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アクラシア(改稿版)  作者: エリー
第1章 カミツレの花
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第一話

 末暦(L.C.)2044年 丑月





 塵の海から立ちのぼる霧のような砂塵の中に、遥か昔に栄えていたであろう大規模な都市遺跡の暗くぼんやりとした影が佇む。侵食が進み、脆くなったコンクリートは崩れ落ち、剥き出した鉄骨はひどく錆びている。

 レゴリスに浸るブロンズ像は、僅かな時間に少量だけ降る強力な酸性雨によって原形が分からないほどに溶け爛れ、白灰色の砂波が静かに打ち寄せる砂浜の、汚染されて赤みを帯びたきめの粗い砂は、つんとする刺激臭を放っている。



 その砂浜に、白狐の面をつけた男がひとり立っていた。すらりとした長身に纏う、くたびれてぼろぼろになった白装束が、微かな風を受けてまるで亡霊のように揺れている。痛んでぱさぱさになった赤髪と、日に焼けて荒れた褐色の肌がエスで生きる過酷さを物語る。

 白狐の男は憂鬱そうに塵の海を見つめていた。顔の表情は見えないが、面の陰影が彼の感情を表しているように見える。


 何かの気配を感じたのか、彼は俊敏に首をひねって視線を海から別の場所へとやった。その衝動で狐面の耳から垂れ下がる銀の鈴が跳ね、軽やかに鳴いた。

 男は海岸沿いを何かに引き寄せられるように歩いていった。建物の残骸を身軽に飛び越えながら、確信した足取りで進んでいく。


 暫く行った所で彼は立ち止まった。彼の視線の先には、丘のような巨大な灰色の塊が横たわっていた。それは、二対のヒレを持った何らかの水生生物の死骸だった。



 「・・・北極の変異生物か」



 男は呟いた。抑揚の無い、低く静かな声には感情が一切感じられない。


 エスの北極には、かつての広大な青海のなごりである大規模な塩湖があり、汚染された水に適応して変異した水生生物がいくらか生息している。狐男の前で死んでいる巨大生物も、その中の一種であるようだった。


 男はその生物に近寄った。近くで見ると、銀色に輝いているのが分かった。彼はそのつるりとした外皮に、皮手袋をはめた手で触れた。そして慰めるように、傷だらけの巨体に指を這わせながら歩いた。その生物の大きくて長い顎が、ぱくりと開いていた。何本もの白い牙が不規則に並んでいる。


 彼は上顎と下顎の間にある砂地に人が倒れていることに気がついた。それは、長い黄金の髪をした裸の少女だった。酸にかぶれたのか、透けるように白い身体のあちこちが赤く炎症している。


 皮製のロングブーツの先で、男は少女の細い体を軽く蹴った。死んでいるのか、ピクリとも動かない。彼は少し力を込めて再び蹴った。少女が微かに唸った。生きている。


 「・・・・。」


 男はしゃがみこみ、ため息をついた。そして大儀そうに袖の袂から何かをつかみ出した。それは半透明の白い小石だった。水流石と呼ばれるパイだ。彼はそれをしっかりと握り締め、拳を少女の顔の上にかざした。その拳から、徐に水が流れ出して少女の頬を濡らした。




 少女は一瞬、顔を顰めた。朦朧とする意識の中、彼女は自分の頬に流れ落ちてくるものが水であると分かった。顔に流れ落ちてくる水を、彼女は必死で口に受け止めて飲んだ。

 ひとしきり水を飲んだ後、少女はゆっくりとまぶたを開いた。金色の長いまつ毛の下に現れた瞳は、片目ずつ色が違った。右目は紺碧色、左目は淡い黄緑色をしている。彼女は虚ろな目で、灰色に淀んだ空を眺めた。


 その視界に、ふいに現れた白狐の面。驚いた少女は跳ね起きた。


 「・・・・。」


 少女と狐男は暫くの間、黙ってしゃがみ込んだまま見つめあった。

 ふと、少女は死に絶えた銀色の生物に気がついた。



 「キトラ・・・!」



 彼女は大きな顎を這いあがり、巨大生物の閉ざされた目に向かってかすれた声で何度もその名を叫んだ。少女の目から涙が溢れ出す。小さな身体でその生物を抱きしめようと、精一杯に腕を広げて銀色の皮膚に貼りつき咽び泣いた。



 巨体の上に這いつくばって泣く少女を、狐男は首を少しかしげて不思議そうに眺めていた。


 「・・・無駄に体力を消耗するな。それ以上、水分を放出するのも良くない」



 男の非情な言葉に、少女はかっとなって彼を睨みつけた。


 「悲嘆して何がいけない?キトラは気高く美しい海竜だった。あたしの、唯一の友達だったんだ・・・!」


 「ほう、この言語ができるのか。なら話は早い。その生物の魂が旅立つ前、俺に言いたくした。〝彼女は何日も飲まず食わずだから、私が逝った後に目を覚ました彼女が嘆かないように大人しくさせてくれ。出来れば水と衣服を与えてやって欲しい。私の口の中で衣が溶けてしまったし、先にも言ったように数日間何も口にしていないから〟と」


 淡々と語られた狐男の胡散臭い話に、少女は充血した目を見開いた。普通であれば(・・・・・・)到底信じられる話ではないが、その話が出まかせではないということが普通の人間とは違う(・・・・・・・・・)彼女にはわかる。



