死を拒む渇き
拓斗は泥にまみれた膝を叩き、震えを無理やり抑え込んだ。喉の奥はすでに熱を持ち、唾液を飲み込もうとしても、乾いた粘膜が張り付いて鋭い痛みが走る。
「……あがいてやる。絶対に死んでたまるか」
自分に言い聞かせるように呟いた低音は、自分でも驚くほど重く、鋭かった。彼は耳を澄ませる。風が木々を揺らす音に混じって、どこか遠くで、微かに空気が震えるような鈍い響きを感じた。 水だ。生きるために、まずは水。 拓斗は足元の不安定な粘土質の土を掴むようにして、原生林の「下」へと、這いずるような歩みを始めた。
歩き始めてから一時間が経過した頃、拓斗の精神は限界を迎えつつあった。 「カサッ」 背後で葉が揺れる音がするたび、心臓が喉元まで跳ね上がり、思考より先に身体が泥の中へ突っ伏す。
(……いない。……来てない)
幻聴だ。風が枝を揺らしただけの音。それをあの怪物の、無数の足が地面を掻きむしる音だと脳が誤認する。何度も、何度も。泥を噛み、震える膝を叩いて立ち上がるたび、体力だけが理不尽に削り取られていった。
一度、巨大なシダの隙間にキラリと光るものが見え、「水だ!」と歓喜して駆け寄った。しかし、そこに広がっていたのは水面ではなく、ただの濡れた巨大な葉だった。
「っ、ふざけんなよ……!」
期待が大きかった分、絶望が重くのしかかる。泥だらけの拳で地面を殴りつけるが、その拳さえも今は力なく泥に沈むだけだった。
二時間が過ぎる頃には、拓斗の意識は朦朧としていた。 汗と泥を吸ったポリエステル混紡のブレザーは、今や冷たい鉛の塊のように肩に食い込み、体力を奪い続けている。スニーカーの中に入った小石が、一歩ごとに足裏を削り、痛みはやがて感覚を失わせるほどの痺れに変わっていた。
喉の渇きはもはや「痛み」を超え、呼吸をするたびに肺が火を呑んでいるような感覚に襲われる。
(もういいじゃないか。ここで寝てしまえば……)
投げやりな絶望が頭をよぎる。足が縺れ、派手に転倒した。顔面から泥に突っ込み、鼻の奥まで腐葉土の悪臭が入り込む。立ち上がる気力すら湧かない。
その時だった。 泥の中に沈めた耳に、風の音とは違う、絶え間なく続く「重い轟音」が届いた。
「……ぁ、…………あ」
視界の先、木々の切れ間に、暴力的なまでに眩しく光る帯が見えた。 喜びで声が出るのではない。枯れ果てた喉が、空気を無理やり押し出したのだ。
拓斗は一歩を踏み出そうとした。だが、極限まで酷使された膝が笑い、粘土質の土に足を取られる。踏ん張る力はもう残っていない。
「っ、うわ……!」
彼はなす術なく、斜面をズルズルと滑り落ちた。鋭い枝が制服の袖を裂き、打ち付けた肩に鈍い衝撃が走る。 泥と枯れ葉を巻き込みながら、最後には河原の湿った砂利の上に投げ出された。
打ち付けた箇所の痛みよりも、鼻先をかすめる「水の匂い」が勝った。拓斗は重い身体を引きずるようにして四つん這いになり、目の前に広がる川面へと、這いつくばったまま顔を突っ込んだ。
顔を突っ込んだ水は、驚くほど冷たかった。 泥の混じった濁った水かもしれない。だが今の拓斗にとって、それはどんな雫よりも清烈な命の源だった。
「ごふっ、ごほっ……!」
喉の奥が悲鳴を上げるのも構わず、獣のように喉を鳴らして飲み込む。焼けるようだった食道が冷やされ、ようやく自分の「生」が身体の隅々まで染み渡っていく感覚に、拓斗は川縁に伏せたまま激しく息を吐き出した。
(助かった……。生きてる、俺……)
