地獄の終わり、異界の始まり
大蛇との戦闘の次の日。拓斗を待っていたのは、己の肉体がもはや「日常」の基準では測れないほど脆く、同時に異質であることを突きつける絶望だった。
「……ぁ、ぐ、う……っ」
這い出そうとして地面に手をついた瞬間、左腕に走った激痛に視界が白く染まる。外套の中で蔦に縛られた腕は、どす黒く腫れ上がり、僅かな重力さえもが骨を削るような苦痛となって脳を焼いた。片腕が使えない。それは、昨日まで「成長した」と自惚れていた拓斗から、生存の権利を奪い去るに等しかった。
そして、森は弱者に容赦などしない。空からは叩きつけるような雨が降り始めた。
(……とりあえず、飯を食おう。食わなきゃ、何も始まらない。)
拓斗は、背負っていた獣の皮の包みを引き寄せた。中には、素人知識で燻製にした斑の六本脚の肉が入っている。だが、保存状態は最悪だった。大蛇との戦いで吹き飛ばされた際に隙間から黒い泥が入り込み、さらに数日の経過と湿気によって、肉の端からは鼻を突く腐敗臭が漂い始めていた。
拓斗は、雨で増水し、濁流となった川の縁まで這い寄った。泥と腐敗臭が混じったおぞましい塊を、濁流の中に突き出し、右手だけで必死に洗う。荒れ狂う水が肉にこびりついた泥を強引に剥ぎ取っていくが、表面が少し綺麗になっただけの「死肉」であることに変わりはない。だが拓斗は、それを口に運んだ。
「……っ、が……あ……っ!」
吐き気がせり上がる。ドロリとした嫌な食感と、喉を焼くような不快な味が口内に広がる。かつての彼なら、口に入れるだけで卒倒していただろう。だが今の拓斗は、左腕の激痛を塗りつぶすように、その汚泥にまみれた肉を噛み締め、執念で胃へ流し込んだ。
二日目。降り続く雨は、容赦なく拓斗の体温を奪い去っていた。 昨夜から一睡もできていない。胃に流し込んだ腐肉が体内で異様な熱を発し、内臓が焼け付くような感覚と、腕の骨折部位が内側から無数の熱い針で突き刺されるような不快な痒みが、拓斗を苛み続ける。
「ハァ、ハァ……っ、……クソッ、ふざけんな!」
拓斗は右腕一本でバランスを取りながら、ぬかるんだ急斜面を降りようとしていた。だが、片腕を胸に抱えて固定しているせいで、重心が著しく偏っている。昨日までなら容易に越えられた段差が、巨大な絶壁のように立ちはだかる。ズルッ、と足元の泥が崩れた。反射的に左手を出そうとしたが、動かない。拓斗は右半身から地面に叩きつけられた。 右肩が悲鳴を上げ、同時に左腕に凄まじい振動が伝わる。
「あ、があああああああっ!!」
泥濘の中を転がり落ち、全身が冷たい泥で覆われる。泥が口に入り、傷口に砂が入り込む。それでも、この場に留まることだけは死と同義であることを本能が理解していた。拓斗は泥水に顔を浸しながらも、右手で地面を掻いて前へ進んだ。
三日目、そして四日目。拓斗の精神は、限界という言葉さえ過去に置き去りにしていた。 左腕を脈打つ耐えがたい激痛と、安住の地である「拠点」を離れたことによる剥き出しの恐怖。それらが、彼からまともな睡眠を奪い去っていた。
意図的に瞼を閉じることさえできない。暗闇の中で意識を保とうとすれば、大蛇の無数の足音が幻聴となって耳を打ち、心臓が爆ぜるほどに跳ねる。だが、肉体は悲鳴を上げていた。行軍の途中で、あるいは泥の中に倒れ込んだ拍子に、電池が切れるように不意に意識を失う――それは「眠り」ではなく「気絶」だった。
「はっ、……あ、っ……!」
