楔と証
『私は西暦2023年、日本の東京からこの地へ辿り着いた。
まず、これを読んでいるお前。 決して、この本の内容をこいつらに教えるな。 こいつらは我々の知識を吸い尽くし、乾いた雑巾のように使い捨てる。 この本は、お前が誰にも支配されず、この世界で対等に生き抜くための唯一の武器だ。
すまない。印象に残すためあえて強い言葉を使ったが、それほど大切なことなんだ。
さて、この本に関することで4つのルールを決めさせてもらう。これは情報を正確に伝えるのと同時に、君を守るためのルールだ。
1.この本の具体的な内容をこの世界の住人に話さないこと
2.この本に追記する際は、いつ追記したのかアヴァロン王国の王国歴を使って示すこと
3.この本をほかの人に渡さないこと
4.自分以外が書いた文章を変更しないこと
これだけは絶対に守ってほしい。
この本には、この世界についての情報を書くつもりだ。この本を見れば、この世界で生きていくための最低限の知識は得られるだろう。
私は王国歴16年現在の情報を書けるだけ書いておく。
まずは国だ。この世界には現在国が一つしかない。名をアヴァロン王国。11個の村の村長達と、私が協力して築いた国だ。一番規模の大きい村の村長を王、その他10人を貴族とした国だ。周辺の村を武力で抑え込み、今なお勢力を拡大しつつある。
政治体制は封建的権力分散制になった。最初に共通する最低限の法をきめた。あとはそれぞれの領地で、独自の法や税率を決めるんだが、まだ土台が整っておらず、そこまで手が回っていない。増え続ける国民のための農地の開拓や街づくりをするので精一杯だ。これより詳しいアヴァロン王国の情報は、君自身で確かめるか、追記に期待してくれ。
次に精霊についてだ。この世界には地球にはいなかった精霊と呼ばれる生物が存在している。精霊は目に見えない。目に見えないほど小さいのか、特殊な力で見えなくなっているのかはわからない。そして、どうやら精霊には種類があるようだ。種類はどのような力を使うのかによって分けられている。例えば、火や水、風を操るものや、身体能力を上げるもの、破ることのできない契約を作るものなどだ。
その力を借りる方法がある。それには触媒が必要だ。まず、使いたい力を声に出す。すると、その力を実現できる精霊が呼び出される。そして、その力に見合った触媒を精霊に捧げる。これだけだ。だが失敗するときもある。呪文を間違えてしまったりなど様々な原因があるが、最悪なのは触媒が足りない場合だ。その場合、力を行使する際、足りない触媒を使用者の体で代用される。代用されるものは、腕、下半身、上半身だ。腕で足りなければ下半身、それでも足りないなら上半身と、どんどん体を持っていかれる。上半身まで代用されてそれでも足りない場合は、力は発動せず、触媒は返却されない。そのため、触媒の量には十分注意してくれ。
そんな精霊だが、種類によって触媒の好き嫌いがあるらしい。例えば、こぶしほどの火と水を作ろうとしたとき、火が薪の束1つに対して水は薪の束が5つ必要になる。逆に葉なら、火はバケツ3杯ほど必要だが、水はバケツ1杯で足りる。だが例外もある。特定の触媒じゃないと力を貸してくれない精霊だ。例えば契約の精霊。あの精霊は「誓約の涙」と呼ばれる鉱石以外の触媒では力を貸してくれない。まだほかの触媒が発見されていないだけかもしれないが、現在は「誓約の涙」だけだ。王国でも、精霊の好き嫌いを把握するために研究を始めている。効率のいい触媒を見つけられたら、開拓も街づくりも一気に進むからだ。
これまでは、精霊についての基本的な知識について書いてきたが、精霊に関して、私には特殊な能力がある。この世界の記録にもこのような能力は残っていなかった。もしかしたら日本人全員が持っている能力かもしれない。もし私だけの能力なら申し訳ないが、一度君も確かめてほしい。
