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あがきの果てに  作者: 縁日の丸
原生林編
4/13

灰色の墓標

火という文明の灯を絶やさぬ生活が始まってから、十日ほどが過ぎた。 拠点を中心とした拓斗の「生存圏」は少しずつ安定し、精神的な余裕が生まれたことで、彼は初めて自分以外の命と向き合うことになった。


きっかけは、ある午後の小さな事件だった。 薪にするための枯れ枝を集めていた拓斗は、聞き慣れない鋭い鳴き声に足を止めた。見上げると、岩棚の突き出た場所に、大きな耳と長い尻尾を持つ灰色の小動物が追い詰められていた。その頭上では、カミソリのような嘴を持つ怪鳥が、今にも急降下せんばかりに旋回している。


「……おい、あっち行け!」


拓斗は咄嗟に、足元の石を怪鳥に向けて放り投げた。 石は大きく外れたが、予期せぬ攻撃に驚いた怪鳥は、不快な鳴き声を残して森の奥へと去っていった。 残された灰色の生き物は、岩棚の上で震えていた。大きな瞳が、恐怖に満ちた色で拓斗を見つめている。拓斗はそれ以上近づかず、拾った枝を抱えて拠点へと戻った。


翌朝、拠点の入り口を開けると、そこには昨日の生き物がちょこんと座っていた。 拓斗が驚いて固まると、そいつは鼻をヒクヒクさせ、大きな瞳で拓斗を見上げている。


「お前……昨日のやつか。ついてきたのか?」


もちろん返事はない。だが、その生き物は拓斗が川へ水を汲みに行けば少し離れた後ろをついて歩き、実を割る作業を始めると、安全な岩の上からじっとその手元を観察するようになった。 拓斗はその生き物を「ハイ」と名付けた。全身がふかふかの灰色の毛で覆われていたからだ。


二人の距離が決定的に縮まったのは、その数日後のことだった。 拓斗が石の台座で黒い実を割った際、うっかり渋みの強い端の部分を自分に近い場所に置いてしまった。するとハイが恐る恐る近づいてきて、その端切れを前足で掴み、口に運んだ。


「……それ、苦いだろ?」


拓斗が苦笑しながら、より甘くて柔らかい中心部の実を少しだけ差し出した。 ハイは一瞬躊躇したが、意を決したように拓斗の指先から直接実を受け取った。小さな口で器用に咀嚼し、満足げに鼻を鳴らす。 その瞬間、拓斗の胸の奥で、冷え切っていた何かが少しだけ温かくなった。


それからの生活は、独りきりのサバイバルではなく「二人」の共生へと変わった。 夜、焚き火を囲んでいると、最初は火を怖がっていたハイも、徐々にその温もりを理解したらしい。拓斗の足元、ちょうど火の熱が直接当たらない程度の距離で丸まって眠るようになった。


孤独な原生林。自分を殺そうとする獣か、自分を拒絶する植物しかないこの地獄で、自分以外の「脈打つ鼓動」がそばにある。その事実が、どれほど拓斗の精神を支えたか。


「なあハイ。日本にいた頃はペットなんて興味なかったんだけどな……。お前と学校にいたら、女子にモテただろうな」


拓斗は修繕中の制服の糸をいじるハイを眺めながら、ぽつりと独り言をこぼす。 ハイは拓斗の言葉がわかるかのように、耳をぴょこんと動かし、拓斗の膝に頭を預けてきた。


ハイは時に、拓斗の「師」にもなった。 拓斗が空腹に負けて、まだ見たこともない赤い実を食べようとした時のことだ。ハイが猛烈な勢いで拓斗の手に飛びつき、その実を叩き落とした。驚く拓斗の前で、ハイは近くに落ちていた腐った葉を指し示し、首を激しく振った。


「……毒、なのか? 助けてくれたのかよ」


ハイは代わりに、少し離れた場所に生えている、地味な色をしたが芳醇な香りのするキノコを掘り出してみせた。それを食べた拓斗は、その日、この原生林に来て初めて「腹が満たされる」という幸福を知った。


しかし、この異世界の神は、拓斗に永遠の安息を許しはしなかった。


その日の夕方、拓斗は少し遠くの倒木まで薪を取りに行っていた。 作業を終え、拠点の近くまで戻ってきた時――拓斗の耳に、ハイの悲痛な叫び声が届いた。


「ハイッ!?」


薪を放り出し、全力で駆け戻る。 拠点の入り口。そこで拓斗が見たのは、悪夢のような光景だった。


豹ほどの巨体に、六本の頑強な脚。体中を覆う禍々しい斑模様。 中型の捕食者――『斑の六本脚』が、拓斗のカモフラージュを食い破り、その牙をハイの細い喉元に深く突き立てていた。


