日野つかさ-8-
「帰ってたのか、つかさ」
つかさが用を足しに行くと作業室から出てきた日野宗斎と出くわした。作業室といっても、家の中にある何の変哲もない和室に本や工具が散らかっているだけの部屋である。
取り立てていうなら、家の中では一番日当たりがよく、晴れた日には美しい月を見ることができる。
部屋の一角を占領したブルーシートの上には木彫りの彫刻やキャンバスが置かれていて、工具部屋独特のニスや絵の具の匂いがした。
和室をそのまま利用することはこだわりなのかもしれない。
「ただいまかえりました宗斎さん」
つかさは慇懃とも言えるほどに、一礼して宗斎にあいさつをする。
宗斎は仕事に取り掛かると、その部屋からは必要最低限しか出てこなかった。つかさはそれを、作業に集中するためであると思い、しいてそのときに声を掛けることはしなかった。
だから、日野家にはいつも音が少なく、宗斎の妻の霧絵が死んでからはなおのことそれは際立つこととなった。家にいるときの時間的な挨拶が少し遅れてしまうのはこのせいである。
「今メシにする。それまで、買ってきたシュークリームを食べているといい。お前の好きな駅前の店のものだ。店長がお前のために今日も1つサービスしてくれたぞ」
宗斎は眉間にしわのよった白髪の老人であった。和服を常着している彼は、いかにも頑固な職人というイメージを彷彿させる。
「ありがとうございます」
つかさは上面だけのにこやかさでひとこと。
しかし宗斎はその微妙な変化を感じ取っていた。
「つかさ、いいことでもあったのか」
「…、どうしてですか」
つかさは驚いていた。確かにつかさは、これから始まろうとしている未だ不確定な要素をはらんだ未来に期待にも似た感情を抱いていた。
それを見抜かれたということは、確かに驚くべきことであったのだ。
しかし、いまここで最も驚いたことには口数が少なく、他人にもあまり興味のないように見える____つかさ自身この点においてなぜ自分が引き取られたのか疑問であった____宗斎がつかさの変化について言及したことであった。
「いつもよりも楽しそうに見える。…いや____」
宗斎は何かをいおうとしてそしてやめた。
年頃の息子に対してプライバシーを詮索することは野暮であると思ったのかもしれない。
「ちょうどおなかがすいていたところでした。早速シュークリームをいただくことにします。宗斎さんの手料理を食べる前に食べるのは失礼であると思いますが、なにぶん育ち盛りです。この顔は今からおなかに納まるであろうシュークリームのことを思ってにやけてしまっていたのでしょう。取らぬ狸の皮算予とはオレらしくもありませね。いまだこない未来に思いを寄せるなんて…」
___慇懃なその言葉は嘘であった。
しかしそれは、つかさの自身の現状について述べたものであるかのようにも聞こえた。
『鉛筆をとってキャンバスに始点をうがった瞬間から、どんなに研鑽をつんだ人間でさえ、それが自分の思い描いた完全な像に完成することはない。』
これは、つかさが宗斎に教えてもらった数少ない教訓であった。
しかし宗斎は続けて「私は自分のイメージを完全に描きたい」と言っていた。
芸術家らしくない言葉だと思った。
つかさは『芸術』という偉く大層なものを語ることはできない。しかし、芸術家の『完成』とは過程を集めた結果であり、『作業工程』自体もその芸術の一部であると思っている。
つまり、『自分の思い描いた完全な像に完成』させる必要などなく、ぼやけた最初のイメージを徐々に輪郭付していき、やがてはイメージさえも超える行為であると思っていた。
あらかじめ自分の中に完全なイメージがあり、その点に向かって着地したいという思想は芸術家にしては白々しいと感じた。
自分に照らし合わせてみる。
鉛筆さえ握っていなかった少し前の自分。しかし、今は描く手段を持っている。まだ見ぬ結果など気にかけてなどはいられない。
「そうか」
一言だけ言って宗斎はキッチンの方向に歩いていった。それを見送ってからつかさは居間のテーブルにあった黒い光沢のあるしゃれたお菓子屋の箱を持って自室にむかった。