異邦の生還者
教会の重厚な扉が開くと、朝の冷気と共に、磨き抜かれた白銀の甲冑が放つ鋭い反射光が拓斗を射抜いた。
「っ……」
反射的に目を細めた拓斗の前に、数頭の軍馬が並んでいる。その先頭、ひときわ堂々とした体躯の馬に跨っていた騎士は、拓斗の姿を認めると、意外な行動に出た。
彼は馬上から見下ろすのではなく、無造作に、しかし洗練された動きで馬を降りたのだ。
金属音を鳴らして地面に立つと、騎士は拓斗の数歩手前まで歩み寄り、わずかに上体を折って一礼した。
「失礼いたしました。私はガレリア辺境伯が騎士、ヴィクトール・ゼーマン。閣下の名において、あなたをお迎えに参りました。……古神の檻よりの生還、心よりお慶び申し上げます」
「……丁寧なご挨拶、ありがとうございます。私は……稲沢拓斗と申します。……タクトと呼んでください」
「イナザワ……タクト、殿ですな。承知いたしました。聞き慣れぬ響きですが、異邦の地のお名前でしょうか」
ヴィクトールは表情を崩さず、しかし拓斗の「私」という丁寧な一人称と、その洗練された一礼、そして聞いたこともない独特な家名を逃さず記憶に刻み込んだ。視線は拓斗の手に握られた「二つに折れた骨槍」へと向けられている。
「それは……斑剥ぎ(マダラハギ)の骨ですね。この近辺に棲む野獣ですが、その骨をこれほど鋭く研ぎ出し、武器として維持している。あの中で手に入る限られた素材を活かすあなたの知恵と、生存への意志の強さに、閣下も深く感じ入っておられます」
「……これしかなかったものですから。生きるために、必死だっただけです」
「ええ。その『必死さ』こそが、我々にとっての希望なのです」
ヴィクトールは穏やかな口調で語るが、その瞳は観察者のそれだ。拓斗の丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その指先に染み付いた血の痕や、魔物の皮を纏った異質な姿。彼は拓斗の知性と、あの中で培われたであろう野生のバランスを冷徹に分析していた。
拓斗の隣で不安げに見守っていたヨハン神父が、意を決したように口を開いた。
「ヴィクトール殿。昨夜、この者は精霊の審判を潜り抜けたのです。霊安の触媒が見せた黄金の光……それは彼が精霊に愛され、清廉であることを示しています。どうか、罪人のような扱いは……」
「神父、ご安心を。精霊の加護がある方を、我ら騎士が不当に扱うことはありません」
ヴィクトールは神父へ向けて短く頷いた。
「閣下が求めておられるのは、まさにそのような『強き魂』を持つ者です。タクト殿。あなたが檻の中で目にした景色、魔物の息遣い、そして生き抜いた道筋……そのすべてが、要塞都市アイゼンガードを守る十数万の民の盾となります。あなたの帰還は、この領地にとってそれほどの価値があるのです」
ヴィクトールは、部下が引いてきた一頭の馬を拓斗に示した。
「タクト殿、準備が整い次第、我らと共にアイゼンガードへ。閣下は、あなたが語る『一週間の軌跡』を、何よりも楽しみに待っておいでです。館では温かい食事と、清潔な寝所、そして何よりあなたの安全を保証いたします」
「……分かりました。お供いたします」
拓斗は会話をしながら、背筋に言いようのない冷たさを感じていた。 殺意や敵意なら、檻の中で何度も向き合ってきた。だが、目の前の騎士が向けてくるのは、それとは異質の――「自分を極めて価値のある情報源」として丁重に囲い込もうとする、文明的な執着だった。
ヴィクトールに促され、用意された馬の前に立ったとき、拓斗は言いようのない威圧感に気圧された。 現代日本で動物園の柵越しに見ていた姿とは違う。目の前のそれは、筋骨隆々とした四肢と、荒い鼻息、そして感情の読み取れない巨大な瞳を持った「生きている重機」だった。
「……あ、あの。私、馬に乗ったことは一度もなくて」