数分か、数十分か。泥の冷たさや、顔を這い回る虫の感触で弾かれたように覚醒する。その度に、自分がいまだに地獄のただ中にいる現実に絶望し、それでも再び泥を掻く。気絶と覚醒、その細切れの意識の繰り返しの中で、拓斗の時間は混濁していった。昨日と今日の境界も、自分が人間であるかどうかの境界も、薄れていく感覚。ただ、体内を巡る異様な熱だけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。
五日目の朝。 ようやく雨が上がり、木漏れ日が泥濘を照らした。 拓斗は外套の蔦を解き、慎重に左腕を突き出した。
「……動く」
指先を曲げ、手首を返す。五日前、不自然な方向に曲がっていたはずの左腕は、完全に真っ直ぐな、以前よりも一回り逞しい筋肉に覆われていた。 力を込めると、皮膚の下で骨が鋼のような密度で結合しているのが解る。完治しただけではない。雨に打たれ、腐肉を啜り、気絶と覚醒を繰り返しながら極限まで酷使され続けた身体が、その負荷を糧にして、より強靭なパーツへと再構成されたのだ。
「……はは、……これじゃ、本当に化け物だな」
拓斗は、完治した腕を見つめて乾いた笑いを漏らした。 だが、その安堵は長くは続かなかった。彼はよろめきながら立ち上がり、周囲を見渡して息を呑む。
(……なんでだ。なんで、変わってないんだよ)
目の前に広がるのは、見飽きるほどに繰り返される、あの巨大なシダと空を覆う巨樹の群生。五日間、腕を庇いながら、泥にまみれ、死ぬ思いで歩き続けてきた。距離にしてかなりの道のりを稼いだはずだった。 それなのに、視界に映る景色は、拠点を離れたあの日と何一つ変わっていないように見えた。
進んでも、進んでも、原生林は終わりを見せない。 まるで巨大な胃袋の中を這い回っているだけのような、あるいは世界そのものがこの鬱蒼とした緑で完結しているかのような錯覚。腕が治ったという奇跡的な喜びさえも、この圧倒的な「広大さ」という絶望に飲み込まれていく。
「俺は……本当にどこかへ向かってるのか?」
自分の足跡さえも、降り続いた雨が綺麗に消し去っていた。自分が前進しているのか、それとも同じ場所を円を描いて彷徨っているだけなのか、もはや証明する術はない。 拓斗は完治した左手で、折れた槍の破片を握り直した。
五日間の地獄。雨と泥と腐肉の味。その時間は、彼から最後の「甘え」を削ぎ落としていた。 ボロボロの衣服を纏い、残った肉を背負い、両手に折れた槍の残骸を握る。その姿は、もう遭難した学生ではない。死の淵から這い上がり、この地獄に順応した、一匹の獰猛な「異物」そのものだった。
「……進むしかないだろ。止まったら、それこそ終わりだ」
拓斗は自分を叱咤するように呟き、光の差し込む下流へと、再び重い足取りで歩みを進めた。
下流へ向かって数時間歩き続けた頃、拓斗は奇妙な「軽さ」を肌で感じた。 それは、肌を撫でる風の通り方だった。この原生林で目覚めた日からずっと、彼の周囲には湿り気を帯びた腐葉土の匂いと、逃げ場のない熱気がまとわりついていた。しかし今、その粘りつくような空気が、ふっと霧散したのだ。
「……っ、まぶしい……」
拓斗は思わず、泥に汚れた右手をかざした。 視界が開けていた。空を完全に遮っていたあの禍々しい天蓋――巨樹たちの枝葉が薄くなり、数日ぶりに、本物の陽光が地上へと降り注いでいた。
そこは、まるで世界の断絶点だった。 背後には、天を突く巨木が混沌と絡み合い、獲物を待ち構える暗緑色の地獄が鎮座している。だが、一歩踏み出したその先では、樹木の質が劇的に変化していた。
