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あがきの果てに  作者: 縁日の丸
原生林編
6/13

泥濘で叫ぶ執念

拠点を離れ、歩き始めてから数時間が経過した。 背中には、獣の皮に包み、蔦で幾重にもくくりつけた燻製肉が重くのしかかる。丸一日かけて整えた装備。自作の「火入れ」から漏れる僅かな煙が風に流され、獣の皮の外套がガサリと湿ったシダの葉を弾いた。 かつて、この原生林に放り出されたばかりの頃の拓斗にとって、森は「自分を殺しに来る悪意の塊」でしかなかった。だが今、彼の瞳は驚くほど冷静に、周囲の情報を処理していた。


(大型の鳥が飛び立った。何かが移動してるな)


拓斗は足を止めず、手に持った骨槍で、行く手を阻む太い蔓を跳ね除けた。この槍は、弾力のある若木の先に、斑の六本脚から剥ぎ取った腿の骨を鋭く研ぎ澄ませて固定したものだ。ここに来た当初なら、この蔓一本に足を取られて無様に転び、制服を無残に引き裂かれていただろう。だが今の彼は、槍を杖のように使い、重心を巧みに移動させながら斜面を滑るように降りていく。


不意に、左背後の茂みが爆ぜた。


「そこだ」


拓斗は振り返るよりも早く、槍の柄を脇に抱え込み、鋭利な骨の穂先を後方へ突き出した。 ギャッ、という短い悲鳴。現れたのは、体長1メートルほどの、鋭い鉤爪を持つ爬虫類だった。以前、泥沼まで自分を追い回したあの化け物とは似て非なる生き物だ。


爬虫類は槍の穂先を辛うじてかわし、低く身を構えて拓斗を睨みつける。以前の拓斗なら、この時点で腰を抜かし、泣き叫びながら背を向けて逃げ出していただろう。だが今、拓斗の心拍数は驚くほど安定していた。彼は槍を構え直し、骨の切っ先を獲物の喉元へと正確に向ける。


(こいつは、ただの「獣」だ)


脳裏に、あの悪夢が蘇る。草を静かにかいくぐり、現れたあの大蛇。あの不気味にうねる鱗の質感と節くれだった無数の足、そして何よりも、その目に宿っていた「確かな殺意」。あれは単なる食欲で動く獣ではなかった。知性すら感じさせる邪悪な眼光に射抜かれた時、拓斗の心は完全に壊れ、ただ逃げることしかできなかった。


目の前の爬虫類には、それがない。拓斗は槍を一歩踏み込み、鋭い咆哮を上げた。


「帰れッ!」


槍の木の部分で近くの幹を激しく叩き、威嚇の音を響かせる。 爬虫類は、格下だと思っていた獲物が放つ圧倒的な気圧に怯み、数歩後ずさりすると、藪の中へと消えていった。


「ふぅ。……俺も、少しはマシになったみたいだな」


拓斗は槍を地面に突き、短く息を吐いた。 (この森では)小型の獣を威嚇で追い払えるようになった。確かな成長だ。自分の身体が、あの中型の獣の肉を喰らったことで、この世界の毒気に適応し、強くなっていることを実感する。


だが、その微かな「余裕」は、直後に届いた一音によって、粉々に砕け散った。


――ズゥ、ゥゥゥゥゥゥ……。


空気が震えた。 それは音というよりも、内臓を直接掴んで揺さぶるような、低周波の振動。拓斗は思わず振り向いた。上流のさらに先、巨大な樹木が天を突く「深部」の方角から、その咆哮は届いた。かつて目撃した、あの山の如き巨獣だ。


「っ……!」


拓斗の全身の毛穴が、一瞬で収縮した。 さっきまで感じていた自信が、あまりにも滑稽で、無意味なものに思えてくる。


(あれは、別だ。あれだけは、絶対に勝てない。……まだ、近づいちゃいけない壁だ)


成長とは、全能感を得ることではない。自分の限界を正確に把握し、その上で、死なないための「慎重さ」を身につけることだ。拓斗は震える膝を叩き、自分に言い聞かせるように呟いた。


「わかってる。だから、川を下るんだ。あんなのがいない場所へ」


しかし、原生林は彼の覚悟をあざ笑うかのように、次の試練を突きつけた。 再び歩き出し、密生するシダの葉を掻き分けたその先で、拓斗の動きが凍りついた。


風が止まったわけではない。だが、周囲の空気が粘り気を帯びたように重くなる。 進行方向、巨大な幹の影から、それは静かに「滑り出して」きた。


(……嘘だろ)