「案ずることはありません。よく訓練された馬です。あなたが手綱を放さぬ限り、勝手に暴れることはありませんよ。」
ヴィクトールの促しは丁寧だったが、拒否権はなかった。拓斗は腰に巻き付けた「斑剥ぎ」の皮に、二つに折れた骨槍をしっかりと固定した。手に持ったままでは、この巨体を御することなど到底できないと本能が理解していたからだ。
拓斗は震える手で鞍を掴み、教わった通りに鐙へ足をかける。ぐっと体重を乗せて跨がった瞬間、世界が跳ね上がった。
「っ……!」
視界の高さは二メートルをゆうに超え、足の裏から地面の感触が消える。これまでの「檻」での生活では、常に地面の起伏を足裏で感じ取り、重心を低く保つことが生存の鉄則だった。その安心感が根こそぎ奪われ、拓斗は思わず鞍にしがみついた。
馬が歩き出すと、車や電車とは全く違う、生き物の体温を伴う不規則な三次元の揺れが骨盤に直接響く。
「タクト殿、背を伸ばし、力みを抜いてください。馬に怯えが伝わります」
ヴィクトールの冷静な指摘に、拓斗は必死に姿勢を正そうとする。腰に固定された骨槍の硬い感触だけが、唯一、自分が地獄を生き抜いてきた証として脇腹に触れていた。
一行が村の広場を抜ける際、建物の陰から村人たちがこちらを伺っていた。 「黄金に光った生還者」を一目見ようと集まった彼らの瞳には、畏敬と、それ以上に「異物」に対する生理的な恐怖が混ざり合っていた。昨夜、拓斗が纏っていた斑剥ぎの生臭い臭いを覚えている者たちは、我が子を抱き寄せ、その目を覆い隠す。
村の正門まで来ると、そこにはカイルを筆頭に、昨日拓斗を殺しかけた五人の兵士たちが整列していた。
「ヴィクトール隊長! 出立の準備、完了しております!」
カイルの叫ぶような声が響く。昨日までの粗野な態度は微塵もなく、鉄の規律に従う機械のような直立不動。そのあまりの豹変ぶりに、拓斗は眩暈に似た感覚を覚えた。
馬の揺れに耐えるのに精一杯の拓斗は、声をかける余裕すらない。ただ、すれ違いざまにカイルと一瞬だけ目が合った。 カイルの瞳にあったのは、昨日までの殺意ではなく、自分たちの理解を超えた「檻」から帰還し、今や白銀の騎士に連行されていく少年に対する、拭いきれない忌避感と、どこか同情に近い困惑だった。
門の敷居を越え、村の外へと踏み出した瞬間、馬の蹄の音が変わった。
柔らかく、どこか湿っていた土の音から、乾いた硬質な「カツ、カツ」という石を叩く音へ。 整備された街道。それは、自然のままの起伏を殺し、人間が支配するために敷き詰められた無機質な秩序の音だった。
拓斗は、ふと後ろを振り返った。 朝靄の向こうに、自分を一ヶ月間閉じ込め、そして生かし続けた「古神の檻」の深い緑が、巨大な壁のようにそびえている。
あの場所は地獄だった。 けれど、こうして高貴な騎士に囲まれ、十数万の民が待つという巨大都市へ運ばれていく今の状況に比べれば、あの場所での殺し合いは、驚くほど純粋で自由だったのではないか。そのような考えが拓斗の頭の中で渦巻いていた。
馬の蹄が石畳を刻む一定のリズムが、拓斗にはまるで、自分という人間が「アイゼンガード」という巨大な歯車に組み込まれていくカウントダウンのように聞こえる。
街道を進む馬の蹄の音に合わせて、ヴィクトールが静かに口を開いた。
「タクト殿、一つ伺いたい。あなたはなぜ、あのような場所に足を踏み入れたのですか? 迷い込んだにしては、あなたが発見された地点は『外』から遠すぎる。歩き続けて、一週間ほどだとか。……あそこまで入り込むには、それなりの目的があったのではないですか?」
ヴィクトールの視線は前方を向いたままだが、その意識は隣をゆく拓斗のわずかな動揺も逃さぬよう注がれている。拓斗は一瞬迷ったが、ここで嘘を重ねても、いずれこの鋭い騎士に見抜かれるだろうと直感した。
「……信じてもらえないかもしれませんが、私は……『日本』という国から来ました」
