プロローグ
夕日の坂道を一人で歩く。
秋の夕暮れ時は、いまわしい夏の暑さが残る日中よりだいぶ過ごしやすい時間帯であった。
遠くで走る電車が大気を揺らし、残響が弱々しく響いてくる。橙色に輝く窓ガラスを揺らしながら遠ざかってゆく鉄の箱。それを背に見送るのは、高校に入学してからの日課であった。さっき別れたクラスメイトの何人かはあの電車に乗っているのだろう。
そこに誰が乗っていようとオレには関係がない。考えようとも思わない。
オレがこの町に来て、この町で過ごして、もう十年以上の時が経つ。あまりにも平凡、そして怠惰。暇を持て余しているという意味でオレは健全な高校生であった。それは、この町に来る前の土地でも来てからでも変わりないことだったのだろう。
しかし、オレはここに来る以前に自分がどこに住んでいたかを知らない。ここに来る以前の記憶がない。
オレは捨て子で、気がついたら孤児院にいた。だから、捨てられたときにどこから来たかなんて知る由もなかった。
もちろん、この町にはもともと居たのかもしれないという可能性もある。しかし、捨てた子の顔を見ながら後ろめたく生活するなど誰が望むことであろうか。人間なんて弱い生き物は、自分の犯した罪の責任に耐えられなくなるとすぐに逃げ出してしまう。逃げ出した先でのうのうと生きていくことによってそれを忘れようとする。
それはまるで、熱い鉄瓶に手を触れてしまった時のような脊髄反射のようにまっとうな自衛手段だ。それをとやかくやと責める権利は同じ人間のオレにはない。きっとオレは別の場所で生まれ、遠ざけられるようにしてこの町に捨てられたんだと、今までそう思って生きている。
それは被害者気取りの誇大な妄想なのかもしれない。そう思ったことも何度かあった。
獅子が子を崖に突き落とすがごとく、大富豪が成人までわが子を孤児院に入れている…とか。
ヤクザに追われて子供だったオレだけでも救おうと…とか。
いつか迎えにきてくれるつもりなんじゃないか…とか。
我ながらにして恥ずかしい、幼心に描いた空想の数々。もしかしたら、何か理由があって。
そしてひとつ夢見るたび、自分がありもしない可能性という名の希望にすがり付いているようで気分が悪くなった。どうあったってオレが捨てられ、孤児院にいたという事実には変わりがないのだ。
誰かおまえを迎えに来たか?
___いいや、小学生の時にめでたく老夫婦に拾われた。
何をどう考えようと最後には、抗いようのない過去という現実の大きな壁にぶつかって。そして、また振り出しに戻ってはまた無意味な思考を繰り返してしまう。そうしているうちにオレは年を重ね、自分を捨てた他人というものが信じられなくなり、厭になってしまったのだ。人付き合いだとか、信頼だとか友情、愛情、優しさなんてものが薄っぺらなものに見えて、今いる世界も、立っている地面さえすべてが嘘をついているように感じる。
だからオレは、今日も一人で坂を上る。学校では優等生を演じ、当たり障りなく生活していくには「ひとり」ではいられないのだ。
だから、この瞬間ほど気が楽でいられる時間はなかった。誰にも気を使わなくて済む。
人は一人では生きられないから、どうあったって群れの中に存在しなければならない。
そんな常識の中で半ば諦めにも似た感情を抱きながら、オレは他人と折り合いをつけて生きている。
もう、そんなのは疲れたんだ。
だから、俺は望んだ
ひとりだけの世界を____
「その望み___叶えて差し上げましょうか?」
背後から聞こえた高い声。まるで湧き出すように生まれた音は少年のように奔放でいて、しかし老人のように落ち着いていた。
そこにいたのは見るからにおかしな格好をした、ひとりの子供だった。
___ 背後から聞こえたそいつの声が、オレの運命を大きく変えていくことになろうとは、
きっと神さまだって知らなかったに違いない。