その能力は、精霊と会話することができるという能力だ。通常、人間には精霊の声が聞こえない。そのためこの世界の住人は、触媒を大量に用意してから力を借りたり、使った力と必要な触媒の量を記録に残して、失敗による事故を防いでいる。だが、私は違った。力を使うとき以外でも精霊を呼び出し、触媒の量などを質問することができたし、他愛のない会話をすることもできた。その中で、精霊に触媒なしで力を借りられるか聞いてみたが、それは不可能だと言われた。精霊も力を使うのには相応のエネルギーが必要なため、それを触媒でカバーしなければ、体を維持するエネルギーがなくなってしまい、消滅してしまうらしい。精霊を呼び出すのは簡単だ。「精霊、いるか?」とか「精霊さん、いますか?」とか口調は何でもいいが、とにかくそんなニュアンスで問いかけてみろ。精霊と会話できるなら、すぐに答えが返ってくるはずだ。
ただし、精霊が存在しない場所もある。それが後で説明する古神の檻だ。あそこでは何度精霊に呼びかけても返事は返ってこないし、触媒を用意しても精霊の力を借りることはできない。これは、精霊に質問して判明した事で、実際に私が檻に行った時も、精霊から返事が返ってこなかった。
古神の檻を説明する前に知っておいてほしいのが魔物だ。魔物とは言っても、魔法のような力を使ってくるわけではない。単に日本人から見ると異形に見える獰猛な野生動物だ。魔物は基本的に肉食か雑食だ。身体能力は地球の生物よりも平均的に高く、カラスほどの知性を持つ者もいるが、柵や壁などを設置すれば、基本的に安全。もし侵入されても、その街や村に自警団や兵士がいれば、十分対処できる。だが、ひとたび集落から出れば話は違う。魔物はこの世界のどこにでもいる。いつ襲ってくるかもわからない。単体なら対処可能でも、群れで行動していたり、戦闘中に、別の魔物が襲ってくることもある。それを乗り越えられる戦闘能力がない限りは集落からは出ない方がいいだろう。
それでは、ここから古神の檻についての説明しよう。とはいっても、現状ほとんどわかっていることはない。わかっていることは、古神の檻にしばらく滞在すると、正気を失い、やがて魔物のようになってしまうこと、精霊の力を使うことができないこと、檻の外に比べて明らかに魔物が強いこと。そして、恐ろしく広いこと。これだけだ。具体的な広さまでは判明していない。正気を失うまでは人によって長さが違うが、できるだけあそこには近づかないことをお勧めする。
だが、いいこともある。檻の魔物が怖いのか、檻周辺には、魔物が圧倒的に少ない。それに檻の魔物は50年に一度外に出てくるかこないかレベルなので、この世界では檻の周辺が最も安全だ。とはいえ、檻から出てくる魔物はかなり強力なものが多いため、出てくるたびに周辺の村は壊滅しているらしい。結局この世界には完全に安全な場所など存在しない。
そして、もう知っているとは思うが、私からの願いとして王国の王族貴族とは契約を交わした。契約の内容も分かっていることだろう。だが、私が死ぬと、私の承諾なしで契約を破棄したり改ざんしたりすることができてしまう。そこで、王族貴族に「誓約の涙」を全て消費させることにした。もちろん、私もこの契約を永続させるために、「誓約の涙」を大量に消費したがな。もしこれを読む人間がいたとしたら、私の計画が成功したということだろう。
それと、私はこの世界に飛ばされてから一週間ほどで人と会ったのだが、なぜか相手の言っていることが分かったし、私の言葉も通じた。それに、文字も読めた。私が何の意識もせずに書いた日本語はこの世界の言葉に見えるらしいが、日本語で書こうと意識したら異世界人には読めなかったので、意識すると日本語で書けると思われる。もし、君も私と同じような経験をしているなら、この現象の原因を探ってほしい。
これまで書いた情報を活用して、君が生き残れることを願っている。
林 美香』
拓斗は、美香の署名の前で指を止めた。
「……林、美香」
その名前を呟くと、数千年の時が凝縮されて喉の奥に詰まるような感覚がした。 彼女がいた2023年から、今の2025年まで、地球ではわずか2年の月日しか流れていない。しかし、彼女はこの世界で一から国を築き、精霊と交渉し、そして何より――後の世に現れるかもわからない「同胞」のために、途方もない罠を仕掛けていた。
(ボレアスは言っていた。先祖たちが触媒を使い果たしたんだって。……でも、違う。彼女がわざと使わせたんだ。後の日本人が誰にも支配されないように、契約を『破棄不能』にするために)