顔を上げると、滴る水滴が視界を洗った。 太陽の光を反射して輝く川面は、恐ろしいほどに美しい。今までいた原生林の暗がりが嘘のような開放感に、拓斗の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
しかし、その安堵は一瞬だった。 川音の向こう側から、空気を直接震わせるような「異音」が届いたからだ。
ズゥゥゥン。
重い。あまりにも重い。 それは「足音」と呼ぶには、あまりに暴力的な地響きだった。 拓斗の視界の端、対岸の巨大なシダ植物が、まるで紙細工のように無造作に押し潰されるのが見えた。
(……蛇? いや、違う)
あの「カサカサ」という不快な這行音ではない。もっと巨大な、圧倒的な質量の塊が移動している音だ。 拓斗の全身の毛穴が、再び逆立った。逃げろ、と本能が叫ぶ。だが、開けた川原に逃げ場はない。
ズゥゥゥン。
音が近くなる。 川縁の泥が、その衝撃で小さく跳ねる。 拓斗は反射的に、近くにあった巨大な倒木と、増水時に削られたであろう泥の窪みへと、音を立てないように身体を滑り込ませた。
泥の中に顔を半分埋め、腐葉土の臭いに鼻を突っ込みながら、拓斗は意識して呼吸を殺した。 倒木の隙間から覗く視界。そこへ、ついに「それ」が姿を現した。
泥を跳ね上げ、水辺に踏み出してきたのは、 大型の路線バスほどもある異様な巨躯を誇り、黒い岩のような鱗と剛毛に覆われた怪質だった。クマやゴリラに似た外見をしている。 その前足が地面を掴むたび、川縁の石が「ミシミシ」と砕ける音が響く。
(……なんだよ、あれ……)
巨獣が水を飲むために首を下げた瞬間、拓斗の隠れている場所からわずか数メートルの距離で、地響きのような鼻息が放たれた。
拓斗の存在など塵ほども気にかけていない。ただ、そこに在るだけで周囲の地形を書き換えてしまうような、自然そのものが意思を持ったかのような圧倒的な威圧感だ。
水を飲み終えた巨獣が顔を上げると、その顎から滴る水が、滝のように川面を叩いた。
(……勝てるわけがない。人間が挑んでいい相手じゃない)
巨獣が、水辺に転がっていた黒い実を、太い前足で無造作に引き寄せた。 それはラグビーボールほどの大きさがあり、表面は重々しい光沢を放っている。木の実というよりは「砲弾」に近い硬度を予感させた。
だが、巨獣はその実を、人間が「一粒のナッツ」を指先でつまむかのように、巨大な口へ放り込んだ。
――ガリィッ、メキッ!
静かな河原に、硬質な殻が徹底的に粉砕される、暴力的で生々しい音が響き渡る。 拓斗の背筋に、冷たい震えが走った。 それは食欲を満たすための音というより、巨大なプレス機が何かを押し潰す音に近かった。
(……あんなの、まともに食えるもんじゃないだろ)
拓斗の常識が、目の前の光景を拒絶する。 だが巨獣は、その頑強な顎を力強く動かし、火花でも散りそうな音を立てて殻を噛み砕いていく。 もし自分の頭があの顎の中にあったなら。実の殻と同じように、何の抵抗もなく、一瞬で、挽き肉と骨の破片に変わるだろう。その光景が、見たくもないのに脳裏に鮮明に浮かび上がる。
巨獣は数回咀嚼すると、粉々になった殻の破片を、無造作に地面へ吐き捨てた。 そこには、泥に混じって白濁した果肉の断片と、滴る濃厚な果汁が散らばっている。 巨獣がそれを前足で泥ごと掬い取り、満足げに喉を鳴らした時、拓斗は恐怖のあまり、奥歯を噛み締めて音を殺していた。
巨獣が重い地響きを響かせながら森の奥へと消えていき、その振動が完全に止むまで、拓斗は指一本動かせなかった。 ただ、心臓の音だけがうるさく耳元で跳ね続けている。
(……行ったか?)