 「・・・この世の中、それだけ泣いてやれば贅沢すぎる弔いだ」


 「・・・・。」



 涙を流せば喉が渇く。喉が渇けば水を飲まねばならないが、その水がいかに貴重かは幼子でも知っている。少女は喉元から込み上げてくるものを懸命に堪え、涙を拭った。



 「それにしてもけったいなガキだな・・・仮面(アバター)も持たねば、影も持たぬとは。おまけにたいそうな霊気(アウラ)をしておる。人間かどうかも怪しい」


 アウラとは魂魄から放出されるエネルギーのことである。それを視覚的に捉えたり感じ取ることが出来るのは、霊感のある者に秘められた能力の一部である。


 狐男の指摘通り、少女の体には奇怪なことに影が無かった。仄暗い中、その事実を瞬時に見抜いた彼の洞察力は尋常なものでは無い。それに加え、影が無いという不可思議で不気味な者を目の前にして彼は至って平然で、一切の動揺を見せなかった。



 少女の方が驚いていた。影を持たない自分を目の前にして、動じることの無い者など今まで居なかった。それ故、彼女は白狐の面を被った妙な男に強く関心を抱いた。



 「あんたにも霊感があるんだな。影のことは放っといてくれ。アバターとは何だ?」


 狐男は面を指差した。


 「これだ」


 少女は細い眉を顰める。


 「白狐の面?なぜそれが要る?」

 「この地で生きるために必要なのだ。北極の者はアバター無しで暮らしているのか、平穏なのだな」


 彼は感心しているのか皮肉なのか判断できない言い方をした。



 「ここは何処だ?」


 「北アクラシア大陸の北西、第5危険エリア。ガグル出没区域であり、地縛霊たちの溜まり場だ。砂塵が濃く酸素の薄い汚染地帯でもある。貴様、本当に人間か?アバターだけならまだしも、ガスマスク無しでなぜ平気でいられる?」



 男の問いに、少女はどう答えてよいか些か迷った。出会って間もない何者とも知れぬ相手に、自身の込み入った身の上話をするわけにはいかない。



 「それは・・・自分でもよくわからない。あたしが何なのかを知るために(うみ)の底から逃げてきた」


 「・・・・。」



 彼女は海竜の大きな目蓋を撫でた。その目にまた涙が滲む。




 「?」


 狐男は、海竜の牙の間で何かが鈍く光ったことに気がついた。よく見ると、そこには無色透明の石が挟まっていた。



 「何だ、この石。パイか?」

 「触るなっ!!」



 少女は威嚇するように鋭く言い放ち、海竜の上から慌てて飛び降りた。


 「痛っ!」


 地面に足をついた瞬間、少女は身を強張らせる。足の裏にガラスの破片が刺さったのだ。狐男は羽織りを脱いで少女に押し付け、袂から青緑色のパイ(治癒石)を取り出した。彼がしゃがんで少女の足首をつかもうとすると、彼女は足を引込めた。


 「・・・治療するだけだ」


 男は少しイラついた声色で言った。少女は警戒しながらも恐る恐る足を前に出す。


 狐男は彼女の細い足首をしっかりとつかみ、「抜くよ?」と短く言って少女が了承する前に思い切りよく抜いた。少女は小さく悲鳴を上げた。足の裏から鮮血が滴る。すぐにパイを近づけて、それの力を放出させた。青い光の膜が少女の足を覆う。



 「人間かどうかは知らんが、生物であることには間違いなさそうだ」


 「・・・・。」



 血は止まり、徐々に傷口も塞がった。狐男は少女に渡した服の両袖を破り取り、少女の両足に括りつけた。さらに腰に巻いている皮製の道具入れからロープとナイフを取り出した。適当な長さにロープを切った彼は、それを少女に手渡した。



 「?」「裸でいるのが好きなのか?」



 少女ははっとして顔を赤らめ、急いで羽織りを着てロープで腰元を縛った。



 「・・・ありがと」

 「口先の礼などいらん」



 男はそう言って、突如、ナイフの切っ先を少女に突きつけた。



 「な、何!?」

 「水も衣も、治療もただでは無い。常識だ」


 「・・・お金なんて持ってない」

 「見れば分かる。お前は健康そうだから、眼球でも内臓でも高く売れるだろうよ。それでちゃんとした衣服も買えるさ」


 「―――・・・!!」



 少女の顔は一気に青ざめた。少し考えれば分かることだ。行き倒れになっている見ず知らずの相手を無償で介抱するお人よしなど、今のこの世の中いるはずがない。地上で暮らす者たちの大半、己自身が今日明日を食いつなぐことで精一杯なのだから。


 突きつけられたナイフは世の実態そのものだった。これまで地上世界から隔絶された特異な生活を送っていた少女は、現実を目の当たりにして打ちのめされた。




 少女が狼狽してると、狐男はナイフをくるりと反転させて柄を彼女に向けた。



 「冗談だ。その髪を幾らか切って寄越せ」


 「・・・・。」



 一瞬、ぽかんとする少女。間もなく、たちの悪い冗談でからかわれた事に気づいた彼女は一気に頭に血が上った。

 男の手からナイフを乱暴にむしり取り、腰まで伸びた美しい金髪をひとつに寄せ集めて首元から一気に削ぎ切り始めた。


 「全部はいらんし、そこまで長くなくともいい・・・」


 この時、男はほんの少しだけ動揺を見せた。彼が少女の手を止めようとすると、彼女は男にナイフの先を向けてそれを制した。


 「・・・・。」


 見る見るうちに少女の見事な長髪は切り取られていった。髪を切り終えた少女は、呆然と立ち尽くして見ていた狐男にナイフと金髪をつき渡した。そして牙に挟まっていた石を外し取り、海竜の鼻面に精一杯の愛情を込めた口づけをした後、陸地の方へと大股で歩いていった。


 男は手早くナイフと髪をしまい込み、少女の後を追った。













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