生えているのは、どれも樹齢数十年程度と思われる、まだ若い木々だった。原生林の化け物のような太い幹を持つ木は一本もなく、それらは見通しよく点在している。 視線を足元に落とし、拓斗はさらに息を呑んだ。
膝までを覆い隠し、毒虫を潜ませていたあの巨大なシダや蔓植物が、綺麗に消えていた。 いや、消えたのではない。「刈り取られている」のだ。 地面には、鎌か何かで執拗に草を刈った跡が生々しく残り、ところどころには、斧で叩き切られたばかりの切り株が、陽光を反射して白く光っている。
(……人だ。人が、ここまで来てるんだ)
胸の奥から、熱い塊がせり上がってきた。 原生林の獣道ではない。複数の人間が、長い年月をかけて踏み固めることでしか生まれ得ない、一本の細い土の道。 その道の脇には、乾燥させるために立てかけられた薪の束が、太い蔦で丁寧に縛られていた。
助かった。 その一語が脳裏に浮かび、拓斗の膝から力が抜けかける。この数日間の地獄、左腕が不自然に曲がっていた時の絶望、腐りかけた肉を啜った屈辱。それらすべてから解放される瞬間が、すぐそこまで来ている。
「……っ」
だが。 駆け出そうとした拓斗の身体を止めたのは、他ならぬ彼自身の「本能」だった。
彼は無意識のうちに、若木の陰に身を隠し、折れた槍の破片を握り直していた。 自分でも驚くほどの速さで、視線は周囲の茂みを探り、敵の潜伏の可能性を計算している。喜びよりも先に、「この開けた場所で、もし襲われたらどう動くか」を考えてしまっている自分に気づき、拓斗は戦慄した。
(俺は、何を……。人がいるんだぞ? 喜ぶところだろ……!)
必死に自分に言い聞かせるが、身体は硬直したままだった。 今の自分は、泥まみれでボロボロの制服に、獣の皮を纏い、異形の槍を握っている。 原生林での生活を経て、彼の本能は「未知」を「救い」ではなく「脅威」として処理するようになっていた。 原生林の化け物たちは、ただ本能で殺しに来る。だが、この広大な自然を切り拓き、支配しようとする「人間」という存在は、それとは異なる、得体の知れない知性を持っている。
(あいつらは、俺を見て……『人間』だと思うか?)
水面に映った、眼光だけが獣のように鋭くなった自分の顔を思い出す。 文明の気配が漂うその柔らかな光の中へ踏み出すことに、原生林の闇へ踏み込む時以上の、得体の知れない拒絶感と恐怖を覚えていた。
拓斗は身を隠しながら、慎重にその「管理された森」を観察し続けた。 数歩後ろに広がる原生林とは、何もかもが決定的に違っていた。
まず、耳に届く情報の密度が圧倒的に低い。 原生林では、常に何かが蠢く音がしていた。巨大な昆虫が翅を震わせる金属音、名もなき獣の遠吠え、そして捕食者が忍び寄る不穏な静寂。だが、この若い木々が並ぶ場所では、聞こえてくるのは木の葉を揺らす風の音と、ごくありふれた小さな鳥のさえずりだけだった。
(……襲ってこない)
道に出てから数時間が経過していた。 原生林であれば、一時間に一度は命の危険を感じる何者かに遭遇していたはずだ。だがここでは、茂みから飛び出してくる爬虫類も、木の上から狙ってくる奇形の大猿もいない。
ふと足元を横切ったトカゲを見て、拓斗は足を止めた。 それは、日本で見かけるものよりは少し大きいが、あの大蛇や六本脚の化け物と比べれば、あまりにも「小さく、弱々しい」生き物だった。 拓斗が僅かに動くだけで、その小動物はパニックを起こしたように逃げ出していく。
(……ここでは、俺の方が『強い』のか?)
