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悪役令嬢もの

作者: あまがえる
掲載日:2026/05/30

 煌びやかなシャンデリアが、夜会を埋め尽くす貴族たちの欲望と好奇の視線を照らし出していた。

 ここはオーリィ帝国王城の大舞踏会。今宵の主役は、現皇帝の寵愛を一身に受ける第一皇子、カイル・ド・オーリィ。そしてその婚約者である公爵令嬢、エレナ・ヴァレンタイン――のはずだった。


「エレナ・ヴァレンタイン! 貴様の悪行、もはや見過ごすことはできん! 今この場をもって、貴様との婚約を破棄する!」


 満天の星々を散りばめたような大ホールの中心で、カイル皇子の怒声が響き渡る。

 彼の傍らには、怯えた表情で皇子の衣の裾を掴む、儚げな男爵令嬢、ミーシャが寄り添っていた。いわゆる「異世界転生者」として、現代の知識と愛嬌で瞬く間に宮廷の男たちを虜にした、この世界の「ヒロイン」である。


 エレナは静かに佇んでいた。

 夜会の主役にふさわしい、燃えるような真紅のドレス。しかしその表情は凍りついた湖面のように冷ややかで、微塵の動揺も漂わせていない。


「悪行、でございますか。カイル殿下」

 エレナの声は鈴を転がすように美しかったが、そこには明らかな侮蔑が混じっていた。


「白々しい! ミーシャの教科書を破り、彼女のハーブ園を荒らし、挙句の果てには暗殺者まで雇って彼女の命を狙った! これらすべての罪状、すでに証拠は揃っている!」


 カイルが手を挙げると、近衛騎士たちが一斉にエレナを取り囲み、鋭い剣先を彼女に向けた。

 周囲の貴族たちは、まるで極上の見世物を見るかのように、扇の陰からひそひそと囁き合っている。


「やはりな」「高慢ちきなヴァレンタイン家の令嬢もここまでか」「平民上がりの男爵令嬢に嫉妬して身を滅ぼすとは、哀れなものだ」


 ミーシャはカイルの胸に顔を埋めながら、誰も見えない角度で、エレナに向けて勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべた。

(――やった。これで私はこの国のトップに立てる。悪役令嬢エレナ、あんたの負けよ)


 だが、エレナはその挑発を完全に無視し、ただ深くため息をついた。


「証拠、ですか。カイル殿下、あなたが『証拠』と呼ぶそれらは、そちらのミーシャ様が現代日本の『乙女ゲーム』という知識に基づいて、拙く捏造されたものに過ぎないということはご存じですか?」


 その言葉に、ミーシャの身体がピクリと硬直した。


「な、何を言っているの……!? お、乙女ゲームなんて、私は知らないわ!」

「知らぬ、で通すには些かボロが出すぎていますわよ、転生者さん」


 エレナはゆっくりと扇を閉じると、パチンと小気味いい音を立てて鳴らした。それが、すべての始まりの合図だった。


「ふん、見苦しい言い訳を! ミーシャがそんな怪しげな術を使うわけがなかろう!」

 カイルがエレナを怒鳴りつける。彼は完全にミーシャに盲信していた。ミーシャがもたらした「画期的な内政アイデア」によって、カイルは自分が有能な次期皇帝になれると確信していたからだ。


 しかし、エレナは冷徹な目でカイルを見据えた。


「カイル殿下。あなたがミーシャ様の内政手腕とやらに惚れ込んでいるのは知っています。ですが、彼女が提案した画期的な政策が、この帝国の経済と平民の生活をどれほど破壊したか、少しでも考えたことはおありですか?」


「何……? 破壊だと?」


「ええ。まずはミーシャ様がドヤ顔で提案された精糖事業。我が国の特産である黒蜜の流通を無理に差し止め、南方の領地で無理な白砂糖の大量生産を行わせましたわね。結果として何が起きたか? 南方の水源はサトウキビの過剰栽培で枯渇し、伝統的な黒蜜農家は全員路頭に迷いました」


 エレナは一歩、カイルたちに歩み寄る。近衛騎士たちが威嚇するように剣を突き出したが、エレナの放つ圧倒的な威圧感に、彼らの手がわずかに震えた。


「さらに、彼女が全平民に義務付けるべきだと主張した、煮沸消毒と石鹸による手洗い推奨令。概念自体は素晴らしいものでしたわ。ですが、彼女はそれを布告一つで明日からやらせるという暴挙に出た。結果、石鹸の需要が爆発的に高まり、悪徳商人が油を買い占め、平民向けの灯油や調理油の価格が5倍に跳ね上がりました。今年の冬、凍死した平民が例年の3倍にのぼったことを、王城の奥でぬくぬくと愛を囁き合っていたあなた方はご存じないのでしょうね」


「そ、それは……一時的な混乱で……!」

 カイルが狼狽する。


「一時的? その一時的な混乱のせいで、我がヴァレンタイン公爵家がどれだけの私財を投げ打って平民の救済にあたったか、その脳髄に刻み込みなさい。あなたが『悪政への抗議』として私に送ってきた苦情の手紙を、私はすべて愚帝の証拠として保管してありますわ」


