一握の塩、一筋の道
獣の肉で繋いだ命は、拓斗の身体を内側から作り変えていた。拓斗は自分の脇腹と右肩に手を当てた。 あの中型の獣――『斑の六本脚』との死闘で、深く引き裂かれたはずの場所だ。 傷口はまだ赤紫色の痕を残しているが、驚くべきことに、痛みはほとんど消え失せ、新しい皮膚が完全に塞いでいた。
「……嘘だろ。まだ、二日しか経ってないのに」
本来なら、泥にまみれた不衛生な環境下で、化膿して高熱にうなされていてもおかしくない重傷だった。それなのに、あの獣の肉を無理やり喉に押し込み、泥のように眠るたび、身体の芯から湧き上がるような熱い波動が傷口を繋ぎ合わせていったのだ。
(あの肉のせいか……?)
手元に残った、燻製にしてもなお禍々しい色をした獣の肉を見つめる。 食えば食うほど、感覚が鋭敏になり、筋力が底上げされていくような奇妙な全能感。それは生き残るためには有り難い変化だったが、同時に、自分の内側にある「人間」としてのバランスが、この世界の理によって急速に書き換えられているような、底知れない恐怖が拓斗を襲った。
『斑の六本脚』と戦闘してから、ハイの墓に祈ることは日課となったが、彼に残されたのは、静寂すぎる拠点と、自分の荒い呼吸音だけだった。
「……はぁ、……何か、味のするものが食べたい」
傷も完全に治った頃、焚き火の前に座り込んだ拓斗は、ひどく掠れた声で独りごちた。 今、彼を最も苛んでいるのは、空腹以上に「味」への飢えだった。獣の肉を焼いても、口の中に広がるのは脂の生臭さと、鉄のような血の味だけだ。 塩が欲しい。ほんの一摘みの塩があれば、この肉はどれほど救われるだろうか。あるいは、ほんの一滴の醤油があれば。狂おしいほどに細胞が、結晶としての塩分を、脳を震わせるような醤油の深みを求めていた。
だが、この原生林で塩を見つけるのは至難の業だ。海はどこにあるのかわからない。岩塩の知識もない。 せめて、ハイが教えてくれたキノコや野草を煮込んで、その僅かなミネラルを凝縮させたスープを作ることができれば、この渇きは癒えるかもしれない。
(煮込めれば……器さえあれば、何とかなるかもしれない)
その切実な期待が、拓斗を動かした。 彼は川辺へ降り、膝をついて粘土質の土を探した。指先を泥に突っ込み、湿った感触を確かめる。かつて美術の授業で触れた陶芸の記憶は曖昧だったが、今の自分には石のハンマーさえ作り上げた実績がある。できるはずだ、と自分に言い聞かせた。
まずは、川底から掬い上げた泥を両手でこね始めた。 チャプチャプと、泥が跳ねる音が虚しく河原に響く。
「最初は……空気を抜くんだっけか」
記憶を頼りに、泥の塊を岩に叩きつける。だが、そこらにある泥には、小石や枯れ葉、得体の知れない生物の死骸が混じっている。それらを取り除かなければならないのか、そのままでいいのかすら、今の彼にはわからなかった。
数時間かけて、ようやくボウルのような形に整えた。 それを焚き火のそばに置き、乾燥を待つ。熱いスープ、僅かな塩気を含んだ汁物を想像し、喉を鳴らす。 だが、一時間もしないうちに「パキッ」という軽い音がした。 見れば、泥の器には蜘蛛の巣のような亀裂が無数に入り、触れた瞬間にバラバラと崩れ落ちた。
「なんでだよ……。何が、違うんだよ」
拓斗は荒々しく髪を掻きむしった。指の間に入り込む泥の不快感。爪の中に詰まった、洗っても落ちない黒い汚れ。 視界の隅に、泥だらけの自分の手が映る。 その手を見て、拓斗は一年前の放課後を思い出した。教室の隅で、親友の健太とアイスを食べながら交わした、馬鹿げた会話。
『なぁ拓斗。もし無人島に一つだけ持って行けるなら、お前何にする?』
『……なんだよ急に。サバイバルナイフとか、ライターとか?』
『甘いな。俺ならソーラーパネル付きのスマホだね』
『アホか。電波ねーだろ、無人島なんだから』
あの時、自分は何と答えただろうか。確か「お前がいれば退屈しないから、お前を持っていくよ」なんて適当な冗談を言って笑い飛ばしたはずだ。
「結局、何一つ持ってこれなかったな…。」
拓斗の口から、自嘲気味な乾いた笑いが漏れた。 ライターも、ナイフも、そして「あいつ」も。 今、手元にあるのは、自分の血で染まったブレザーと、死んだ友の形見である食べ物の知識、そして使い物にならない泥の塊だけだ。今の俺なら、迷わず「バケツ一杯の塩と、頑丈な鍋」と答えるだろう。
あの頃の自分は、どれだけ恵まれていたか。 百円ショップに行けば、白く美しいマグカップが並んでいた。スーパーに行けば、一つまみの塩なんて十数円もあれば買えた。醤油も、味噌も、当たり前のようにそこにあった。 蛇口をひねれば安全な水が出て、帰れば母さんが「おかえり」と言い、食卓には温かい味噌汁が並んでいた。自分が何もしなくても、器は常に清潔で、ご飯は常に用意されていた。
学校で「だるい」と思っていた人間関係。家庭科の授業で聞き流していた調理の基礎。それらすべてが、自分が「人間」として生きていくための、目に見えないライフラインだったのだ。
