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あがきの果てに  作者: 縁日の丸
原生林編
3/13

泥の城の開拓者

川を下り始めて数時間が経過した頃、森の色彩が急速に失われ始めた。 空は毒々しい紫を帯び、巨大な樹木たちの影が、まるで行く手を阻む怪物の腕のように長く、太く伸びてくる。


(……まずい。夜が来る)


拓斗の胸を、言いようのない焦燥が突き上げた。 昼間の原生林ですらあのような巨獣や蛇が跋扈しているのだ。光を失ったこの場所が、どれほどの地獄に変わるか想像に難くない。 拓斗は縺れる足を叱咤し、川沿いの切り立った崖の根元を必死に捜索した。木の上は蛇の通り道だ。開けた河原は論外。隠れるなら、地中か、岩の隙間しかない。


「っ、……あれだ!」


視界の隅、堆積した土砂と蔦に隠れるように、岩壁が裂けているのを見つけた。 拓斗は泥に膝をつき、這いつくばるようにしてその亀裂を覗き込んだ。入り口は人ひとりがようやく通れるほどに狭く、鋭い岩の角が制服の肩をかすめる。しかし、その奥には、手足を伸ばして横になれるほどの意外な空間が広がっていた。


「ここなら……」


彼が奥へと身体を滑り込ませると同時に、森から最後の残光が消えた。 まるで巨大なシャッターが下ろされたかのような、唐突で絶対的な闇。 直後、森の音が一変した。 昼間のような鳥の声は消え、代わりに、空気を直接震わせるような重苦しい咆哮や、何かが濡れた地面を「ベチャリ、ベチャリ」と引きずる不快な音が、闇の向こうから反響してくる。


拓斗は岩の奥で膝を抱え、小さく丸まった。 背中の岩盤は、氷のように冷たく体温を奪っていく。 入り口の狭い隙間から見えるのは、星すら見えない、塗り潰されたような漆黒。 何かが入り口のすぐ外を通り過ぎるたび、拓斗は呼吸を止め、自分の心臓の音が外まで漏れ出しているのではないかと恐怖した。


意識が遠のくたびに、闇の向こう側に「無数の目」が光ったような気がして、飛び起きる。 眠りと覚醒の境界で、彼はただ、朝という救いを求めて震え続けていた。


翌朝、裂け目から差し込む青白い光に、拓斗は重い瞼を持ち上げた。 身体の節々が石のように固まって痛む。だが、それ以上に拓斗の心を支配していたのは、薄氷のような危うい「希望」だった。


客観的に見れば、この原生林は明らかに異質だ。 路線バスほどもある巨獣、生理的な嫌悪を催す巨大な蛇。地球上のいかなる図鑑にも載っていない生態系。ここが日本であるはずがない。


だが、拓斗はここが「どこか遠くの、未知の離島か国有林」であると頑なに信じ込んでいた。そう思わなければ、孤独と恐怖で精神が瞬時に粉砕されてしまうことを、彼の本能が知っていたからだ。 「ここは日本だ。」 その誤った認識だけが、今の彼を絶望の淵で踏みとどまらせる、唯一の光だった。

外に出ると、昨夜自分を怯えさせていた「音」の正体が、ただ風に揺れる巨大な葉だったことを知る。だが、それは結果論に過ぎない。 拓斗は川の水を掬って顔を洗い、冷徹に自分の現状を分析した。


(……ダメだ。このままじゃ持たない)


今の身体と精神で、あてもなく川を下り続けるのは自殺行為だ。もし移動中にまたあの巨獣に出くわしたら、次は逃げ切れる保証はない。 まずは、ここを拠点にする。 怪我を癒し、体力を蓄え、この森の「ルール」を知る。 人里を目指すという遠い目標を一度棚上げし、拓斗はこの「穴」を自分の城に変えることを決意した。


「……今日一日は、ここを『マシ』にするためだけに使おう」


拓斗はまず、昨夜の教訓を活かし、寝床の改善に着手した。 日当たりの良い場所に生えている、撥水性の高そうな巨大な葉を何十枚も刈り取り、拠点の奥に運び込む。それらを何層にも重ね、さらにその上に乾いたシダを敷き詰めた。


「……全然、違う」


試しに横たわってみると、土の冷たさが遮断され、身体を優しく受け止めるクッションができていた。これだけで、睡眠の質は劇的に変わるはずだ。

次に、入り口のカモフラージュを施した。 近くに落ちていた枯れ枝を入り口に立てかけ、そこに周囲の蔦を絡ませる。遠目にはただの岩壁の凹凸に見えるよう、不自然さを消していく。


寝床の確保と入り口の偽装を終えた拓斗は、次に「食」の安定化へと意識を向けた。 彼は拠点を離れ、周囲を最大限に警戒しながら昨日巨獣が食事をしていた場所の周辺へと戻った。幸い、あの怪物の気配はない。拓斗は地面に転がっていた「黒い実」を三つ、泥だらけの両腕で抱えるようにして拠点へと持ち帰った。