その事実は、拓斗に奇妙な感覚をもたらした。 原生林において、彼は常に最弱の獲物だった。しかしこの場所では、自分が放つ殺気や、泥と獣の匂いを孕んだ空気そのものが、周囲の生物を威嚇し、遠ざけている。 彼が一歩踏み出すたびに、平和な森の均衡が、異物である彼によって波紋のように乱されていくのがわかった。
また、植物も同様だった。 原生林の木々は、隣り合う個体を絞め殺し、日光を奪い合う、どろどろとした闘争の最中にあった。しかし、目の前の木々は、誰かによって余分な枝を落とされ、光を平等に分け与えられている。その整然とした様子は、拓斗の目には「牙を抜かれた家畜」のように見えた。
「……気持ち悪いな」
ポツリと、独り言が漏れた。 かつての拓斗なら「綺麗だ」と感動したかもしれない。だが、死に物狂いで原生林の暴力的な生命力に食らいついてきた今の彼にとって、この「保護された静寂」は、ひどく虚弱で、不自然な秩序に見えた。
同時に、自分自身の変化が恐ろしくなる。 文明の気配に触れて、まず感じたのが安堵ではなく「温手な環境への嫌悪」だったからだ。自分の感覚が、、あの狂った原生林のルールに染まりきっている。
(俺は、もう……あっち側の生き物なんだ)
拓斗は背後の、あの禍々しい緑の壁を振り返った。 そこには彼を殺そうとした悪意が満ちている。だが、そこでの闘争こそが今の彼を形作っていた。 対して、目の前に続く穏やかな道は、どこか現実味を欠いた書き割りのように感じられる。
それでも、拓斗は前へ進んだ。 例え自分がどう変質していようと、この先に、失った「火」や、安全に眠れる「屋根」があるのなら、そこへ向かわないという選択肢はない。
拓斗は、若木の枝を一本折って即席の杖にすると、自身の「異物感」を噛みしめるようにして、踏み固められた土の感触を確かめながら歩き続けた。
歩みを進めるうちに、道はなだらかな丘へと続いていた。 原生林を完全に抜けたその場所で、拓斗は一本の古びた石の杭を見つけた。
「……なんだ、これ。道標か?」
近づいて目を凝らすが、どうにも焦点が合わない。 刻まれているのは、ひどく歪で、虫がのたくった跡のような、生理的な不快感を抱かせる不気味な模様にしか見えなかった。
(……クソ、目がかすんでやがる。限界か……)
拓斗は、ここが日本の山奥であると信じて疑っていなかった。だからこそ、そこに刻まれているのは当然「日本語」か、「日本で一般的に使われている記号」であるはずだと思っていた。今見えている不規則な幾何学模様は、単に疲労で視界が歪んでいるせいだと思い込み、彼は指で強く瞼を押し、一度、深く瞬きをした。
再び目を開いたその瞬間。 ぼやけていた視界が鮮明になり、そこにあったはずの悍ましい模様は、見慣れた「形」へと結実していた。
『← ハルン村 | 古神の檻→』
「古神の檻?まさか、あの原生林の名前か?…いや、そんなことよりも、確かに日本語で書いてあるな。」
拓斗は安堵の混じった、乾いた笑い声を上げた。 やはり日本語だ。一瞬、妙な幾何学模様に見えたのは、単なる目の錯覚だったのだ。拓斗にとって、原生林の名前よりも、そっちの方がよほど大切だった。
そして、もう一つの方にも意識を向ける。
(ハルン村……聞いたことはないが、この先に人がいるんだな)
胸の鼓動が早まる。それは原生林で、死の淵で忘れかけていた「希望」という名の熱だった。 誰かがいる。火があり、屋根があり、言葉の通じる人間がいる。 拓斗はボロボロになった制服の汚れを無意識に手で払おうとしたが、そのあまりの泥と返り血の凄まじさに、すぐに手を止めた。