 ミーシャの顔から血の気が引いていく。

 彼女はただ、前世で遊んだゲームの知識を披露して「聖女」「天才内政官」とチヤハヤされたかっただけだった。その結果として生じる物流の破綻や、経済の歪みなど、ただの女子大生だった彼女に予測できるはずがなかったのだ。


「それに」と、エレナはミーシャを射抜くような視線で睨みつけた。


「私があなたを暗殺しようとした、という証拠の毒薬。あれはヴァレンタイン家が秘蔵する魔力回復薬のボトルですわね。我が家の紋章が入っているからと安易に盗み出したのでしょうが……中身を入れ替えるのを忘れるとは、お労しい。今ここで、そこの騎士にでも飲ませてごらんなさいな。暗殺どころか、すこぶる元気になるだけですわよ?」


「あ、ああ……あ……」

 ミーシャはガタガタと震え、カイルの背後に隠れようとした。だが、カイルもまた、エレナの理路整然とした反論に言葉を失っていた。


「カ、カイル様……違うの、この人は嘘をついてるわ! 悪役令嬢の言うことを信じちゃダメ!」

「悪役令嬢、ですか。最後までその安い芝居を続けるつもりですのね」


 エレナは憐れみの目を二人に向けた。


「さて、カイル殿下。婚約破棄の件ですが――喜んでお受けいたしますわ」


 エレナの宣言に、会場がざわついた。通常、婚約を破棄された令嬢は泣き崩れるか、無実を訴えるものだ。しかし、エレナの顔には、まるで長年の重荷から解放されたかのような、晴れやかな笑みさえ浮かんでいた。


「な、何だと……?」

「耳が腐っていらっしゃるの? 喜んでお受けする、と言ったのです。元より、無能で女を見る目もなく、平民の生活すら顧みない愚男子との婚姻など、我がヴァレンタイン公爵家にとっては泥を塗られるも同然。こちらから願い下げたいと常々思っておりましたの」


「貴様、皇族に向かって何という不敬を!」

 カイルが顔を真っ赤にして剣を抜こうとした。その時――。


「そこまでにせよ、カイル」


 大ホールの重厚な扉が開き、地を這うような低い声が響き渡った。

 現れたのは、現皇帝の弟であり、帝国の軍権を一身に握る「冷徹公」こと、クロード・ド・オーリィ公爵だった。彼の背後には、カイルの配下ではない、漆黒の甲冑に身を包んだ帝国正規軍の精鋭たちがずらりと控えている。


「クロード叔父上!? なぜここに……! これは私の私的な婚約破棄の場で――」

「私的な場だと? ふざけるな、愚か者が」


 クロードはカイルを冷徹な一瞥で黙らせると、エレナの前へと歩み寄り、胸に手を当てて深く一礼した。その仕草は、一介の令嬢に対するものではなく、まるで一国の主君に対するかのような敬意が込められていた。


「エレナ嬢、準備はすべて整った。君の指示通り、国境の補給路の確保、および愚太子派の貴族たちの不正資産の差し押さえを完了した」


「ご苦労様です、クロード様。これで憂いはなくなりましたわね」

 エレナは微笑んだ。


 カイルは何が起きているのか理解できず、パニックに陥った。

「お、叔父上? 何を言っているのですか? エレナは犯罪者だぞ! 私を裏切るというのか!」


「裏切る? 勘違いするな、カイル。オーリィ帝国を裏切っていたのは、お前と、その隣にいる素性の知れぬ売女だ」


 クロードは懐から何通もの書類を取り出し、床に叩きつけた。そこには、カイルとミーシャの署名が入った、隣国への「魔鉱石の密輸許可証」が写されていた。


「ミーシャとかいう女の提案した新しい工業技術とやらを導入するため、お前たちは我が国の国防の要である魔鉱石を、あろうことか敵国であるバルカ共和国に安値で売り払っていた。その額、国家予算の3割にのぼる。これは明確な国家反逆罪だ」


「な、何……!? そんな、私はただ、産業を発展させようと……!」

 カイルの顔が急速に青ざめていく。


 ミーシャは前世の知識で「効率的な工場経営」をカイルに教えたつもりだった。しかし、その資金源として、カイルが目をつけたのが魔鉱石の密輸だったのだ。ミーシャは「ゲームのイベントをクリアすればハッピーエンドになる」と盲信していたため、現実の国家運営におけるリスクや、隣国とのパワーバランスなど一切考えていなかった。


「すべては、エレナ嬢が裏で手を回し、密輸の現場を押さえてくれたおかげで発覚した。カイル、お前は本日をもって皇太子の地位を剥奪され、幽閉処分となる。そしてミーシャ、お前は国家反逆罪およびスパイ容疑で極刑だ」