以前出会った、あの個体ではない。だが、間違いなく同種の大蛇。 音もなく草をかいくぐり、鎌首をもたげるその動作。何よりも拓斗の胃をせり上がらせたのは、その蛇然とした胴体の両脇にびっしりと生え揃った、節くれだった無数の「足」だった。 日本のどんな図鑑にも載っていない、生物学的な忌避感を呼び起こす異形の姿。カサカサ、カサカサと、無数の足が地面の落葉を掻き分ける不快な音が、拓斗の耳にこびりついて離れない。


大蛇の三対の目が拓斗を捉えた。あの時と同じ、冷徹なまでの「意志」を持った殺意。


「ひっ……あ、ああ……!」


膝が笑う。小柄な生き物が身を震わせているのは、大蛇からすればさぞ滑稽だったのだろう。その目が愉悦を感じているように歪んだ。成長したはずの自信は瞬時に霧散し、拓斗は反射的に背を向けた。


(冗談じゃない。あんなものと戦えるわけがないだろ!)


拓斗は斜面を転がるように駆け出した。背後の「カサカサカサ」という音が、驚異的な速度で近づいてくる。


「こっちに来るな! 来るなッ!」


シダの葉が顔を打ち、蔦が足を払う。拓斗は無我夢中で骨槍を振り回し、行く手を阻む障害物を薙ぎ払いながら逃げた。だが、原始林で生まれ育った獣から逃げ切れるほどこの森は甘くない。


背後から凄まじい風圧が迫り、直後、重い衝撃が拓斗の背中を打った。


「がはっ……!」


大蛇が放った尾の一撃。防具代わりの獣皮越しでも、肋骨が軋む音が聞こえた。拓斗は数メートル吹き飛ばされ、太い幹に背中を強打して崩れ落ちた。


視界が点滅する。肺から空気が押し出され、吸い込もうとしてもヒューヒューと虚しい音が出るばかりだ。 顔を上げると、大蛇が既に目前に迫っていた。無数の足が波打つように動き、獲物を囲い込む。 大蛇はすぐには食らいつかず、弱った獲物を観察するように頭部を揺らした。その六つの瞳が、拓斗の絶望を楽しんでいるかのように見えた。


「……ぁ……」


拓斗の手が、泥の中に落ちていた骨槍に触れた。 渾身の力で突き出す。だが、大蛇はそれを嘲笑うかのように頭部をわずかに逸らし、逆に強靭な顎で槍を横から噛み砕いた。 バキッ、という絶望的な音。 丹精込めて作った骨の穂先が、虚しく地面に転がった。


手元に残ったのは、穂先を失った木の柄と、その断面から突き出した鋭い「木の裂け目」だけ。 大蛇が再び尾をしならせる。拓斗は避ける間もなく、左腕でそれを受けた。


「ぎああああああああっ!」


鈍い破砕音。左腕が不自然な方向に曲がり、激痛が脳を焼く。 拓斗は泥濘に這いつくばりながらも、大蛇の「足」が自分のすぐそばで地面を掻き毟るのを見た。


(死ぬ。ハイと同じように、ここで……)


意識が遠のきかける中、ハイの墓の前に供えた花が、最後に自分を見送ってくれたハイの瞳が、脳裏をよぎった。


(……嫌だ。死んでたまるか。こんな、気持ちの悪い化け物の腹の中で終わってたまるか……!)


生きることへの、呪いにも似た渇望。 それが、砕け散った拓斗の精神を強引につなぎ合わせた。 大蛇がトドメを刺すべく、口を大きく裂けるほどに開き、拓斗の頭上へ覆いかぶさる。その瞬間、拓斗の五感は極限まで研ぎ澄まされた。


大蛇の動きが、スローモーションのように見える。 今、この瞬間、この化け物は勝ちを確信し、最大の隙を晒している。 拓斗は左腕の痛み無視し、右手に残った折れた槍の柄を、そして左手に泥の中に半ば埋もれていた骨の穂先の破片を、泥ごと掴み取った。


「うおおおおおおおぉぉぉぉッ!!」


裂傷だらけの身体から、どこにそんな力が残っていたのか。 拓斗は泥を蹴り、自ら大蛇の喉奥、その死の口門へと飛び込んだ。 大蛇にある三対の目のうち、最も前方に位置する一対が、驚愕にわずかを見開かれる。