(……いや、浮かれるな。どんな奴らがいるかわからない。まずは様子を窺うのが先だ)
期待に胸を躍らせながらも、原生林で培われた生存本能が警鐘を鳴らす。彼は折れた槍を握り直し、腰を落として周囲の気配を読み取ろうとした。 自分を、助けを求める「遭難者」として整え直そうとする自意識と、外敵を警戒する「獣」としての本能が、彼の中で激しく火花を散らす。
彼は震える足取りで丘の斜面を登りきった。 視界が開けた瞬間、拓斗の肺から深く乾いた息が漏れた。
「……あ……」
丘の上から見渡せたのは、死の臭いが立ち込めていた原生林とは対照的な、穏やかで広大な景色だった。 なだらかな斜面には黄金色の麦畑が広がり、その先には石造りの家々が肩を寄せ合うように並んでいる。家の煙突からは昼食の準備を告げるような細い煙が立ち上り、村の中心を通る一本の道は、はっきりと人の営みを証明していた。
村の境界では家畜がのんびりと草を食み、畑には小さく人影も見える。 それは彼が原生林で、泥水を啜りながら夢にまで見た「人間がいる世界」そのものだった。
(助かった。……本当に、人がいる)
故郷の風景とはどこか違う、中世のような古めかしい街並み。それでも、そこに「社会」があるという事実に、拓斗は胸を締め付けられた。 そして、彼は安堵の息を吐きながら、見慣れた青い空を仰ぎ見た。 ここで、ようやく安心できるのだ、と。
そこで、拓斗の思考は完全に停止した。
「……ぁ……」
絶句したまま、槍が手から滑り落ちた。 そこには、人生で一度も見たことのない、そして地球上に存在するはずのない絶望が並んでいた。
視界の右側。そこには彼が知る太陽と同じように、強烈な光を放つ輝かしい天体があった。 だが、それと対をなすように視界の左側――そこには、空間を塗りつぶす巨大な「真っ黒な円」が鎮座していた。 それは右の太陽よりも二回りほど大きく、光を一切反射しない泥のような沈黙の色。空の左半分を暴力的に抉り取ったようなその黒い天体は、見上げているだけで精神が削り取られるような圧迫感で拓斗を押し潰した。
(……嘘だろ。……なんだよ、あれ……)
拠点は、常にあの忌々しい巨樹の天蓋が空を隠していた。 夜は死の恐怖に震え、昼は隙間から漏れる光を追うだけで精一杯だった。空全体を眺める余裕など、あの日々には一秒たりともなかった。 だが、今は遮るものが何もない。
(ここ、は……どこだ?)
左右に分かたれた二つの巨大な天体。一方は眩い光を投げかけ、一方は底知れぬ虚無を晒している。 その異形な天体は、ここが地球ではないことを、残酷なまでの物理的事実として証明していた。 日本語に見えたあの石杭こそが、自分の脳が見せた最後の「嘘」だったのだ。あの悍ましい幾何学模様こそが、この世界の逃れようのない真実だったのだ。
「あ、あああああああああああああああッ!!」
拓斗は喉が裂けるような悲鳴を上げ、その場に膝をついた。 もう、戻れない。 どれだけ歩いても、どれだけ生き延びても、その先に「日本」はない。
激しい眩暈。胃の底からせり上がるような絶望が、彼の意識を闇に突き落そうとする。 涙が泥にまみれた頬を伝い、地面を濡らした。
(死にたい。……もう、楽になりたい)
一瞬、折れた槍の鋭い断面が目に入った。これを喉に突き立てれば、この理不尽な世界から今すぐ退場できる。 震える手が、槍を掴んだ。だが、 死を想った瞬間、脳裏に浮かんだのは、あの汚泥の中で喰らった斑の六本脚の肉の味だった。腕を折られ、雨に打たれ、泥水を啜りながら、それでも「生きたい」と願って繋ぎ合わせた身体の熱だった。
(……ふざけるな。あんな思いをして、ここで死ねるか)