「ニホン……? 聞き慣れぬ名だ。エルフの隠れ里か、あるいは海の向こうの小国か」
「いえ、ここからはとても遠い……いえ、そもそもこの世界とは違う場所のようです。気づいた時には、あの森の中に一人で立っていました。なぜあそこに飛ばされたのか、私にも分からないんです」
ヴィクトールは数秒、沈黙した。その沈黙は疑いというより、拓斗の言葉を一つの「データ」として咀嚼しているような冷徹なものだった。
「……異界、ですか。閣下が聞けば喜ばれるでしょうな。あなたの装束や、その礼節も、既存のどの国とも一致しない。だが、その『日本』という地では、子供が斑剥ぎを相手に生き残る術を教わっているのですか?」
「そんなわけありません。必死に……本当に、死ぬ気で戦っただけです」
その時、街道脇の背の高い草むらが大きく波打った。
「――ッ!」
拓斗の身体が、思考よりも先に反応した。一ヶ月間「檻」で叩き込まれた生存本能が、大気に混じった殺気を察知する。腰の骨槍に手をかけようとしたが、不慣れな馬上ではバランスを崩し、落馬しそうになるのを必死に堪えるのが精一杯だった。
茂みから飛び出したのは、三匹の獣だった。 狼のようなしなやかな体躯を持ちながら、その頭部には羊のような太い巻き角がそびえている。飢えた瞳を爛々と輝かせ、それらは一斉に拓斗の乗る馬へと躍りかかった。
「魔物……!」
拓斗が息を呑んだ瞬間、銀色の閃光が視界を横切った。
ヴィクトールは馬を止めることすらしなかった。 腰の長剣が抜かれたことすら、拓斗の目には見えなかった。ただ、空中で鮮血が舞い、次の瞬間には先頭を跳んだ一匹の頭蓋が、その自慢の角ごと縦一文字に叩き割られていた。
「ギッ……!」
残りの二匹が怯んだ隙に、後方に控えていた騎士たちが無造作に槍を突き出す。抵抗の余地すらなかった。あれほど獰猛に見えた獣たちは、瞬く間に物言わぬ肉塊へと変わり、街道の隅へと蹴り飛ばされた。
「……失礼。驚かせてしまいましたか、タクト殿」
ヴィクトールは血の一滴もついていない剣を鞘に納め、何事もなかったかのように語りかけてきた。
「今の角狼は、数だけは多いですが……あなたが戦ってきた斑剥ぎに比べれば、牙の鋭さも知能も数段落ちる雑魚です。我ら騎士にとっては、道端の小石を退けるのと大差ありません」
拓斗は、喉の奥が乾くのを感じた。 自分があれほど泥を啜り、命を削って戦ってきた「魔物」という脅威。それを、この男たちは眉ひとつ動かさずに「雑魚」と断じ、作業のように処理してみせた。
「あなたがその『日本』の知恵を使い、斑剥ぎをどう料理したのか……アイゼンガードに着いたら、じっくりと聞かせていただきたいものだ」
ヴィクトールの声は依然として丁寧だった。だが拓斗には、その白銀の甲冑が、どんな魔物の牙よりも冷たく、鋭い刃のように見えていた。
村を出立して丸一日。野営を挟み、不慣れな乗馬による全身の痛みが限界に達しようとしていた時、街道の先で視界を遮るように「それ」が立ち塞がった。
「……っ」
拓斗は、あまりの巨大さに言葉を失った。 それはもはや壁というより、人工の断崖だった。地平線を端から端まで分断するようにそびえ立つ、重厚な石造りの大要塞壁。
高さは数十メートルに及び、地上から見上げるその頂は、空の青に溶け込んでいる。壁の各所には張り出した防衛用の塔が並び、その上部には巨大な弩砲の影が、まるで街を睨む巨人の牙のように設置されていた。無数に刻まれた黒ずんだ戦傷の跡が、この要塞が幾度となく「檻」から溢れ出した脅威を撥ね返してきた歴史を物語っていた。
「あれが我らがアイゼンガード。人類の生存圏を死守する『鉄の盾』です」
ヴィクトールの声に誇りが混じる。十数万の民を飲み込むその牙城は、機能美を極めた巨大な暴力の結晶のようでもあり、日本で見たどの高層ビルよりも、拓斗に圧倒的な「力」の差を見せつけた。