「死ねッ! 化け物ッ!!」


右手の折れた木片を右目に、左手の拳に握りしめた骨の破片を左目に。 拓斗は渾身の体重と、自らの命のすべてを乗せて、大蛇の最も巨大な双眸にそれを突き立てた。


グチャリ、という生々しい感触が肩まで伝わる。 他の部位を覆う硬質な鱗とは無縁の、柔らかい粘膜への直撃。そこに、拓斗の生きるための執念が深々と突き刺さった。


大蛇が、絶叫ともつかぬ異音を上げてのけ反った。 残る二対の目は健在であったが、生まれて初めて経験するであろう「急所を破壊される」という凄まじい激痛が、この森の支配者の理性を一瞬で吹き飛ばした。 視界を奪われたわけではない。しかし、眼球を貫かれ脳を揺さぶるような苦悶に、大蛇は目の前の羽虫――拓斗を仕留めることさえ忘れ、無数の足をデタラメに動かしながら周囲の木々をなぎ倒し、自身の顔面を地面に叩きつけて悶え苦しんだ。


拓斗はその衝撃で再び弾き飛ばされ、地面を転がったが、痛みを感じる余裕さえなかった。


「はぁ、はぁ、……はぁっ……!」


折れた腕を抱え、泥を這い、必死にその場を離れる。 背後では、狂乱した大蛇がのたうち回り、森を破壊し尽くす音がいつまでも響いていた。


どれほど走ったか、あるいは這ったか。 冷たい川のせせらぎが聞こえる場所まで辿り着いた時、拓斗は力尽き、仰向けに倒れ込んだ。 右手にはまだ、大蛇の体液に汚れた、折れた槍の残骸が固く握りしめられている。


「……っ、……ぁ……」


拓斗は荒い呼吸を繰り返しながら、自分の身体と装備の惨状を一つずつ確認していった。


まず、右手に握られた骨槍。あれほど丹念に作り上げた自慢の武器は、今や見る影もなく中央から二つに折れている。半分は穂先のないただの木の棒。もう半分は、大蛇の体液に汚れ、先端が欠けた骨の付いた短い破片だ。かつては狩りのための「得物」だったそれは、今や折れた牙のように無残な姿を晒していた。


「……火が、ない」


ふと気づき、拓斗は腰元を弄ったが、そこにあるはずの「火入れ」の感触はなかった。大蛇から死に物狂いで逃げ回る最中、あるいは一撃を食らって吹き飛ばされた衝撃で、どこかへ落としてしまったのだ。原生林という闇の中で、唯一の文明との繋がりであり、命綱でもあった「火」の喪失。その事実は、折れた腕の痛み以上に、拓斗の心に冷たい影を落とした。


背負っている獣の肉を確認する。皮で包み、蔦で縛り上げた燻製肉は、吹き飛ばされた際に泥濘にまみれ、隙間から入り込んだ黒い泥で酷く汚れていた。 だが、拓斗はそれを捨てなかった。


「……洗えば、食える。食わなきゃ、動けなくなる」


泥まみれの肉を背負い直すその手は、かつての潔癖な高校生のそれではない。泥だろうが獣の脂だろうが、生きるための糧であるならば執着する。今の拓斗にとって、泥はもはや汚れではなく、生きている証ですらあった。


(火も、武器も、まともな食料も……全部失いかけてる)


これまでの数日間で積み上げてきた「余裕」は、文字通り大蛇の一撃で粉砕された。 だが、拓斗の心臓は以前より強く、速く打っている。 原生林に対する認識は、もはや「克服すべき対象」ではない。正面から向き合えば殺される、底知れぬ悪意の塊。


(『戦う』なんて、二度と考えちゃダメだ。俺は、……まだ虫ケラ以下なんだ)


拓斗の中にあった微かな全能感は完全に消滅し、そこには絶望だけが残った。 しかし、その絶望は彼を弱くはしなかった。生存に対する考え方はより冷徹で、狡猾なものへと変質していった。 これからの行動指針は、勇気ある冒険ではない。勝とうとせず、ただ死なないこと。森のルールに従うのではなく、その隙間を縫うようにして生き延びること。


「見てろ……。どんなに化け物がいても、どんなに森が俺を拒んでも、俺は絶対に止まらない」


拓斗は、泥にまみれた右手で折れた槍の残骸を、護符のように強く握りしめた。


「お前らが俺を『異物』として排除しようとするなら、俺は死ぬまでこの世界にとっての『異物』であり 

 続けてやる。」


痛みに顔を歪めながらも、拓斗の瞳には、かつての日常を懐かしむような脆弱さは微塵も残っていなかった。代わりに宿ったのは、暗く、澱んだ、だが決して消えることのない「執念」の炎だった。 彼は折れた左腕を外套の中に押し込み、蔦で無理やり固定すると、再び立ち上がった。 一歩。また一歩。 残されたわずかな肉と、折れた槍の破片だけを道連れに、拓斗は未知の下流へと足を踏み出した。

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