「っ……ああ、あああ……っ!」


ハイの灰色の毛が、見る間に赤く染まっていく。 ハイの瞳が、戻ってきた拓斗を捉えた。助けを求めるような、あるいは「逃げろ」と伝えているような、最後の力がその瞳から消えていく。 獣は拓斗の存在に気づくと、喉を低く鳴らし、獲物を奪われまいと威嚇の声を上げた。六本の脚で地面を抉り、いつでも拓斗に飛びかかれる姿勢をとる。


これまでなら、拓斗は間違いなく背を向けて逃げ出していた。 だが、今の拓斗は動かなかった。


自分を生かしてくれた師であり、この地獄で唯一の友だった存在が、目の前でただの「肉」に変えられようとしている。 その事実が、拓斗の中で保たれていた「文明人の理性」を焼き切った。


「……返せ」


拓斗の声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。 彼は逃げるどころか、一歩、また一歩と獣に向かって踏み出す。 手には、実を割るために使い込んできた、ずっしりと重いあの「黒い石のハンマー」。


「そいつを……返せよッ!!」


拓斗の目が、獲物を狙う「戦士」のそれへと変貌する。 原生林の残酷な掟を教え込まれた男が、初めてその掟に対して、牙を剥いた。


拠点の入り口前は、切り立った岩壁と川に挟まれた、十メートルほどの幅しかない剥き出しの河原だ。 背後には鬱蒼とした森が迫り、前方には増水した川が流れている。逃げ場のないこの狭い空間が、一瞬にして殺戮の舞台へと変わった。


豹ほどの巨体を持つ『斑の六本脚』が、地を這うような低い唸りを上げた。 次の瞬間、河原の礫が爆ぜた。速すぎる。


「が、はっ……!?」


回避は間に合わなかった。獣の重い頭突きが拓斗の腹部を直撃する。 肺から空気が強制的に絞り出され、拓斗の身体は後ろの硬い岩壁まで吹き飛ばされた。背中の骨が軋む衝撃とともに、視界がチカチカと火花を散らす。


獣は逃がさない。六本の脚を波打たせ、岩壁の凹凸を掴むようにして拓斗を袋小路へ追い詰める。 拓斗は縺れる足で必死に横へ転がった。直後、さっきまで拓斗の頭があった岩肌に、獣の鋭い爪が食い込み、火花とともに石の破片が飛んだ。


「ハァッ、……ハァッ、死んでたまるか……!」


拓斗は立ち上がろうとするが、獣は止まらない。 背後には逃げ場のない垂直の岩壁、前方には荒れ狂う川。この狭い隙間で、獣の巨体は動く壁のように立ちふさがる。 獣が前脚を振り下ろす。拓斗は咄嗟に「石のハンマー」を盾のように構えたが、衝撃を殺しきれず、右肩に鋭い爪が深く食い込んだ。


「ぐああああああッ!!」


激痛。鮮血がブレザーを染める。 獣は勝利を確信したのか、さらに拓斗を岩壁に押し潰そうとのしかかってきた。 拓斗は泥と自分の血で滑る地面に膝をつき、必死に踏ん張る。顔のすぐ横で、獣の腐敗臭のする吐息が吹きかかり、剥き出しの牙が今にも首筋に届こうとしていた。


(……力が、強すぎる。勝てない……)


一瞬、心が折れかけた。 だがその時、拓斗の視界の隅に、泥にまみれた「灰色の毛」が映った。 ハイの動かなくなった身体。自分を救ってくれた、あの小さな温もり。


「舐めるなよ……。ハイの仇だ、……道連れにしてでも殺してやるッ!」


拓斗は激痛に叫びながら、自由な左手を泥の中に突っ込んだ。 そして、掴める限りの川辺の湿った泥を、獣の大きく見開かれた眼球目がけて叩きつけた。


「グゥアアアッ!?」


不意を突かれた獣が、視界を奪われてのけぞる。 その隙を拓斗は見逃さなかった。 傷ついた右腕の悲鳴を無視し、両手で無理やりハンマーを握りしめる。 足元が礫で滑るなら、それを利用した。滑り込みながら、獣の重心を支えている中脚の関節に、全身の体重を乗せた一撃を叩き込む。


――メキリッ。


嫌な手応えと共に、獣が横転した。 拓斗は休まない。這いつくばるようにして獣に覆いかぶさり、泥だらけの拳と石を交互に叩きつけた。


「返せッ! ハイを返せッ! 壊すなよ、俺の……俺の場所をッ!」


もう、技術もへったくれもなかった。 岩壁に獣を押し付け、顔面を引っ掻かれ、泥水を飲み込みながら、拓斗は獣の喉元に噛み付かんばかりの勢いでハンマーを振るい続けた。 獣が最後の抵抗として六本の脚で拓斗の脇腹を何度も引き裂くが、拓斗はそれすら痛みを感じないほどに昂っていた。


