招かれざる暴君
「……内容を、教えることはできない、だと?」
ボレアスの声は、地を這うような低音だった。密室となった執務室に、鋭い緊張が走る。 彼の額には青筋が浮かび、その手は机の端を白くなるほど強く握りしめていた。数千年の間、ガレリア家が、そして王国の貴族たちが渇望し続けてきた「答え」が、今、目の前の少年の腕の中にある。それを「教えない」と一蹴された屈辱と焦燥は、常人であれば理性を失うに十分なものだった。
ボレアスが、威圧するように拓斗へ一歩踏み出す。 その瞬間だった。
「っ……!」
ボレアスが胸を押さえ、苦悶に顔を歪めてよろめいた。 拓斗は息を呑んでそれを見つめる。ボレアスの顔色はみるみる土気色に変わり、激しい動悸に襲われているようだった。
(これが……契約の力か)
拓斗は、先ほどボレアス自身が説明した「誓約」の重みを目の当たりにしていた。「日本人を害してはならない、尊厳を損なってはならない」という掟。ボレアスが拓斗に対して抱いた剥き出しの「敵意」や「支配欲」に、この世界の理そのものが反応し、彼の心臓を締め上げたのだ。
「……ハァ、ハァ……。くそ、忌々しい先祖どもの、呪いめ……」
ボレアスは荒い呼吸を整えながら、椅子に深く沈み込んだ。その瞳には、先ほどまでの傲慢な支配者の面影はなく、ただ、逃れられない運命に縛られた囚人のような悲哀が漂っていた。
拓斗は抱きしめた本に力を込め、努めて冷静な声を出した。
「……あなたを信じないわけじゃありません。ガレリア辺境伯。でも、この本は俺の国の先人が、俺たちだけに遺したものです。勝手に見せることはできません。内容を明かすかどうかは、私が中身を全て読み、自分で判断させていただきます。いいですね?」
ボレアスは力なく笑った。自嘲に満ちた、乾いた笑いだった。
「……判断、か。タクト殿、君は勘違いをしている。私に、君を拒む権利など最初からないのだ。かつて、精霊との誓約を調整し、維持することができた希少触媒——『誓約の涙』は、数千年前の先祖たちが贅沢と政争のために使い果たした。今やこの契約は、誰にも書き換えられぬ、ただ牙を剥くだけの『自動的な法』だ」
ボレアスは、天井を仰ぎ見た。
「我々が君を厚遇し、望むものを与えるのは、慈悲ではない。そうしなければ、明日には我が一族の心臓が止まるからだ。君の要求を拒めば、私が死ぬ。君を無理やり従わせようとすれば、やはり私が死ぬ。……君は、我らの王なのだよ。この呪われた契約がある限りはな」
その言葉は、拓斗の胸に複雑な棘を刺した。
「分かりました。それと、この本の内容を見るためのお願いがあります。」
拓斗は一歩も引かずに告げた。
「私に、一人になれる場所をください。誰の目も、誰の監視もない、私だけの部屋を。それから、この本の内容を無理に聞き出そうとしないでください。俺が準備できるまで」
ボレアスは、しばらくの間、目を閉じて沈黙していた。やがて彼は、重い溜息とともに目を開けた。
「……分かった。君の『お願い』を全て受け入れよう。君を、我がガレリア家が守護すべき『最上位の賓客』として遇することを約束する。ヴィクトールにも、君の意志を尊重するよう命じておこう。」
ボレアスは、どこか遠くを見るような目で拓斗を見つめた。
「だが、忘れないでくれ。我ら一族の繁栄は、君のその小さな腕に抱かれた『言葉』に懸かっているということを。君がそれをどう使うか、それが我らの救いになるか、絶望になるか……決めるのは君だ」
その言葉を聞いた時、拓斗は本を抱える腕に、ずしりとした責任の重さを感じていた。
「…ありがとうございます。」
ボレアスが重い足取りで扉へ歩み寄り、鉄の閂を静かに外した。開かれた扉の向こうには、剣の柄に手をかけたまま石像のように立ち尽くすヴィクトールと、数人の武装した騎士たちが控えていた。
彼らの顔には、密室から漏れ聞こえる緊張感に対する隠しきれない不安が刻まれていた。ボレアスは一歩前に出ると、かつての威厳を取り戻した厳しい声で宣言した。
「ヴィクトール、並びに諸君。これよりタクト殿を、我がガレリア家が全力で守護すべき『最上位の賓客』とする。彼に無礼を働くことは、この私への反逆、ひいては王国への不忠と心得よ」
騎士たちが一斉にざわめいたが、ボレアスの眼光がそれを一瞬で静める。
「また、タクト殿に与える私室には、本人の許可なく何人たりとも立ち入りを禁ずる。例え私であってもだ。……ヴィクトール、東塔の最上階、かつて貴顕を招いた際に使った客室へ案内しろ」
