境界の洗礼
地面が、硬い。
一歩踏み出すたび、拓斗の脳が警鐘を鳴らし続けていた。檻の中では、常に地面は湿り、腐葉土や泥が体重を粘り強く受け止めてくれていた。沈み込まない地面。人々に踏み固められたその道は、拓斗にとって「剥き出しの巨大な骨」の上を歩かされているような、得体の知れない不安を抱かせた。
慣れ親しんだ地獄の感触を失った拓斗にとって、この「整えられた平坦」は、あまりに不気味で異質だった。
「止まれ! そこから動くな!」
静寂を切り裂く怒声。 拓斗が反射的に身構え、手に持った「二つに折れた骨槍」を低く構えると、左右の建物の影から五人の男たちが音もなく躍り出た。
(……速い。それに、なんだこいつらは)
拓斗は目を見開く。現れたのは、村の自警団といった風情の男たちではない。 鋼鉄の胸当て、鎖帷子、そして白狼の紋章が刻まれた頑丈な盾。反対の手には、重厚なクロスボウが装着されている。一寸の乱れもない陣形で退路を塞ぐその動きは、明らかに高度な訓練を受けたプロのそれだ。
(……自警団、か?だが、一人一人が、今の俺より強い……!)
地球の常識で測ってはいけないと、拓斗は自分に言い聞かせる。原生林と接している異世界の辺境、その村の自警団がこれほどの強さをしていても不思議ではない。
「どこから来た」
リーダー格の男が、盾の隙間からクロスボウの照準を拓斗の眉間に固定したまま、低く冷徹に問う。
「……あそこからです。」
拓斗は背後の緑の壁――「檻」を指差した。戦って勝てるとは思えない。敵意を感じさせないため、なるべく丁寧に接するように努力する。
「一週間ほど、川に沿って歩き続けて、さっきようやくここにたどり着いたところです。」
その瞬間、兵士たちの間に、重く冷たい沈黙が流れた。 リーダーは拓斗の全身を――返り血で汚れ、魔物の皮を纏いながらも、その奥にある筋肉の付き方や、鋭すぎる眼光を「査定」するように見つめる。
(川沿いを一週間……。アレン川の下流域、古神の檻外周エリアか)
リーダーは即座に距離を割り出す。そこは、人間が一人だと十分に死地だが、かといって生きるのが不可能というわけでもない「際」の領域だ。だが、問題は別のところにあった。
「……一週間もあの地獄にいて、正気で戻ってきたというのか。しかも、その程度の薄汚れた身なりで、あの古神の檻を抜けたと?」
「はい。その通りです。」
リーダーの指が、クロスボウのトリガーにかけられた。後方の兵士が予備の弦を巻き上げる「ガチガチ」という金属音が、逃げ場のない死の宣告として響く。
「……貴様、本当に人間か?」
兵士の目が、恐怖を隠すように鋭く細められる。
「…私が人間以外に見えるんですか?」
「古の伝承にある。檻の深部には、人間に化け、言葉を解し、社会を喰い破る『知性を持った魔物』がいるとな。……一見して弱そうなガキの姿で現れるのも、連中の手口としては上出来だ」
「そんな伝承が…しかし、私は――」
「黙れ。魔物の言葉など聞く耳持たん」
リーダーの殺気が膨れ上がる。 拓斗は唇を噛み、骨槍を握りしめた。
(戦うか?…いや、あの盾は抜けない。俺が一歩動くより、あの指が動く方が速い……!)
拓斗が「人間に擬態した化け物」として訳が分からないまま処理されようとしたその時、背後から穏やかな、それでいてやけに響く声がした。
「そこまでにしなさい、カイル殿。魔物だと決めつける前に、その者が精霊の加護にあるか、神の御前で審査しましょう」
殺気立つ兵士たちの間に、不意に一人の老人が割って入った。
(……誰だ? どこから出てきた?)
拓斗の野生化した感覚は、老人の登場を捉えきれなかった。質素な祭服を纏ったその男は、兵士のリーダーと思われる男―――――カイルに臆することなく対峙している。
「……ヨハン神父。ですが、この者は川沿いを一週間歩いてきたと言い張っております。伝説にある『擬態種』の可能性を、兵士として見過ごすわけには参りません」
(擬態種…さっきあのカイルとかいうやつが言っていた『人に化ける魔物』のことか)
拓斗は、カイルが自分を「人間ではない何か」として処理しようとしていることだけを察知し、再び骨槍を握る手に力を込めた。
「だからこそ、人の目ではなく、精霊の審判を仰ぐのです」
そう言いながら老人が懐から取り出したのは、琥珀色の歪な石だった。
(精霊……? 審判……?)