やがて、獣の痙攣が止まり、頭蓋がぐちゃぐちゃの肉塊に変わっても、拓斗は泥を浴びながら石を振り下ろし続けた。


川のせせらぎだけが聞こえるようになった時、拓斗は全身泥と返り血に染まり、息も絶え絶えにその場に倒れ込んだ。 右手は麻痺し、脇腹からは絶え間なく血が溢れている。


「……あ、……あぁ……」


勝ったのではない。 ただ、すべてを失いながら、生き残っただけだった。


獣の脈動が完全に止まっても、拓斗はしばらくの間、血と泥にまみれた拳を解くことができなかった。 荒い呼吸を繰り返すたび、裂けた脇腹が焼けるように熱い。川のせせらぎが、耳鳴りのように遠くで響いている。


「……はぁ、……はぁ、……っ」


拓斗は、泥の中に転がったままのハイの遺骸を、震える手で引き寄せた。 ふかふかだったはずの灰色の毛は、無残にも濡れ、冷たく固まり始めている。かつて拓斗の髪を毛繕いしてくれたあの小さな前足は、もう二度と動かない。


「ごめん、な……。間に合わなくて、……ごめん」


拓斗は、ハイを抱えたまま這うようにして岩壁の拠点へと戻った。 彼は、ハイと初めて実を分け合ったあの思い出の「台座の石」のすぐ隣、最も日当たりの良い場所を埋葬の地に選んだ。


右腕の激痛に顔を歪めながら、拓斗は鋭利な石を使って、地面を掘り始めた。 一掘りごとに、手に馴染んだはずの石が重く感じる。 ここは原生林だ。放置すれば、ハイの遺体は他の獣に食い荒らされるだろう。それが自然の摂理だと頭ではわかっていても、自分の孤独を埋めてくれた唯一の友が、ただの「肉」として処理されることだけは耐えられなかった。


涙が泥にまみれた頬を伝い、掘り起こした土の上に落ちる。 穴が十分に深くなったところで、拓斗はきれいに洗った巨大な葉を底に敷き、その上にハイを横たえた。 そして、大切に取っておいた「黒い実」のなかでも、一番大きくて質の良いものを一つ、その体に抱えさせた。


「これ……持っていけよ。向こうで、腹が減らないようにさ」


土をかける手は、いつまでも震えていた。 最後の一握りの土を盛り終えたとき、拓斗は河原から拾ってきた、一際黒く、平たい石をその上に立てた。 それが、この世界で初めて拓斗が作った「墓標」だった。


その日の夜、拓斗は動かなくなった獣の死体と向き合った。 憎しみは消えていなかったが、それ以上に「生き残る」という本能的な執念が彼を突き動かしていた。


「お前を……食ってやる。そうしなきゃ、俺は……」


だが、いざ解体しようとしても、何から手をつければいいのか全くわからなかった。 家庭科の授業で魚を三枚に下ろしたことすら怪しい拓斗にとって、豹ほどの巨体を持つ獣を「肉」に変える作業は、気が遠くなるほどの重労働だった。


石のハンマーでは叩き潰すことしかできず、鋭く研いだ石の破片を当てても、獣の分厚い皮は簡単には裂けない。 指先に力を込めて石を押し引きするたび、獣の体温が残る脂で手が滑り、尖った石の角が自分の指を傷つける。


「……くそっ、……切れない、全然……っ!」


拓斗は半泣きになりながら、むせ返るような血の匂いの中で格闘した。 何時間もかけてようやく皮を剥ぎ取ったが、その内側にある肉をどう切り分けるべきかもわからない。適当に石を叩き込み、力任せに肉をむしり取る。 美しさも効率も微塵もない。そこにあるのは、ただ生きるために獲物を貪る、泥臭い「獣」としての姿だけだった。


ようやく手に入れた数片の肉を、震える手で焚き火にかざす。 焦げた毛の匂いと、生臭い血の蒸気が鼻を突く。 焼けた表面を噛み切ると、口の中に広がったのは、ハイと食べたあの実のような優しさなど微塵もない、鉄の味がする強烈な「生命」の感触だった。


「……うぐっ、……げほっ……!」


あまりの野性味に吐き気がこみ上げる。だが拓斗は、涙を流しながらその肉を無理やり咀嚼し、胃へと流し込んだ。 飲み込むたびに、自分の「人間らしさ」が削り取られ、代わりにこの過酷な森に適応するための「何か」が体内に染み渡っていくような気がした。


夜が明ける頃。 拓斗の傷ついた身体は、獣の肉という糧を得て、驚異的な回復力を見せ始めていた。 彼は、新しく作った石の墓標を一度だけ振り返り、決意を口にした。


「……俺が。……俺が、お前を守れるくらいに」


その言葉を最後に、彼は二度と涙を流さなかった。 稲沢拓斗という人間は、この日、原生林という名の揺りかごの中で、本当の意味で「生まれた」のかもしれない。

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