「一人じゃ……器ひとつ、味ひとつ、作れないのかよ」
拓斗は泥まみれのまま、地面に這いつくばった。 腰が重く痛み、右腕のないはずの傷がズキズキと脈打つ。 一日中、泥と格闘した結果、手元に残ったのはゴミの山。 味気ない肉を咀嚼し、冷たい川水を飲むだけの、獣と同じ日々。
夕暮れの冷気が、汗ばんだ身体を容赦なく冷やしていく。 拓斗は、ひび割れた泥の塊を、力任せに川へと投げ捨てた。
「……ここで、石器時代をやり直すなんて、御免だ」
拓斗は焚き火の炎を見つめながら、鋭い瞳で自分を奮い立たせた。 器がないなら、器がある場所へ行くしかない。 調味料があり、温かいスープがあり、自分を待っている人がいる場所へ。文明という名の「他者の繋がり」の中へ。
「帰るんだ。……絶対、戻ってやる。……あいつに、無人島には器と塩を持っていくべきだったって、教えてやらなきゃいけないからな」
挫折は、皮肉にも、拓斗に目的地を再確認させた。 この岩壁は「城」ではない。ハイが死に、自分が生まれた、ただの出発地点だ。
「行こう……。川を下れば、誰か、いるはずだ」
器作りを諦め、下流へ向かう決意を固めた拓斗は、翌日を丸一日、旅の準備だけに充てることにした。これまでの「拠点を守るための生活」から「移動しながら生きるための生活」への切り替えは、想像以上に過酷な作業だった。
まず着手したのは、獲物から剥ぎ取った「斑の六本脚」の皮の加工だ。 剥ぎ取った直後の皮は、内側に脂と肉片がびっしりとこびりつき、重く、凄まじい生臭さを放っている。拓斗は川辺のザラついた岩肌に皮を広げ、鋭利な石の破片を何度も押し当てて、その汚れをこそぎ落とした。
「……っ、うわ、……きつい」
不快な脂の感触が手にこびりつく。なめしの知識がない拓斗にできるのは、ただひたすらに物理的に汚れを落とし、川の水で揉み洗いすることだけだった。何度も何度も、指の感覚がなくなるまで冷たい水で揉み、焚き火の煙に当ててじっくりと燻す。
完成したのは、不恰好でひどく重い、だが圧倒的な防寒性能を持つ簡易的な外套だ。袖を通すというより、穴を開けた皮に首を通し、腰を蔦で縛るだけの原始的な装束。これを羽織ると、獣臭さを常に背負うことになるが、これがなければ夜の冷気に命を奪われるだろう。
次に、旅の生命線となる「火」を持ち運ぶための工夫に挑んだ。 拓斗は倒木の中から、中心部が自然に腐食して空洞になっている「ウロ」を見つけ出した。その乾燥した木片を石で慎重に削り、持ち運び可能なサイズにする。内側には川底の湿った泥を厚く塗りつけ、熱で木自体が燃えないように断熱を施した。
その中に、焚き火の底からじわじわと燃え続ける硬い木の根の炭を移し、さらにたっぷりの灰で覆う。
「……消えるなよ。絶対だぞ」
一歩動くたびに灰が舞い、酸素の供給量が変わる。もし移動中に火が消えれば、今の彼には再発火させる術がない。火種を抱えて歩くという不自由さは、現代のライターの利便性を再び痛烈に思い出させたが、今はその重みこそが希望だった。
さらに彼は、自分を守るための「槍」を磨き上げた。 獣の腿の骨は、驚くほど硬く、そして鋭かった。岩に何度も叩きつけて割り、先端をさらに別の岩で数時間かけて研ぐ。キーキーと耳障りな音が河原に響き渡る。 それを、弾力のあるしなやかな若木の先へと、水に浸して柔らかくした蔦で幾重にも巻き付けた。蔦は乾けば収縮し、骨と木を鋼のように強く固定する。
「……よし」
完成したのは、洗練とは程遠い、だが殺意に満ちた一本の骨槍だった。立てると拓斗の身長よりも高い、180cmほどの長さをしている。 拓斗はそれを構え、突き出してみた。 石のハンマーよりも間合いが広く、突く力に特化している。これまでの自分はただ逃げ回る獲物だったが、この槍を握る時だけは、自分もまたこの森の捕食者の一員なのだという奇妙な自覚が芽生える。
夕暮れ時、拓斗はさらに「靴」の補強も行った。 ボロボロになったスニーカーの上から、獣の皮の余りを巻き、蔦で固定する。これで少しは、鋭い岩場やトゲのある植物から足を守れるはずだ。
日が完全に沈む直前、拓斗は最後にハイの墓の前に座った。 夕闇の中で、黒い墓標は静かに佇んでいる。
「……ハイ。明日、ここを出るよ」
拓斗の声は、静かだが揺るぎなかった。
「ここでじっとしてたら、器一つ作れない。俺は、……人里を目指す」
理由はそれだけで十分だった。 人間として、人間らしく生きるために。温かいスープと、自分以外の誰かの声を求めて。 拓斗は、新しく作った背負い袋に、限界まで燻製肉を詰め込んだ。
夜の原生林は、これまで以上に深い闇に包まれている。 だが、今の拓斗の横には、自作の「火入れ」から漏れる小さな橙色の光があった。 準備は整った。 翌朝、太陽が昇ると同時に、拓斗は一歩も振り返ることなく、未知の下流へと旅立つ。