聞き慣れない単語の奔流に、拓斗の思考は飽和しかける。さらに、カイルがその石を見た瞬間、それまでの険しい表情に驚愕が混じった。
「それは……『霊安の触媒』!……本気ですか?神父様」
カイルが思わず一歩、足を引き、背筋を正した。
(なんだ、あの石は……? 爆弾か何かか?)
拓斗は必死に周囲の反応から情報を得ようとするが、状況は彼の理解を遥かに超えていた。老人は、カイルの言葉を静かに受け流し、その「琥珀色の何か」を拓斗に向けて突き出してくる。
咄嗟に避けようとしたが、兵士たちに囲まれている状況でそれは不可能だった。
「精霊よ、かの者の正しき姿を見せてくれ。」
老人が呪文のような呟きを発した瞬間、拓斗の視界は塗り潰された。
(っ、なんだ!?)
石が、爆発したかのような黄金の光を放った。
「あ、が……っ!」
それは単なる光ではなかった。物理的な熱量と、肌を粟立たせるような「視線」を感じさせるエネルギーの奔流だ。拓斗は、自分の全身が透かされ、内側の「汚れ」までを暴かれているような、形容し難い不快感に襲われる。
(何をした!? 俺に、何を……!)
声が出せない。 視界は白一色。足元が崩れるような感覚。檻の中でさえ味わわなかった「未知」による蹂躙に、拓斗は意識が遠のきそうになる。
「……これほどの光は、見たことがない」
光が収まると、老人の震える声が響いた。
「カイル殿、この者は魔物ではありません。それどころか、精霊たちがこれほどまでに力強く、彼の命を肯定しています」
兵士たちが、気圧されたように一歩、また一歩と下がる。 カイルは納得のいかない様子で拓斗を睨みつけたが、やがて厳かに構えを解いた。
「……神父様がそこまでおっしゃるなら、今は『人間』として扱いましょう。ですが、この者の監視は解けません。檻からの生還者が現れたとなれば、ボレアス様へ報告せぬわけには参りませんので」
拓斗は、光の残像が明滅する視界の中で、膝を突いた。
(……終わったのか? 殺されないのか……?)
何が起きたのかは、一ミリも理解できない。ただ、「神父」と呼ばれる老人が「精霊」という謎の基準を使って、自分を「人間」だと保証したことだけが、断片的に伝わってくる。
「さあ、まずは教会の奥へ。汚れを落とし、温かいスープを飲みなさい。話はそれからです」
老人の差し出した手が、やけに白く、清潔に見えた。 原生林での「泥と血」の常識が、この「光と清潔」の常識に塗り替えられていく混乱。 拓斗は、先ほどの現象を起こした神父を警戒していた。しかし、逃げる力すら残っていない自分の身体を引きずられるようにして、得体の知れない教会の奥へと導かれていった。
教会の扉が閉まると、外の喧騒と、兵士たちの突き刺すような殺気が嘘のように消えた。 代わりに拓斗を包み込んだのは、古い木材の匂いと、微かに漂うお香の柔らかな香りだ。
「さあ、こちらへ」
ヨハン神父に導かれ、拓斗は教会の奥にある小さな食堂の椅子に腰を下ろした。 磨かれた木製のテーブル。背もたれのある椅子。檻の中では、座る場所さえ泥や岩、あるいは獲物の死骸の上だった。沈み込まない、安定した「居場所」があるというだけで、拓斗の視界が不自然に揺れた。
一ヶ月だ。 あの日、目を覚ましてから、自分を害そうとしない存在と対面したのは、これが初めてだった。
「今、温かいものを用意しましょう」
神父が手際よく用意し、拓斗の前に置いたのは、湯気の立ち上る一杯のスープと、一切れのパンだった。 スープには柔らかく煮込まれた野菜が浮いており、わずかに浮いた油が夕日の光を反射して輝いている。
(……温かい。……匂いがする)
檻の中での食事は、常に「作業」だった。魔物の生臭い肉を噛み切り、時には血を啜り、胃の中に無理やり流し込む。それは命を繋ぐための、血なまぐさい義務でしかなかった。
だが、目の前にあるこれは違う。
震える手で木のスプーンを握り、スープを一口、口に含んだ。 その瞬間、拓斗の脳を衝撃が突き抜けた。
「……っ」
喉を通る熱い感覚。 塩気。野菜の甘み。そして、丁寧に煮出された出汁の旨味。 現代日本にいた頃なら、コンビニのスープと大差ないと感じたかもしれない。だが、一ヶ月間、飢えと孤独に晒され続けた拓斗の細胞一つ一つに、その味が暴力的なまでの優しさで染み渡っていく。