ゆっくりと頭を上げ、倒木の隙間から河原を覗く。 そこには、さっきまで「日常」を蹂躙していた圧倒的な存在はもういない。ただ、巨獣が踏みしめた跡の岩盤が砕け、湿った泥に巨大なクレーターのような足跡が残されているだけだった。
拓斗は這い出した。全身の筋肉が強張っており、立ち上がろうとすると膝が笑って崩れ落ちそうになる。 だが、今の彼を突き動かしているのは、恐怖よりも強烈な「飢え」だった。
水を飲み、胃が動き出したことで、これまで麻痺していた空腹感が、鋭いナイフのように内側から胃壁を削り始めている。
拓斗は、巨獣が食事をしていた場所まで、這いつくばるようにして近づいた。 そこには、砕かれた黒い実の殻が、鋭い破片となって散らばっている。
鼻を突くのは、巨獣が残していった強烈な獣の臭いと、それとは対照的な、どこか官能的なほどに甘ったるい果汁の匂いだ。
「……っ」
拓斗は、泥にまみれた殻の破片を一つ、手に取った。 鋭い破片の裏側には、巨獣が食べ残した白濁した果肉が、わずかにこびりついている。 そこには巨獣の粘り気のある唾液が付着し、周囲の泥も混じり込んでいる。
数時間前の彼なら、吐き気を催して投げ捨てていただろう。 だが、今の拓斗は、その汚れた残骸を狂おしいほど愛おしく見つめていた。
(……毒じゃない。あいつが食ってたんだ。これは、食い物だ)
彼は自分に言い聞かせるように、震える指で泥ごと果肉をこそぎ落とした。 そして、それを一気に口の中へ放り込んだ。
「……!」
ザラついた泥の感触。獣の体臭が鼻に抜ける。 だが、その奥から溢れ出したのは、これまでの人生で味わったことのないほど濃厚で、暴力的なまでの甘みだった。 熱を持った喉を、冷たい果肉が滑り落ちていく。
「あ……、あぁ……」
拓斗は無意識に、二つ目、三つ目の破片に手を伸ばしていた。 泥を払い落とす余裕すらない。化け物の食い残しを、泥まみれの地面から拾い上げ、貪り食う。 その姿に、現代日本の高校生としての面影は微塵もなかった。
少しだけ胃に物が入ったことで、拓斗の脳に冷徹な思考が戻ってきた。 辺りを見渡すと、巨獣が割った殻の山のすぐそばに、まだ一つだけ、傷ひとつない「黒い実」が転がっている。
(……あれを、まるごと食えれば)
拾い食いだけでは、この先一時間動くための体力すら心許ない。 拓斗は這い寄り、そのラグビーボールほどの実を両手で抱え上げた。 ずっしりと重い。まるで、中身の詰まった砲弾を抱えているようだ。
「……ふっ、…………らあぁっ!」
彼は立ち上がり、渾身の力でその実を近くの巨岩に叩きつけた。 乾いた硬質な音が河原に響く。 だが、実は岩の上を跳ね返っただけで、傷一つ付いていなかった。
拓斗は息を切らしながら、跳ねた実を見つめる。 さっき、あの巨獣は、これを「一粒のナッツ」のように噛み砕いていた。 自分の全力の投擲が、巨獣の「一噛み」にすら及ばない。
「……ふざけんな。食わせろよ、クソが……!」
彼は再び実を拾い上げ、今度は河原にある尖った石を手に取った。 爪が剥がれ、指先から血が泥に混じるのも構わず、彼はその「黒い壁」に挑み始めた。
拓斗は荒い息を吐きながら、無傷の「黒い実」を凝視した。 ただ叩きつけるだけでは無駄だ。自分の非力さは、先ほどの巨獣の圧倒的な暴力を見せつけられたことで嫌というほど理解させられた。
(あいつはどうやって割った……?)