一行が近づくと、要塞壁の一部に口を開けた巨大な装甲門が見えてきた。 深い堀にかけられた重厚な鉄の跳ね橋が、轟音を立てて下ろされる。馬の蹄が立てる「ゴトゴト」という重い木の振動音は、拓斗の心臓に直接響くようだった。
門の奥へと吸い込まれると、そこには外見の無骨な要塞からは想像もつかないほど、活気に満ちた世界が広がっていた。
要塞の内部は、予想を裏切る明るい世界だった。 殺伐とした軍事施設を想像していたが、実際には市場の喧騒と、焼きたてのパンや香辛料の食欲をそそる匂いが立ち込めている。色とりどりの果実、精巧に鍛えられた金属器、そして魔法の輝きを放つ街灯。行き交う人々の表情は驚くほど穏やかで、広場では子供たちが笑い声を上げて駆け回っていた。
「ここなら……生きていけるかもしれない」
鉄壁の防衛能力と、この豊かな生活。それらが両立している事実は、この地を治める領主が極めて優秀な統治者であることを示していた。拓斗は、自分が連行されている身であることも忘れ、人間が作り出した文明の逞しさに、目頭が熱くなるほどの感動を覚えた。
だが、その繁栄の中に、拓斗の存在はあまりにも異質だった。 磨き抜かれた石畳の上を、斑剥ぎの生皮を纏い、腰に折れた骨槍を下げた少年が行く。騎士団に守られたその姿に、街の人々は驚き、作業の手を止めて視線を向けた。
「あの格好……まさか、檻からか?」 「ああ、本当に生きて帰った者がいるなんて」
そんな囁き声が波のように広がっていく。その視線は、昨日村で感じたような純粋な恐怖ではなく、信じ難い奇跡を目撃した時のような、好奇と困惑が混ざり合っていた。
「驚くことはありません。この街の平和は、檻に挑み、命を落としてきた者たちの積み重ねの上にあります」
ヴィクトールが馬上から静かに告げた。
「だからこそ、あそこから生きて帰ったあなたを、彼らは無視できないのです。……敬意と、そしてわずかな恐怖を持ってね」
一行は賑やかな街路を抜け、要塞都市の最奥、最も高い場所に建つガレリア辺境伯の館へと到着した。
それは、下町の石造りの建物とは一線を画す、圧倒的な建築物だった。 外壁は、汚れ一つない真っ白な石材が隙間なく積み上げられており、夕陽を浴びて神々しいほどの光を放っている。館を囲む高い鉄柵の奥には、幾何学模様に整えられた広大な庭園が広がり、そこには「檻」の中の凶暴な植物とは対極にある、静謐で秩序ある花々が咲き乱れていた。
館の正面にそびえるのは、四本の巨大な円柱に支えられた玄関廊だ。 柱には歴史の重みを感じさせる精緻な彫刻が施され、その頂には辺境伯家の象徴と思われる、猛獣を象った石像が、眼下の街を睥睨している。
ヴィクトールが馬を止め、音もなく地上に降り立った。拓斗も震える足で、ようやく地面へと降りる。
「……これが、領主様の家」
「ええ。この地を統べ、守護する者の座――ガレリア館です。さあ、行きましょう。閣下がお待ちです」
重厚な二枚開きの白い木扉が、左右から歩み寄った衛兵の手によって、重低音を響かせながらゆっくりと開かれた。
扉の先には、外の喧騒が嘘のような静寂と、冷ややかな大気が満ちていた。 天井は遥か高く、そこからは無数の水晶が埋め込まれた巨大な灯火のシャンデリアが吊るされ、柔らかな光が磨き抜かれた大理石の床に鏡のように反射している。壁には歴代の領主や英雄たちの肖像画が並び、その無数の「視線」が、斑剥ぎの生皮を纏い、腰に骨槍を差した異質な少年を値踏みするように見下ろしていた。
拓斗は、自分の足音が不気味なほど響くその静謐な空間に、逃げ場のない圧迫感を覚えた。 ここにあるのは、魔物の牙のような剥き出しの暴力ではない。もっと洗練され、統制された「文明という名の巨大な力」だ。
拓斗は、腰の骨槍の感触を確かめるように一度だけ強く握りしめ、自分を招き入れる白亜の奥底へと、決死の覚悟で一歩を踏み出した。