(美味しい……。……ああ、美味しいな……)
気づけば、スープの器にポタポタと波紋が広がっていた。 自分がまだ、温かいものを「美味しい」と感じ、誰かの優しさに「涙を流せる」人間だったこと。檻での殺戮の日々を経て、自分でも気づかないうちに凍りついていた心が、たった一杯のスープで解けていく。
「……もう、大丈夫ですよ。あなたは、本当によく生きて戻りました」
ヨハン神父の穏やかな声が、拓斗の背中を優しく包んだ。 それは一ヶ月の間、誰からも、そして自分自身ですら掛けてやれなかった言葉だった。 拓斗は顔を上げることができず、ただ声を殺して泣きながら、夢中でスープを胃に流し込んだ。
「……ありがとうございます。……ありがとうございます……」
掠れた声で何度も繰り返す。 この一ヶ月、自分がどれほど「人間」を欲していたかを思い知った。 ようやく辿り着いた、誰かがいる場所。温かい食事。
少し落ち着いた頃、神父は拓斗を安心させるように微笑み、静かに告げた。
「今夜はここでゆっくり休みなさい。明日には、ボレアス様の使いが来るでしょう。ですが、今は何も考えなくていい。あなたは今、安全な場所にいるのですから」
拓斗の脳裏に新たな「外の世界」の予感が過る。 しかし、今はその予感に怯えるよりも、目の前のパンの柔らかさと、指先に残る温もりだけを感じていたい。
拓斗はその夜、一ヶ月ぶりに、死の恐怖に怯えない深い眠りへと落ちていった。
拓斗が目を覚ましたのは、窓から差し込む朝日の光が床を叩いた瞬間だった。
「っ!」
跳ね起きると同時に、右手が無意識に「槍」を探して空を切る。だが、指先が触れたのは冷たい若木の感触ではなく、清潔で柔らかなシーツの肌触りだった。
(……そうだ。ここは、村の……教会だ)
昨夜のスープの温かな記憶が、ここが原生林ではないことを教えてくれる。しかし、一ヶ月間染み付いた生存本能は、壁一枚隔てた向こう側に魔物がいないという事実を、未だに信じきれていなかった。
拓斗はベッドの脇に置かれた、泥を落とされた自分の服に着替え、部屋を出た。
食堂に向かったが、そこには誰もいなかった。 あまりに静かすぎて、逆に心拍数が上がる。拓斗は音を立てないよう慎重に廊下を歩き、開かれた礼拝堂へと向かった。
高い天井、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光。その一番奥、祭壇の前で背を向けて膝を突いている老人の姿を見つけ、拓斗はようやく肩の力を抜いた。
「……神父さん」
声をかけると、ヨハン神父はゆっくりと立ち上がり、穏やかな微笑みを湛えて振り返った。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「……あんなにぐっすり寝たのは、一ヶ月ぶりです。でも、朝起きたとき、自分がどこにいるのか分からなくて」
拓斗は神父の傍まで歩み寄り、ずっと喉に引っかかっていた疑問を口にした。
「あの、昨日、あの兵士たちが言っていたことについて……教えてくれませんか。檻とか、精霊とか、俺がどう思われてるのか」
ヨハン神父は頷き、拓斗を促して近くの長椅子に腰を下ろした。
「まず、あなたが理解しなければならないのは『精霊』のことです。この世界は精霊たちの息吹に満たされ、彼らの加護があるからこそ、我々は健やかな心身を保っていられます。精霊は、自身の好む触媒を用意し、呪文によって呼び出したとき、その力を貸してくれます。その力は多岐にわたり、昨日あなたに使用したようなものから、火や水を生み出すものまで様々です。」
(つまり、この世界には魔法のような力が精霊の協力によって可能なのか…)
拓斗は、神父の話から、精霊の力はファンタジー小説によく出てくる魔法のようなものだと解釈した。
日本にいたころの拓斗ならば、驚き、興奮しながら自分も使いたいと懇願していたことだろう。しかし、今はそれよりもこの世界の情報の方が大切だった。
神父は窓から差し込む朝日に目を細め、静かに語り続ける。