拓斗は背筋に冷たいものが走るのを感じた。 ボレアスたちは数千年の間、自分たちの不手際で触媒を失ったと信じ込み、自分たちを縛る「呪い」に怯えてきた。だがその実態は、一人の日本人女性による、未来の同胞を守るための徹底した「防衛システム」だったのだ。
「凄いな……」
独りごちた声が、静かな部屋に響く。 彼女が抱えていたであろう孤独。11個の村を村長とともに村人を束ね、異世界で、たった一人で「日本人が死ぬまで守られる世界」を作り上げた執念。拓斗の胸に、感謝とはまた違う、熱い敬意のようなものが込み上げてきた。
拓斗はゴクリと唾を飲み込み、周囲を見回した。豪華な家具、揺れる蝋燭の火。目に見える範囲には誰もいない。 拓斗は小さく、震える声で空中に向かって問いかけた。
「……精霊、いるか?」
反応はない。やはり自分にはそんな力はないのかと落胆が広がりかけたその時――。
『――いるよ。そんなに怯えなくていいのに。キミ、変な声だね』
「っ!?」
頭の中に直接響くような、性別不明の透き通った声。 拓斗は思わず椅子から転げ落ちそうになった。耳で聞いているのではない、脳の芯を直接指先でなぞられたような、奇妙な感覚。
「だ、誰だ……どこにいる?」
『どこにでも。キミが呼んだから、ボクはここにいる。キミ、林の女と同じ“匂い”がするね。懐かしいなぁ』
拓斗の心臓が激しく鐘を打つ。本物だ。本当に精霊の声が聞こえる。 拓斗は動揺を抑え込み、本に書かれていた「精霊の種類」を思い出しながら、慎重に問いを重ねた。
「……あんたは、何の精霊なんだ?」
『ボク? ボクは「契約」を司る精霊だよ。林の女があの強欲な奴らと結んだ、あの長ったらしい誓約……それをずっとボクが監視しているんだ。ボレアスとかいう男が心臓を痛めていたのも、ボクがキミへの敵意を読み取って、契約通りに“警告”したからだよ』
「……ずっと、見守っていたのか?」
『見守るっていうか、仕事だからね。あの女は凄かったよ。「誓約の涙」を山ほど積んで、ボクが消滅しないためのエネルギーを前払いしていったんだ。ボクが消えない限り、あの契約は絶対に解けない。ボクはただ、そのプログラムを回し続けているだけさ』
淡々とした、しかし無邪気な声。 ボレアスたちにとって死の恐怖でしかない呪いの正体は、林美香によって給料を前払いされた、忠実な精霊の「仕事」だったのだ。
「分かった。……もういい、一度戻ってくれ。また呼びたくなったら呼ぶから」
『いいよ。じゃあね、新しい“王様”』
ふっ、と脳裏を撫でるような感触が消える。 拓斗はぐったりと背もたれに体を預けた。自分には、この世界の住人が一生かかっても手に入れられない、精霊との「直接対話」というカードが与えられていた。それも、自分を守るシステムの管理者そのものと話ができるという、圧倒的なカードが。
拓斗は興奮を抑え、もう一つだけ確認すべきことを思い出した。美香の時代から、一体どれだけの時間が経ったのかだ。
拓斗は部屋の呼び鈴を鳴らした。すぐさま扉が開き、ヴィクトールが姿を現す。
「タクト様、何かご入用でしょうか」
「……一つ、聞きたい。今は、王国歴でいうと何年なんだ?」
ヴィクトールは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに背筋を伸ばして答えた。
「アヴァロン王国歴、6984年です。それが何か?」
(6984年……)
美香が書いたのは王国歴16年。 つまり、彼女がこの手記の最初の一ページを綴ってから、この世界では6968年もの月日が流れている。
地球での2年間が、この世界では7000年近い歳月。 想像を絶する時の歪みに、拓斗は眩暈を覚えた。自分の知っている日本は、この世界の住人にとっては神話すら風化した、宇宙の彼方の出来事なのだ。
「……いや、いいんだ。ありがとう」
ヴィクトールを下がらせると、拓斗は再び写本に向き直った。 林美香から始まった情報の地層。その追記には、一体何が記されているのか。
拓斗は、重厚な紙をめくった。
『追記、これは王国歴1621年現在の情報だ。』
そこには、美香の理知的な文字とは異なる、荒々しく、どこか疲れをにじませた別の日本人の筆致が刻まれていた。




