どうやら私は、可哀想な令嬢らしい
私、ミモザ・グリーンベルに向けられる視線には、いつもある種の色が含まれている。
それは同情であり、憐憫であり、そして好奇心だ。
夜会の会場で、扇の隙間から囁かれる声が聞こえる。
「……ご覧になって。今日もあの方、おひとりで」
「オスカー様は、またあちらにいらっしゃるわ」
「可哀想に。愛のない政略結婚の犠牲者ね」
彼女たちの視線の先には、壁際で腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいる一人の青年がいる。
私の婚約者、公爵家嫡男オスカー・フォン・ローエングリンだ。
黒髪に、射るような鋭い眼光。長身で威圧感のある彼は、ただ立っているだけで周囲を凍りつかせる空気を纏っている。誰かが話しかけても、返ってくるのは短い単語か、無言の頷きのみ。笑顔など、誰も見たことがない。
対して私は、地味な伯爵家の、これまた地味な娘だ。
特筆すべき美貌もなく、気の利いた会話も得意ではない。ただ、家の結びつきだけで彼と婚約した――と、周囲には思われている。
「あの不機嫌な公爵令息に、怯えながら従う地味な令嬢」
それが、私たちが演じさせられている配役だった。
もっとも、私がその配役に対して心を痛めているかといえば、全くそんなことはない。
私は手元のグラスを揺らし、波打つ果実水を見つめながら、内心で小さく息を吐く。
(……オスカー様、また考え込んでいらっしゃるわ)
彼が眉間に皺を寄せている理由。不機嫌だからではない。怒っているわけでもない。
ただ単に、今読んでいる難解な哲学書の考察に没頭しているか、あるいは次に読む本の選定について、真剣に悩んでいるか。大抵はそのどちらかだ。
彼は極度の集中力の持ち主で、考え事を始めると周囲が見えなくなる癖がある。そして、思考が深まるほど顔が怖くなる。
それだけの話なのだ。
だが、そんな事情を知らない人々は、勝手に物語を作る。
不幸せな私と、冷酷な彼。
そこに、「救い」の手を差し伸べようとする者が現れるのも、物語の必然なのかもしれない。
「オスカー様!」
鈴を転がすような、愛らしい声が響いた。
会場の空気が、ふわりと華やぐ。
現れたのは、最近社交界で話題の男爵令嬢、リリナ様だ。ふわふわとしたピンクブロンドの髪に、大きな瞳。小動物のような愛くるしさで、多くの令息たちを虜にしている。
彼女は、周囲が恐れて近づかないオスカー様の元へ、軽やかな足取りで駆け寄っていった。
「そんな怖いお顔をなさらないでくださいな。せっかくの男前が台無しですわ」
「……」
「私、面白いお話を知っているんです。少しあちらで、お話ししませんか?」
リリナ様は、オスカー様の腕にそっと手を添える。
周囲が息を呑んだ。あの氷の公爵令息に、あんなに無邪気に触れるなんて。
オスカー様は、思考の海から引き戻されたように、ゆっくりと視線を動かした。
そして、自分の腕に触れている彼女の手を見て、次に彼女の顔を見て――最後に、遠く離れた私の方を見た。
目が合う。
一瞬の交錯。
私は、ほんのわずかに首を傾げてみせた。
彼は、小さく瞬きをする。
それから、彼はリリナ様に向き直り、何かを短く告げた。リリナ様が、ぱあっと花が咲くような笑顔になる。そして二人は、バルコニーの方へと歩き出した。
会場に、さざ波のようなざわめきが広がる。
「見た? オスカー様が、女性の誘いに乗ったわ!」
「やっぱり、あの方も笑顔が見たいのよ」
「ミモザ様、どうなさるのかしら……」
同情の視線が、痛いほど私に突き刺さる。
捨てられる女。愛されなかった女。
私は、表情を変えずにその場に立ち尽くしていた。
悲しみも、焦りも見せずに。ただ、心の中で思ったことは一つだけ。
(……ああ、やっぱり「逃げた」のね)
あの瞬きは、彼なりの救難信号だ。
『知らない人間に話しかけられて思考が中断した。どう対応していいか分からない。とりあえず場所を変えて、君に助けを求めたい』
そんな、情けないほどの心の声が聞こえてくるようだった。
私はグラスを給仕に預け、ドレスの裾を翻した。
追いかけるのではない。ただ、彼が逃げ込んだ先で、いつものように待ってあげるために。
◇
数日後。
ある茶会に招かれた私は、予想通りの展開に直面していた。
主催は、リリナ様と親しい伯爵夫人。集まっているのは、噂好きのご婦人や令嬢たち。そして、主役のように中央に座るリリナ様。
私が席に着くと、微妙な沈黙が流れた。腫れ物に触るような、それでいて残酷な好奇心を含んだ空気。
「ミモザ様、ご機嫌いかが?」
リリナ様が、屈託のない笑顔で話しかけてくる。
「ええ、おかげさまで」
「よかった! 私、心配していたんです。オスカー様とのこと、色々と噂になっているでしょう?」