「ですが……あそこは違う。私たちが『古神の檻』と呼ぶあの場所は、精霊の加護が届かない呪われた不可侵領域です。そこでは精霊の代わりに『瘴気』が支配しています。人があの中に足を踏み入れれば、その身は瘴気に蝕まれ、数日もすれば理性を失って、知性のないただの化け物へと成り果てるのです」
「……昨日の、あの光る石もその瘴気とやらに関係あるんですか?」
拓斗は昨夜の混乱の中で耳に残った単語を必死に思い出し、食いついた。
「カイルっていう兵士が驚いてた……『レイアンノシュクバイ』。あれで俺のことを何か調べたんですよね?」
「ええ。正確には『霊安の触媒』。これは我ら双天檻教の神官のみが持つことを許されている、特別な精霊の力を借りるための触媒です」
神父は懐から昨日の琥珀色の石を出し、愛おしげに見つめた。
「昨日、カイル殿が武器を構えたのは、あなたが『川沿いを一週間歩いた』と言ったからです。普通、人間があの濃密な瘴気の中に一週間もいれば、例外なく知性を失います。それなのに、あなたは確かな知性を持って言葉を話している……」
「……だから、俺が人間じゃないって疑ったんですね。」
「ええ。伝説にあるのです。檻の深部には、生まれながらに高度な知性を持ち、人間に化けて社会へ紛れ込む災厄。『擬態種』と呼ばれる魔物がいると。瘴気に当てられながら正気……つまり知性を保っている人間など、あり得ない。ならば、目の前にいるのは人間に化けた知性ある魔物ではないかとね。」
神父はそこで言葉を切り、拓斗の目をじっと見つめた。
「私が『霊安の触媒』を使ったのは、それを確かめるためでした。この触媒を通じて精霊の審判を仰いだとき、黄金の光を放つのは、魂が瘴気に侵されていない『純粋な人間』だけですから。あなたは、あの地獄に一週間いて、なお精霊に愛されていた。それは……奇跡という言葉ですら足りないほどの異常事態なのです」
「ボレアス……様、でしたっけ。カイルという人は、その人に報告がどうこうと言っていました」
「その方は、この辺境一帯を守護するボレアス・ヴァン・ガレリア辺境伯。この村の領主であり、檻という『地獄』の門番でもあります」
神父は、窓の外に見える堅牢な城砦の影を指差した。
「檻から生還した者が、どのような道を通ったのか。どのような魔物と出会ったのか。あの方にとって、それはこの地を守るための何よりも貴重な『情報』となります。……じきに、ボレアス様の使いがあなたを迎えに来るでしょう」
拓斗は、スープの温もりで満たされたはずの胃が、再びわずかに冷えるのを感じた。
「俺は、そのボレアスって人に、何をされるんですか?」
「そうひどいことはされないでしょう。あなたは、奇跡の生還者として迎えられ、古神の檻について質問されるはずです。。……少なくとも、カイル殿がそう報告していれば、ですがね」
神父の言葉が終わらぬうちに、教会の外で数頭の馬が激しくいななき、鎧が擦れ合う重厚な音が響いた。
その音の重圧に、拓斗は反射的に腰を浮かせ、窓の外を窺う。 そこには、昨日のカイルたちとは比べものにならないほど、磨き抜かれた白銀の甲冑を纏った騎兵たちがいた。その先頭にいる一人の男が馬に跨ったまま、冷徹な視線を教会の扉へと向けている。
彼らが掲げる旗印は、昨日見た白狼ではなく、「二振りの剣と巨大な檻」を模した、より威圧的な紋章。それこそが、この地を統べる絶対者、ボレアス辺境伯の直系であることを示していた。
「……ヨハン神父! ボレアス・ヴァン・ガレリア閣下の名において、檻の生還者を預かりに参った!」
地を揺らすような低い声が、静かな礼拝堂にまで突き刺さる。その声に宿る強制力は、拓斗が「はい」か「いいえ」で答えられる類のものではないことを物語っていた。
拓斗は、自分の手が再び微かに震え始めていることに気づく。 檻の中では、ただ「生きるか死ぬか」だった。 だが、ここから先は「誰の、どのような意志で生かされるか」という、別の戦いが始まるのだと直感する。
「……行きましょうか。あの方々は、待つという事を知りませんので」
名前すら知らないまま、神父はただ一人の「人間」として拓斗の背をそっと押した。 拓斗は重い足取りで扉へと向かう。
光の差す出口の向こうには、彼を待ち受ける新たな運命――そして、檻の中とは別の意味で「冷酷な人間たちの社会」が、大きな口を開けて待っていた。