絶望の渦の底で、ドロドロとした黒い執念が鎌首をもたげた。 ここが地球でないなら、これまでの自分を縛っていたルールは何の意味も持たない。 なら、この世界の住人がこの空を「当たり前」として見上げているのなら、自分もその隣で生き抜いてやる。 この「黒い太陽」の下で、誰よりも生存に特化した「異物」として、最期まで食らいついてやる。
「……見てろ。俺は、……絶対に死なない」
拓斗は震える膝を叩き、再び立ち上がった。 かつて日本にいた頃の彼は、これほどまでに生に固執する人間ではなかった。しかし今、彼の泥にまみれた胸の奥では、三つのどす黒い執念が火を噴いていた。
一つは、あの日からずっと消えない理不尽への怒りだ。 何の前触れもなく日常を奪い、自分をこの地獄へ放り込んだ運命。その勝手極まる理に対し、「はい、そうですか」と無抵抗に死んでやることだけは、プライドが許さなかった。ここでくたばることは、自分を弄んだ何者かに屈することと同義だ。屈服するくらいなら、この世界の喉元を食い破ってやる。
二つ目は、あの原生林で刻み込まれた死への根源的な恐怖だ。 斑の六本脚に腕を折られ、その牙が喉元に迫った瞬間に感じた、生温かい死の息吹。川を見つける直前、泥水に顔を埋めて意識が遠のき、世界が完全な無へと溶け落ちようとしたあの瞬間。 あの時、拓斗が味わったのは「安らぎ」などではなく、自分がこの世から消滅することへの、言葉にできないほど悍ましい拒絶反応だった。あの一切の感覚がない冷たい虚無に比べれば、今の絶望も、全身を焼くような痛みも、生きている証拠として愛おしくさえあった。あの暗闇にだけは、二度と戻りたくない。
そして三つ目は、この異形の空を見て生まれた「確認への渇望」だ。 ここが日本ではないというなら、なおさらだ。この世界の果てに何があるのか。なぜ自分がここにいるのか。それを全て自分の目で見届け、この世界の正体を突き止めるまでは、死ぬことすら自分に許さない。
(死にたい? 違う。……俺は、まだ何も納得しちゃいないんだ)
瞳から脆弱な涙が消え、代わりに宿ったのは、暗く澱んだ、だが消えることのない飢餓感。 彼は折れた槍を泥で拭い、腰にしっかりと固定すると、黒い天体が支配する空の下、ハルン村に向かって出発した。
丘を下り始めた拓斗の足元には、一ヶ月に及ぶ地獄のような原生林とは明らかに異なる「秩序」が広がっていた。 あの森を抜ける旅に一週間。あの森で目覚め、拠点を築き、あの異形の猛獣と死闘を演じ、受けた傷が完治するのを待ったあの日々……合計で一ヶ月近い時間が、拓斗を「日本の高校生」から、泥と返り血にまみれた「生存者」へと作り変えていた。
人の背丈ほどに切り揃えられた若木の列。枯れ枝一つ落ちていない、家畜が食んだかのように短く整えられた下草。 五日間、彼を拒絶し続けてきた暴力的な自然とは違う、生命を管理し、飼いならしている文明の匂いに、拓斗は一瞬だけ張り詰めていた心の糸が緩みそうになる。 だが、その安堵感に冷水を浴びせるように、左右の空に浮かぶ「光」と「虚無」が、ここが決定的な異郷であることを突きつけてきた。
(油断するな。まだ、何も終わっちゃいない)
拓斗は「獲物」を狙う獣の足取りで、斜面を緩やかに下っていく。 村との距離が縮まるにつれ、どこからか、微かな「音」が風に乗って届き始めた。 最初は、ただの雑音だと思っていた。だが、その音の響きが鼓膜を震わせた瞬間、拓斗の脳内に直接的な情報の塊が流れ込んできた。
(……? 今、何か……)