彼女は、まるで親しい友人のように身を乗り出した。
「私、オスカー様とお話しして分かったんです。あの方、本当はとっても寂しがり屋で、甘えたがりな方なんですって」
周囲から「まあ」「意外だわ」という声が上がる。
「でも、ミモザ様の前では、素直になれないみたいで……。きっと、お家柄とか、義務とか、そういうのが邪魔をしているんじゃないかしら」
「……そう、でしょうか」
「ええ! だから私、言って差し上げたんです。『もっとご自分の心に正直になっていいんですよ』って。そうしたらオスカー様、とってもホッとしたお顔をされて……」
リリナ様は頬を染め、夢見るように語る。
「私、思うんです。愛って、形だけの婚約じゃなくて、心が通じ合うことだと思うの。……ミモザ様も、そう思いません?」
それは、遠回しな、けれど明確な宣戦布告だった。
貴女では彼を癒せない。私こそが、彼の本当の姿を知っている。だから、身を引きなさい。
周囲の令嬢たちも、私を伺うように見ている。何か言い返すのを期待しているのか、それとも泣き出すのを待っているのか。
私は、紅茶のカップをソーサーに戻した。
カチャリ、と小さな音が響く。
「……リリナ様のお考えは、よく分かりました」
私は穏やかに微笑んだ。
「ですが、人の心というのは、外から見えるものだけが全てではありませんわ」
「え?」
「オスカー様が、貴女様の前でどのようなお顔をされたのかは存じませんが……それはきっと、貴女様が望んだ姿だったのでしょうね」
リリナ様がきょとんとする。
私はそれ以上、何も言わなかった。弁解も、反論もしない。
私がオスカー様について語れば語るほど、それは彼を型枠に嵌めることになる。
「彼はこういう人だ」と言葉にした瞬間に、こぼれ落ちてしまうものがある。私たちは、そのこぼれ落ちた部分で繋がっているのだから。
茶会は、何事もなく終わった。
けれど、私の強がりとも取れる態度は、かえってリリナ様の正義感に火をつけてしまったようだった。
それからの彼女の行動は、目に余るものがあった。
オスカー様の行く先々に現れ、甲斐甲斐しく世話を焼こうとする。手作りのお菓子を差し入れし、ハンカチを渡し、公務の合間に息抜きと称して連れ出そうとする。
周囲は噂する。
「いよいよ婚約解消か」
「新しい公爵夫人は彼女で決まりだ」
「ミモザ様は、いつまであの座にしがみついているつもりかしら」
私は、ただ静観していた。
オスカー様から、何も言ってこないからだ。彼が必要とするなら、私は動く。彼が沈黙を選んでいるなら、私も沈黙を守る。それが、私たちのルールだった。
◇
ある雨の日。私は、オスカー様の屋敷を訪れていた。
定期的な訪問。それも、義務的なものではない。ただ、二人で同じ時間を過ごすための日。
書斎に通されると、彼は大量の書類に埋もれていた。
窓の外は土砂降り。部屋の中は薄暗く、暖炉の火だけが揺れている。
「……来たか」
彼は顔を上げずに言った。その声には、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「お疲れのようですね」
「……ああ。少し、な」
私は何も言わず、彼の向かいのソファに座った。
持参した刺繍セットを取り出し、針を進める。彼は書類仕事に戻る。部屋には、雨音と、ペンの走る音、そして時折、衣擦れの音だけが響く。
会話はない。
お菓子もない。
甘い言葉も、慰めの言葉もない。
けれど、空気が澄んでいる。
彼が放つ張り詰めた緊張感が、私の存在によって少しずつ解け、柔らかいものに変わっていくのが肌で分かる。
一時間ほど経った頃だろうか。
彼がふと、ペンを置いた。
「……リリナ嬢が」
唐突な言葉だった。
私は手を止め、彼を見る。
「私の執務室に、花を持ってくる」
「お花、ですか」
「毎日だ。香りの強い、色の派手な花を。……頭が痛くなる」
彼はこめかみを押さえた。
オスカー様は、香りに敏感だ。強い香水や花粉は、彼の思考を妨げるノイズにしかならない。私はそれを知っているから、彼の前では香水を使わないし、飾る花も香りの少ないものを選んでいる。
「断らないのですか?」
「断った。……だが、『遠慮なさらないで』と言われる」
彼は深く溜息をついた。
「『私が貴方を癒やしてあげたいんです』と。……私は、癒やしなど求めていない。求めているのは、静寂と、考える時間だ」
リリナ様の善意は、彼にとっては暴力に近い。彼女は「可哀想なオスカー様」という物語を信じ、自分が救世主になろうとしている。
だが、彼が本当に必要としているのは、救いではなく、理解だった。何も言わずに、ただ側にいて、彼の思考を邪魔しない存在。
「……ミモザ」
彼が私を呼んだ。
「はい」
「君は、何も聞かないな」
「聞く必要がありませんから」
