
ヴァンと会話してから一時間あったがつかさは朝食に呼ばれるまで今日の授業の予習をしていた。願いが叶えば他人とかかわらなくても済む。
それは究極的なところで人間に割り振られる『役割』を捨象する行為でもあり、社会のよりよい歯車になるための演習である『勉強』だってしなくてもいいということだ。
しかし、つかさは今日も予習をした。つかさは他人が好きではなかったが、先人の作り出した思想を愛していた。
そこに「生きる」というヒントが隠されているような気がして。
つかさは生きるという行為に誇りにも似た感情を持っていた。
それは他人のことが信じられず、心休まるとことがないにもかかわらず自殺という選択肢をとらない大きな理由でもある。
スクールバッグに今日のテキストを入れてから食卓につく。今日の朝餉はさんまの塩焼き、漬物、納豆、ごはん、そしてなめこと豆腐の味噌汁だ。お椀から立ちのぼる朝日を浴びた湯気が優しく揺らめく。味噌汁のだしの匂いに胃がきゅうとなった。
宗斎は家事全般も卒なくこなす。普段はしなかったが妻である霧絵が亡くなる前から料理は得意だったようだ。
つかさが小学校高学年になった折に、自分も食事を作るという提案を宗斎にしたが、「すまない。まずかったか?」と意外なことを言われてしまい、せめて皿洗いだけでもというと「つかさは勉強が大変だろう。皿洗いくらい任せておきなさい」と返されてしまった。家事においてはほとんど同じように返されてしまうため、つかさが家でやることといったら勉強くらいしかなかった。
「つかさ。このごろ忙しくて聞きそびれていたんだが、一週間前だったか…一日家を空けていたようだがどこへいっていた」
「はい。昔お世話になっていて孤児院に行っていました。シスターがお元気か見に行きたくて」
「光の園にか。そうか…お前を引き取ってもう十年以上になるんだな」
宗斎から当たり前の返事が返ってくる。
先日記憶を消したシスターの中には、昔世話をしたことがある少年の影はあっても日野つかさは存在しない。
「つかさを覚えているシスター」がいないにもかかわらず、彼女や彼女のいた教会の話をするのはどこかパラドックスじみた混乱を催させた。
心なしか宗斎はうれしそうであった。
「ときにつかさ。お前を引き取った時のことを憶えているか?」
「…いいえ、あまり。すみません」
つかさは正直にそういった。
「そうか。霧絵がそのとき思い立ったみたいに子供を引き取ろうと言い出したんだ。ちょうど今頃だったか。急な申し出だったが、わしは迷いはしなかったよ」
つかさは始めてそのような話を聞いた。なぜそんな話を今頃になってするのかわからずに少々呆然としていた。
「光の園にいったときほかの子には少し申し訳ないがお前がとても特別に見えた。まるで昔から知っているような…そう霧絵も同じことを言っておった。わしらにはお前しか見えていなかったんだ」
つかさは正直とても驚いていた。いつもは無口な宗斎になにがここまで言わしめているというのか。つかさは思ったとおりにそれを口にした。
「はあ…。それはとてもうれしいことです。それに少し照れます。なぜ今日はそんなことと口にするんですか?何かいいことでもあったのでしょうか?」
「久しく忘れていたことを思い出したんだよ」
それだけ言って宗斎は食卓を片付けに入った。つかさは何かから置き去りにされたような気分になる。
宗斎は気分よさそうに食器をカチャカチャいわせながら洗い物をしている。
きっとよい思い出なのだろうと思った。同時にそれは当時孤児であった自分に対して老夫婦が抱いた身勝手な幻想であるとも思った。しかし、その思い出に興味がないといったら嘘になる。
つかさは、ただでさえ混濁する幼少期の記憶に確信がほしかったのだ。
「宗斎さん」
「ん?なんだ」
言おうとしてつかさは思いとどまった。つかさはそれを聞くことができなかった。なぜなのかは考えようとしなかった。