距離はまだある。物理的な「音」としては、何を言っているのか判別できないはずの微かなものだ。 それなのに、なぜか拓斗の意識には、その「音」が持っている意味だけが、まるで以前から知っていた事実であるかのように鮮明に浮かび上がってきた。
『……今日は日差しが強いな』
『……ああ。だが南の空が重い。一雨来るかもしれん』
拓斗は足を止め、自分の耳を手で押さえた。 今のは何だ。日本語に聞こえたわけではない。ただの「音」を、脳が勝手に言葉として解釈し、記憶の奥底から引きずり出されたような、生理的な不快感が背筋を走る。
困惑を抱えたままさらに歩みを進め、畑の境界を示す生け垣が見える位置まで辿り着いた。 すると、またしても感覚が歪み始めた。 最初は金属が擦れ合うような異質な響きだったものが、一瞬の瞬きや心臓の鼓動を挟むたびに、少しずつ「矯正」されていく。粗いノイズが削ぎ落とされ、聞き馴染みのある日本語の形へと、強引に再構成されていくのだ。
「……そろそろ、……休憩にする……か」
それは、紛れもない日本語の響きだった。 拓斗は激しい動揺を抑えながら、その異常な現象に対する「理由」を必死に手繰り寄せた。
(……そうだ、これは俺の脳がバグってるんだ。……石杭の文字の時と同じだ。一ヶ月もまともに人間と喋ってないから、頭が限界なんだ。だから、聞こえてくる音を、俺が一番欲しがっている言葉に無理やり翻訳して……自分を納得させようとしてるんだそうだ、そうでなければ説明がつかない。 左右に二つの天体が浮かぶような異世界で、日本語が通じるはずがない。これは、自分自身の脳が見せている「都合のいい幻覚」であり、極限状態が生んだ防衛本能の一種なんだ。)
そう自分に言い聞かせると、得体の知れない恐怖が、いくぶんか実体の伴う「症状」として処理できた気がした。
(幻聴でも、幻覚でもいい。……言葉が「わかる」なら、それを使い倒してやるだけだ)
拓斗は腰の折れた槍を一度強く握り直し、それをあえて背後に隠すように持ち替えた。 泥にまみれ、獣の皮を纏った自分の姿が、文明社会においてどれほど異質に見えるかは想像に難くない。だが、ここを越えなければ道はない。
彼は生け垣の陰から、ゆっくりと立ち上がった。 村の入り口へと続く一本の道。その先には、家々の隙間に動く人影が見える。
(……行くぞ)
これまでの自分を捨て、この世界の住人として「食らいついていく」ための第一歩。 拓斗は、長く、深く息を吐き出し、日本ではない空の下にある最初の村へと、迷いなく足を踏み出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。これにて第一部『原生林編』が完結となります。拓斗の泥臭い生存劇を一緒に見守ってくださった皆様に、心から感謝申し上げます。『原生林編』の最終話だということで、つい、いつもの倍ほどの文量になってしまいました。
さて、最初は普通の高校生だった拓斗ですが、この一ヶ月間、死の隣で異世界の生命を喰らい、生きることに執着し続けたことで、肉体も精神も少しずつ変質してきました。彼が手に入れた『強さ』は、単なる幸運ではなく、凄まじい代償を払って得たものであることを描きたかった部分です。
今回登場した『古神の檻』という名称。なぜあの場所がそう呼ばれるのか、なぜ強力な魔物たちは外に出てこないのか……そのあたりの生態学的な理由は、これからの物語で少しずつ明かされていく予定です。
次話からは、いよいよハルン村での物語が始まります。言葉が『分かってしまう』謎や、異世界に住む人々との接触。果たして拓斗は人として迎え入れられるのか、それとも……。新たな展開にご期待ください!