私が答えると、彼は初めて、私の方を見てわずかに口元を緩めた。本当に、ほんのわずかな変化。
でも、私にはそれが、どんな笑顔よりも雄弁に感じられた。
「……そうだな。君には、言葉はいらないんだったな」
彼は立ち上がり、私の隣に座った。
肩が触れ合う距離。彼は私の手元の刺繍枠に目を落とし、それから、そっと私の肩に頭を預けてきた。
重みと、体温。強張っていた彼の体が、ゆっくりと力を抜いていく。
「……少しだけ、このままで」
「はい」
私は刺繍を続けながら、彼の呼吸が寝息に変わるのを聞いていた。
雨音は、私たちを世界から切り離すカーテンのようだった。
可哀想な令嬢?いいえ、私はちっとも可哀想ではない。
だって、この無防備な彼を知っているのは、世界で私だけなのだから。
◇
クライマックスは、王家主催の舞踏会で訪れた。
リリナ様は、この日を「決着の日」と定めていたらしい。彼女は会場の中心で、オスカー様に詰め寄った。周囲には多くの貴族たちが、固唾を呑んで見守っている。
「オスカー様! もう、ご自分に嘘をつくのは止めてください!」
彼女の瞳は潤み、情熱に燃えていた。
「貴方は、義務感でミモザ様と婚約されているのでしょう? 本当は、もっと自由になりたいと、もっと笑いたいと思っていらっしゃるのでしょう?」
オスカー様は、無表情のまま彼女を見下ろしていた。リリナ様は、その沈黙を肯定と受け取ったようだ。
「私が、貴方を幸せにします。貴方の冷たい心を溶かして差し上げます。だから……私を選んでください!」
彼女は手を差し出した。まるで、物語のヒロインのように。
会場が静まり返る。
誰もが、オスカー様の答えを待っていた。可哀想なミモザが捨てられる瞬間を、期待と恐怖を持って待っていた。
オスカー様は、ゆっくりと口を開いた。
「……君は、勘違いをしている」
低く、冷徹な声。
それは、リリナ様が想像していた救いを求める声ではなかった。
「私は、不幸せではない。心が凍っているわけでもない」
「え……? で、でも、いつも怖いお顔で……」
「これが私の顔だ」
彼は淡々と言い放った。
周囲から、失笑のような空気が漏れる。
「私は、無駄口を好まない。思考の邪魔をされるのを嫌う。派手な花も、強い香水も、押し付けがましい善意も、すべて不快だ」
リリナ様の顔から、血の気が引いていく。
「オ、オスカー様のために……良かれと思って……」
「それが迷惑だと言っている。……私の言葉を、君は一度でも聞いたか? 『遠慮なさらないで』という言葉で、私の拒絶を塗りつぶしたのは君だ」
オスカー様は、冷酷なまでに事実を突きつけた。
「君が見ていたのは、私ではない。孤独な公爵令息を救う自分という幻影だ」
リリナ様はよろめき、その場に崩れ落ちそうになった。
オスカー様は彼女に手を貸そうともしなかった。代わりに、彼は人混みの中にいた私を見つけ、迷わず歩み寄ってきた。
道が開ける。
彼は私の前で立ち止まり、その厳めしい顔を、ほんの少しだけ和らげた。
「待たせたな、ミモザ」
彼が差し出した手。私はその手を取り、静かに微笑んだ。
「いいえ。……良いお話はできましたか?」
「いや。言葉が通じない相手との会話は、疲れるだけだ」
彼はふう、と息を吐き、私の手を強く握った。
「帰ろう。君の淹れた茶が飲みたい。……静かな部屋で」
「はい。茶葉は、いつもの落ち着く香りのものをご用意しております」
「……助かる」
私たちは腕を組み、会場を後にした。
背後には、呆然とするリリナ様と、ざわめく貴族たちが残された。
同情の視線?
いいえ、今、私たちの背中に注がれているのは、困惑と、そして少しの羨望だろう。
言葉少なな二人が、言葉以上の何かで繋がっていること。それを、彼らはまざまざと見せつけられたのだから。
◇
馬車に揺られながら、オスカー様は私の肩に頭を預けてきた。人前では絶対に見せない、甘えたような仕草。
「……うるさかった」
「ええ。大変でしたね」
「君がいてくれて、よかった」
ボソリと呟かれたその言葉は、どんな愛の言葉よりも重く、私の心を満たした。
私は知っている。
彼が不愛想なのは、誠実さの裏返しであることを。彼が無口なのは、言葉を選び抜いているからであることを。そして、そんな彼が、私だけには弱音を吐き、安らぎを求めてくれることを。
世間が私をどう呼ぼうと構わない。
可哀想な令嬢でも、地味な女でも。
だって、この愛おしい重みと体温は、私だけのものなのだから。
「……少し、眠る」
「はい。お屋敷に着くまで、どうぞそのままで」
私は彼の手を握り返し、窓の外の月を見上げた。
私は間違いなく、世界で一番、幸せな令嬢なのだから。
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