むせる孔明、胃薬を走らせる
「良薬は口に苦し、良薬は口に苦し……。」
ゴリゴリ、という音が、成都の政庁に響いていた。
その発生源は、薬研を挽く音。
薬草をすり潰し、煎じ薬を作るための道具である。
そして、それを挽いている男こそ、かつて伏龍と謳われ、劉備玄徳が三度訪ねて迎え入れた天下の智者。
諸葛亮孔明であった。
「孔明様あああああっ!?」
成都の政庁に、若者の叫び声が響き渡った。
「馬謖……。何事です。落ち着きなさい」
諸葛亮は顔を上げることもなく、淡々と薬研を挽き続ける。
「慌てては、事を仕損じますよ」
「ですが、張飛様がっ!? 張飛様があああああっ!?
酔っ払って、大暴れです! なんか笑いながら部下を鞭でビシビシ叩いています!」
しかし、その名を聞いた瞬間。
諸葛亮は、薬研の中身を鷲掴みにすると、口いっぱいに頬張った。
「み、水をっ!?」
「んぐっ、んぐっ、んぐっ、んぐっ!」
若者が慌てて差し出した水を、諸葛亮は一気に飲み干した。
だが、喉に張り付いた苦い薬草は、なかなか流れていかない。
「んん、んーーーっ……。」
胸をどんどんと叩きながら、諸葛亮は静かにうずくまる。
「……だ、大丈夫ですか?」
「キレてない。キレてないですよ。私は冷静です」
やがて、顔色を戻した諸葛亮は、何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、立てた人差し指を左右に振る。
******
「曼怒麗玖……。
遥か西方には、よく効く胃薬があるとか」
ゴリゴリ、という音が、上庸の政庁に響いていた。
その発生源は、薬研を挽く音。
薬草をすり潰し、煎じ薬を作るための道具である。
そして、それを挽いている男こそ、大徳と名高い劉備玄徳に仕え、天下三分の計を示した大軍師。
諸葛亮孔明であった。
「孔明様あああああっ!?」
上庸の政庁に、男の叫び声が響き渡った。
「孟達……。何事です。落ち着きなさい」
諸葛亮は顔を上げることもなく、淡々と薬研を挽き続ける。
「慌てる乞食は、貰いが少ないと言いますよ」
「ですが、関羽様がっ!? 関羽様があああああっ!?
呉へ勝手に戦を仕掛けました! なんか義は全てに優先するそうです!」
しかし、その名を聞いた瞬間。
諸葛亮は、薬研の中身を鷲掴みにすると、口いっぱいに頬張った。
「わわっ!? ええっと……。ちゃ、茶をっ!?」
「はわちゃっ!?」
男が慌てて差し出したお茶を、諸葛亮は一気に飲み干した。
だが、お茶は淹れたばかりで熱々だった。
「したっ!? 舌があああああっ!?」
舌を突き出し、諸葛亮は仰け反る。
「……だ、大丈夫ですか?」
「キレてない。キレてないですよ。私は冷静です」
やがて、顔色を戻した諸葛亮は、何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、立てた人差し指を左右に振る。
******
「……隠居したい。
働いたら、負けだと思ってる」
ゴリゴリ、という音が、漢中の政庁に響いていた。
その発生源は、薬研を挽く音。
薬草をすり潰し、煎じ薬を作るための道具である。
そして、それを挽いている男こそ、劉備玄徳と共に漢室再興を目指し、古の軍師・張良にも比肩すると謳われた天才。
諸葛亮孔明であった。
「孔明様あああああっ!?」
漢中の政庁に、おっさんの叫び声が響き渡った。
「魏延……。何事です。落ち着きなさい」
諸葛亮は顔を上げることもなく、淡々と薬研を挽き続ける。
「一休み、一休み……。残業なんて馬鹿げてます」
「ですが、劉備様がっ!? 劉備様があああああっ!?
夷陵で大敗しました! なんかカッとなってやった、今は反省してるそうです!」
しかし、その名を聞いた瞬間。
諸葛亮は、薬研の中身を鷲掴みにすると、口いっぱいに頬張った。
「ちょっ!? 無茶すぎっ!?」
おっさんが驚くのをよそに、諸葛亮は酒瓶をラッパ飲みする。
「かーーーーっ!? やってられるか!」
一気に飲み干すと、諸葛亮は薬草と酒が混じった臭い息を吐いた。
「……孔明様、キレてます?」
「キレてない。キレてないですよ。私をキレさせたら、大したものです」
やがて、赤ら顔の諸葛亮は、何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、立てた人差し指を左右に振る。
******
「姜維、これから私は北斗星に祈りを捧げます」
「はっ!」
秋風が吹く夜の五丈原。
諸葛亮は、薬研を挽くのを止めた。
右手には宝剣を、左手には鐘を携えていた。
「成功すれば、延命が叶うでしょう。
失敗した場合は……。大体、三兄弟のせいです」
「……へっ?」
「誰とは言いませんが、地獄の三兄弟のせいです」
若き俊英は戸惑うが、その隣ではおっさんが腕を組みながらうんうんと頷いていた。
「丞相……。もしかして、キレてます?」
「キレてるに決まってるだろうが!
俺は、本当はな! 荊州の田舎で、静かに食っちゃ寝して暮らしたかったんだよ!」
「ひぃっ!?」
「孔明様! どうどう!」
「魏延、放せ! 俺は、俺はあああああっ!」
諸葛亮の死から、約三十年後。
諸葛亮の後継となった若き俊英もまた、慢性的な胃痛に悩まされた。
そして、蜀は滅びる。
結局、蜀を苦しめ続けた最大の敵は、魏でも呉でもなかった。
胃だった。