穴の隅に実を並べ、拓斗は一つを手に取った。だが、昨日のように手近な石で闇雲に叩く気にはなれなかった。


(……毎回、あんな博打を打ってちゃ体が持たない)


昨日の強引な手法では、実が弾け飛んで無駄になるだけでなく、自分の指を砕くリスクが高すぎる。ここを「療養の場」にする以上、怪我を増やすわけにはいかないのだ。


拓斗は、手近な石をいくつか拾い集めては、実の殻に打ち付けてみた。しかし、ある石は一撃で粉々に砕け、ある石は丸みを帯びすぎていて衝撃が一点に集中せず、ただ虚しく硬質な音を響かせるだけだった。何より、土の上に実を置いて叩いても、衝撃が地面に逃げてしまい、実が泥の中にめり込むだけだった。


「……これじゃダメだ。叩く側の石も、受け止める側の石も、両方考えなきゃ……」


そこから、拓斗の孤独な試行錯誤が始まった。 彼は何度も拠点と河原を往復し、石の硬さや重さを吟味した。 石を蔦で棒に括り付けて「斧」のようなものを作ろうとしたこともあったが、天然の蔦は力を込めると無残に千切れ、石は拓斗の足元へ転げ落ちた。


「くそっ、……なんでだよ!」


苛立ちが募る。その時、ふと、あの巨獣が実を「岩の窪み」に押し込んでいた光景が脳裏をよぎった。


(固定して、垂直に、逃げ場をなくして重さを乗せるんだ)


拓斗は、まず「台座」となる石を探した。そして、巨獣が食事をしていた場所に、長年の侵食で中央が絶妙にボウル状に凹んだ、平たく重い岩石があったことを思い出した。それを拠点の入り口近く、安定した場所に据え付ける。


次に「ハンマー」だ。拠点の周辺で、自分の手のひらに収まりきらないほどの大きさがあり、底面が平らで、上部が握りやすく括れた、ずっしりと重い真っ黒な石を選び抜いた。


拓斗は、台座の窪みに実を据えた。実はまるで測ったかのようにぴたりと収まり、左右に逃げる余地はない。 彼は両手で「黒い重石」を高く掲げ、全身の体重をその一打に乗せた。


「……食わせろッ!」


――パキリッ。


今までのような「衝突」の音ではない。殻が「屈服」した音が、静かな穴の中に響いた。 石を持ち上げると、黒い実の頂点から鮮やかな亀裂が走り、中から濃厚な甘い香りが立ち上った。 拓斗の指は一本も傷ついていない。実も弾け飛んでいない。


「……やった」


拓斗は、その黒い石をそっと横に置いた。 それは、彼がこの世界で初めて自らの知恵で作り出し、手なずけた「道具」だった。 泥にまみれたその二つの石は、昨日までの「奪われるだけの存在」だった拓斗が、環境を支配し始めるための最初の一歩を象徴していた。


拠点を構えてから一週間が経つ頃、拓斗の生活には、確かな「リズム」が生まれていた。 夜明けと共に鳥の鳴き声で目覚め、まずは入り口のカモフラージュの隙間から覗いて周囲の安全を確認する。それから川へ降り、顔を洗って喉を潤す。


かつては絶望の象徴でしかなかった原生林のざわめきも、今では「危険の予兆」か「ただの日常」かを聞き分けられるようになっていた。

何より変わったのは、彼自身の肉体だった。 実の濃厚な栄養と、連日の重労働。贅肉は削げ落ち、泥を吸って真っ黒に汚れた肌の下には、以前の彼にはなかった鋭敏な筋肉が浮き上がっている。怪我も、川の冷たい水で清潔に保つことで、驚くほど早く癒えていた。


「……よし。今日はこれを直すか」


拓斗は岩棚に腰掛け、膝の上にボロボロになったブレザーを広げた。 現代日本を象徴するポリエステルの生地は、あちこちが引き裂かれ、もはや本来の形を留めていない。だが、彼はこれを捨てる気にはなれなかった。


彼は探索中に見つけた、鋭い刺を持つ植物の「トゲ」を針代わりにし、蔦を細く裂いて作った「糸」を使って、裂け目を一つひとつ丁寧に綴じ合わせ始めた。 手つきはたどたどしいが、その表情にはかつての怯えはなく、目の前の作業に没頭する静かな集中力があった。


(……ボタンもいくつか無くなってるな。今度、穴の空いた小石でも探すか)


制服を「直す」という行為は、彼にとって自分が「稲沢拓斗」という人間であり続けるための儀式だった。


「食」についても、彼は現状に満足していなかった。 あの「黒い実」は確かに栄養豊富だが、それだけでは飽きが来るし、何より身体が別の「重み」のある栄養を求めている。


「……いた」


透き通った水の中、岩の隙間に、大ぶりのハサミを持つ甲殻類――ザリガニをさらに凶悪にしたような生き物が潜んでいる。 拓斗は石を使って鋭く削り出した木の枝を手に、静かに、しかし迷いなくそれを突き出した。


――ピチャッ!