脳裏に、巨獣が実を扱っていた細かな動きを呼び起こす。 巨獣はただ噛んだのではない。実を口に運ぶ前、前足で実を転がし、川縁にある「特定の岩の窪み」にそれを押し込んで固定していた。
拓斗は、巨獣が食事をしていた場所に這い寄った。そこには、長年の水流と、あの巨獣の重圧によって削り取られたであろう、ボウル状の深い窪みのある巨岩があった。
「ここか……」
拓斗は震える手で実を持ち上げ、その窪みに慎重に置いた。実は窪みにぴったりはまり、固定された。 次に、両手で抱えるのが精一杯なほどの、尖った大きな石を拾い上げる。 全身の筋肉が悲鳴を上げている。空腹で視界がチカチカと明滅し、酸欠で心臓が喉元を叩く。
「……っ、う、おおぉぉぉぉ!!」
拓斗は、自分の体重のすべてを乗せるようにして、拾い上げた石を実の頂点へと叩きつけた。
――ゴンッ!
鈍い衝撃が腕を突き抜け、肩の関節が外れそうな激痛が走る。 だが、実は割れない。 二度、三度。石を振り上げるたびに、制服のシャツが汗と泥で肌に張り付き、剥き出しの腕には跳ねた泥と石の粉がこびりついていく。
「食わせろ……、食わせろよ……ッ!!」
もはや言葉にならない叫び。 十数回目。石を持つ手の感覚が消え、視界が真っ赤に染まりかけたその時。
――パキリ、と。
硬質な黒い殻に、細い、だが確かな亀裂が走った。
そこからは、獣のような執念だった。 拓斗は亀裂に指を突っ込み、力任せに殻をこじ開けた。 ミシミシと音を立てて殻が割れ、中から白濁した果肉が姿を現す。
巨獣が吐き捨てた残骸ではない。自分が、自分の力でこじ開けた、純粋な「命の対価」だ。
「……っ、あ」
拓斗は、溢れ出す果汁をこぼさないよう、割れた実に顔を押し付けた。 拾い食いの時には感じなかった、鮮烈な香りが鼻腔を抜ける。 彼は夢中で果肉を貪った。 噛み締めるたびに、濃厚な脂肪分と糖分が、乾ききった細胞の一つひとつに浸透していく。それは単なる「食事」という行為を超えた、生命の再起動だった。
泥まみれの顔。引き裂かれた制服。血の滲む指先。 川の音だけが響く静寂の中で、拓斗はただ、貪り続けた。 一滴の果汁も残さないよう、殻の内側を指で拭い、それを舐めとる。
完食したとき、拓斗の瞳からは、最初にこの世界に放り出された時の怯えが消えていた。 代わりに宿ったのは、この過酷な世界の「仕組み」を理解し、泥を啜ってでも生き残るという、冷徹なまでの生存本能だった。
拓斗は立ち上がった。 腹の中が温かい。エネルギーが全身を巡り、震えていた膝に力が戻っている。 彼は足元に転がる、空になった黒い実の殻を見下ろした。
「……ごちそうさま、だ。クソ怪物」
皮肉な笑みが、汚れきった顔にわずかに浮かぶ。 ふと、肩に食い込むブレザーの重みを感じた。汗と泥を吸い、ひどい臭いを放っている。安っぽいポリエステルの生地はあちこちが裂け、もはや本来の形を留めていない。
(……脱いで捨てちまえば、楽なんだろうけどな)
一瞬、指がボタンに触れた。だが、彼はそれを思い留まった。 これを捨ててしまえば、自分は本当にただの「迷い犬」になってしまう。この薄汚れた制服だけが、自分が日本の高校生であることを証明する唯一の証拠だった。
(まだ、戻れるはずだ。川を下っていけば、キャンプ場か、ダムか……少なくとも、人がいる場所に繋がってるはずだ。)
自分に言い聞かせるように、拓斗は泥まみれの袖で顔を拭った。 彼は川の流れを見つめる。 水があり、食料の確保の仕方も(最低最悪な方法だが)分かった。
今の彼は、死を待つ獲物ではない。 ボロボロの制服を鎧のように纏い直し、拓斗は川の流れと同じ方向へ、一歩ずつ踏み出した。