「極刑……!? 嫌、嫌よ! 私、ヒロインなのよ!? なんでこんなことになるのよ! ゲームのシナリオと違うじゃない!」

 ミーシャは狂ったように叫び、床にへたり込んだ


 それから数ヶ月後。

 帝国は激変の渦中にあった。


 愚太子カイルは廃嫡され、北方の辺境にある塔に一生幽閉されることが決定した。彼をそそのかし、国を破滅の危機に瀕させたミーシャは、公開処刑こそ免れたものの、魔力を封じる特殊な鉱山での過酷な強制労働刑に処され、二度と歴史の表舞台に立つことはなかった。彼女の持っていた「現代知識」の歪みは、エレナが招聘した本物の学者や魔術師たちの手によって、一つずつ精査され、安全な形で修正されていった。


 静まり返る大ホールの中で、エレナは床に転がった書類を見下ろしながら、ミーシャに向かって歩み進めた。その足音が、まるで死神のカウントダウンのようにミーシャの耳に響く。


 エレナはミーシャの前にしゃがみ込み、その顎を扇の先でクイと持ち上げた。


「ミーシャ様。あなたは私を悪役令嬢と呼び、ご自身をヒロインと称しましたわね。あなたがどのような妄想を抱いていようと勝手ですが……一つだけ教えて差し上げますわ」


 エレナの紫水晶のような瞳が、妖しく、そして圧倒的な輝きを放つ。


「この世界は、あなたのお遊びの場ではないのです。ここに生きる人々には、生活があり、歴史があり、血の通った命がある。それを、前世の薄っぺらな記憶だけでコントロールできると思われたのは、あまりにも傲慢。あなたはこの世界の人間を、ただの操り人形だと見下していたのでしょう?」


「う、うあ……」

 ミーシャは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、首を振ることしかできなかった。


「私はね、このオーリィ帝国を愛していますの。だからこそ、あなたたちのような愚か者が国を滅ぼすのを、黙って見ているわけにはいかなかった。私が耐え忍び、あなたたちの悪行の証拠が集まるのを待っていたのは、すべてこの瞬間のためですわ」


 エレナは立ち上がり、ドレスの裾を美しく翻した。


「カイル殿下。あなたが私を断罪したのではなく、私が、あなたたちを断罪したのです」


 その言葉が終わるや否や、クロードの部下たちがカイルとミーシャを力ずくで引きずり回した。

「離せ! 私は皇子だぞ! エレナ、貴様ぁぁぁ!」

「助けて! カイル様! 誰か助けてよ! こんなのクソゲーよ!」


 二人の見苦しい悲鳴は、大ホールの重い扉が閉まるとともに、完全に遮断された。


 あとに残されたのは、圧倒的な静寂と、エレナへの畏怖に満ちた貴族たちの視線だけだった。


 そして、帝国の新たな舵取りとして、クロード公爵が摂政に就任。

 しかし、誰もが知っていた。そのクロードを裏から操り、事実上の帝国の最高権力者として君臨しているのは、他ならぬエレナ・ヴァレンタイン公爵令嬢であることを。


 ヴァレンタイン公爵邸の美しい庭園。

 初夏の風が心地よく吹き抜ける東屋で、エレナは優雅に紅茶を嗜んでいた。


「相変わらず、君の淹れるお茶は素晴らしいな、エレナ」


 対面に座るクロードが、微笑みながらカップを置いた。軍人らしい厳格な彼が、唯一、柔らかい表情を見せる瞬間だった。


「お褒めに預かり光栄ですわ、クロード様。ですが、お茶を楽しみに来たわけではございませんでしょう? バルカ共和国との和平交渉の件、どうなりました?」


「ああ、君の書いた外交書案通りに進んでいる。我が国から密輸されていた魔鉱石の返還、および関税の引き下げについて、向こうは全面降伏に近い形で合意したよ。君がバルカの内部に放っていた間諜たちが、あらかじめ向こうの政界の弱みを握ってくれていたおかげだ。本当に、君を敵に回さなくてよかったと心から思う」


 クロードは苦笑交じりに、エレナを見つめた。

 エレナはふっと、妖艶な笑みを浮かべる。


「あら、私はただの悪役令嬢ですのよ? 国を裏から操り、邪魔者を排除する……。世間では、私こそが帝国を支配する悪女だと噂されているとか」


「ハハハ、悪女か。もし君が悪女なら、この国の平民たちは皆、悪女の信徒だな。君が主導した救済政策と、新産業の手直しのおかげで、今年の収穫期は過去最高の見込みだ。帝都の平民たちは、君を帝国の慈母と呼んでいるぞ」


「あらあら。勝手なものですわね、人間というものは」


 エレナは遠くの空を見つめた。

 ミーシャという転生者が現れた時、エレナは一瞬、世界の理が狂うのを感じた。彼女が語る「ゲーム」という概念も、神の啓示か何かのように聞こえた。

 だが、どれほど奇妙な知識を持っていようとも、現実を生きる覚悟のない者に、一国の運命を背負うことはできない。


「私は、私の愛するものを守るだけですわ」

 エレナは静かに呟き、再び紅茶を口に運んだ。


 彼女の瞳には、かつての金色の檻ではなく、どこまでも広がる、自らの手で掴み取った自由な世界の青空が映し出されていた。

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