一撃。 仕留めた獲物を岩の上に上げると、それは青白い甲羅を光らせていた。

川の浅瀬で仕留めた、青白い甲羅を持つ甲殻類。 手元で跳ねるその肉は、間違いなく今の拓斗が渇望しているタンパク質の塊だった。だが、拓斗はその身を食らう前に、ふと動きを止めた。


(……これを生で食うのは、博打が過ぎるな)


かつての自分なら、空腹に負けてそのまま食らいついていたかもしれない。だが、今の彼には一晩を安全に越せる拠点があり、蓄えられた「黒い実」がある。今日この肉を食い損ねたとしても、すぐに死ぬわけではないという事実が、彼に冷静な判断力を与えていた。


「……火だ。これからは、火が必要になる」


拓斗は獲物を岩の窪みに生かしたまま、静かに立ち上がった。 かつてテレビやネットの知識で見聞きした「火おこし」を、自分の手で再現する時が来たのだ。


彼はまず、周囲を歩いて最適な材料を吟味した。湿り気を含まない硬い広葉樹の枝、そして火種となる、繊維を細かく解いた乾いたシダの葉。 黒い実を割った時の経験が、彼に「準備の重要性」を教えていた。


最初は、シンプルなきりもみ式を試した。手のひらで棒を回すたび、摩擦熱が肌を焼く。 しかし、数分経っても煙すら立たない。 拓斗は手を止め、自分の赤くなった掌をじっと見つめた。


(ただ擦るだけじゃ足りない。摩擦の「質」を変えないと……)


彼は悪態をつくことも、投げ出すこともしなかった。 次に彼は、蔦を細く裂いて紐を作り、弓きり式の装置を組み上げた。道具を作るその手つきには、どこか工作を楽しむような落ち着きさえ漂っている。

元々装置の作り方など知らなかったが、形状とどう動くのかをなんとなく把握していたため、2時間ほど試行錯誤を繰り返すことで作ることができた。

さらに、摩擦を強めるために「黒い実」の油分をわずかに軸受けに塗るという、この一週間で得た「現地の知識」を組み込んだ。


「……よし。今度はどうだ」


静かに呼吸を整え、弓を前後に動かす。 一定のリズムで、しかし力強く。 やがて、木の窪みから一筋の細い、意思を持ったような煙が立ち上った。 拓斗は動きを止めず、さらに回転を速める。黒い焦げ粉が溜まり、その中心に小さな、小さな赤い熱の粒が生まれた。


彼はそれを、用意していたシダの火種へと慎重に移した。 自分の命を分け与えるように、優しく、しかし確かな意思を持って、ふーっ、と息を吹きかける。


――ボッ!


鮮やかなオレンジ色の炎が、夕闇の迫る拠点を照らし出した。


「あ……」


パチパチと爆ぜる、心地よい音。 これまで自分を冷たく突き放していた原生林の闇が、その僅かな光によって、初めて「外」へと押し返された。

拓斗は、慈しむようにして火を育てた。 集めていた枯れ枝を足し、安定した焚き火を作り上げる。 そして、木の枝に突き刺した例の甲殻類を、炎にかざした。


じゅうじゅうと、脂の焼ける暴力的なまでに食欲をそそる音が響く。 青白かった甲羅が、熱によって鮮やかな朱色へと変わっていく。 立ち上るのは、香ばしい、懐かしい「料理」の匂い。


「……いただきます」


熱々の身を、殻を剥いて口に運ぶ。 口の中に広がったのは、プリッとした弾力と、濃厚な海老のような旨みだった。 拾い食いの泥臭さも、実の単調な甘さもない。


「う、まい…………」


思わず笑みがこぼれた。 温かい食べ物が胃を、そして張り詰めていた心を溶かしていく。 火の温もりは、夜の冷気を完全に遮断し、拠点を真の意味で「人間の居場所」へと変えていた。


火を手に入れたことで、拓斗の生活は「生存」から「文化」へと進化した。 煮沸した水、加熱した肉、そして夜を遠ざける光。


丁寧に修繕したブレザーを肩にかけ、火を囲んで食事を摂る。 泥まみれの高校生は、この夜、この世界で初めて「自分はこの世界でもやっていける」という確かな全能感を、静かに噛み締める。


拓斗は、火の粉が爆ぜる音をBGMに、最後の一口まで甲殻類の身を味わいつくした。 指についた旨みを舐めとり、温まった身体を横たえる。ふかふかの葉のベッドは、心なしか昨夜よりも柔らかく感じられた。


(明日は、もう少し下流まで足を伸ばしてみるか……)


火という強大な力を手に入れ、空腹の影を振り払った拓斗。 暗闇に映る自分の影は、もはや怯える少年のものではなく、この過酷な地で生きる一人の「開拓者」の形をしていた。


だが、この時の彼はまだ知らなかった。 この原生林の先で、彼がこれまで必死に守り続けてきた「日本」という名の細い糸を、根底から断ち切るような衝撃が待ち構えていることを。


揺らめく炎の向こう側で、異世界の夜はどこまでも静かに、そして残酷に深まっていった。

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