「……はっ! 承知いたしました」
ヴィクトールが膝をつき、深い敬礼を捧げる。その視線が拓斗に向けられた。 つい数時間前まで、彼は拓斗を「どこか放っておけない、珍しい迷子」として見ていたはずだった。だが今、その瞳に宿っているのは、得体の知れない神聖な存在に対する「畏怖」に近い色だった。
「タクト……様。こちらへ。お荷物をお持ちしましょう」
ヴィクトールが自然な動作で、拓斗が抱える写本へ手を伸ばそうとした。その瞬間、拓斗は反射的に身を引き、本を強く抱きしめ直した。
「あ……いいえ、これは、自分で持ちます」
その拒絶に、ヴィクトールは打たれたように動きを止めた。彼は即座に頭を下げ、差し出した手を静かに引いた。
「失礼いたしました。……大切なお品なのですね。では、ご案内いたします」
「殿」から「様」へ。 ボレアスが「契約」を盾に宣言した瞬間、拓斗を取り巻く世界は劇的に変貌していた。豪華な絨毯が敷かれた廊下を進む間、行き交う使用人や兵士たちは、拓斗の姿を見るなり壁際に寄り、深く頭を下げて通り過ぎるのを待った。
案内されたのは、ガレリア城の中でも最も見晴らしの良い一角にある、広大な客室だった。 高い天井には精緻な彫刻が施され、窓からは夕日に染まる要塞都市が一望できる。寝室の隣には、重厚な本棚を備えた書斎まで用意されていた。
「これより、この一帯はタクト様のお部屋となります。御用があれば、扉の外に控える者に何なりとお申し付けください」
ヴィクトールは恭しく一礼すると、扉の鍵を拓斗に手渡し、静かに部屋を去った。
カチリ、という乾いた音がして、拓斗は内側から鍵をかけた。 その瞬間、張り詰めていた緊張が弾け、拓斗はその場に膝をついた。
(……やっと、一人になれた)
肺に溜まっていた熱い空気を吐き出す。 窓から差し込む夕日は美しく、ベッドは見たこともないほどふかふかだ。だが、この贅沢な空間の全てが、ボレアスという男とその一族の心臓を「契約」という目に見えない鎖で縛り上げた対価であることを、拓斗は痛いほど自覚していた。
拓斗はヴィクトールが用意していった新しい衣類に袖を通した。 それは肌触りの良い上質な絹のシャツと、丁寧に仕立てられたズボンだった。鏡に映る自分は、数日前まで「檻」の瘴気の中で泥にまみれていた少年とは別人のように小綺麗だ。
だが、身なりを整えれば整えるほど、胸の奥に澱のような苦しみが溜まっていく。
(……俺は、何てことをしたんだ)
洗面台に張られた清浄な水で顔を洗う。その水すらも、誰かが拓斗のために運び、用意したものだ。 ボレアスが心臓を押さえて苦悶していた姿が、脳裏に焼き付いて離れない。彼は、拓斗に敵意を持っただけで、命を奪われそうになったのだ。
この豪華な部屋も、柔らかな服も、美味しい食事も。 その全てが、ボレアスの一族の首にかけられた死の鎖から供給されている。拓斗が「あれが欲しい」と言えば、彼らは死の恐怖に震えながら、何としてでもそれを差し出すだろう。
自分には得しかなく、相手には損しかない、一方的な搾取。 「同胞を害してはならない」という先人の誓約は、確かに拓斗を救った。けれどそれは同時に、拓斗という存在を、この世界の人々にとっての「生殺与奪の権を握る暴君」に変えてしまったのではないか。
(俺はただ、生きたかっただけなのに……)
拓斗はバルコニーへ出て、眼下に広がる街を見下ろした。 夕暮れの街には灯りがともり、人々が家路を急いでいる。そこにはそれぞれの生活があり、家族がいる。もし自分が気まぐれを起こしたり、誰かに利用されたりして、ボレアスとの関係をこじらせれば、あの人々を治める領主の一族が絶え、街は混乱に陥るかもしれない。
自分を「タクト様」と呼ぶヴィクトールの怯えたような目。 ボレアスの、誇りを踏みにじられたような自嘲の笑い。
「……こんなの、ちっとも嬉しくない」
拓斗は、自分の手が汚れているような感覚に襲われ、強く拳を握りしめた。 自分に親切にしてくれた人たちの命を、意図せずとも「脅迫」の道具にしてしまっている。その事実が、ふかふかの絨毯を歩く足取りを重くさせた。
しかし、だからといって今さら「本の内容を全部教えるから許してくれ」と言うわけにもいかない。それは先人の警告を無視し、自分自身の唯一の安全装置を捨てる行為だ。
この世界で生き残るための「武器」は、他人を苦しめることでしか維持できない。 その残酷なパラドックスに、拓斗は孤独な部屋で一人、押し潰されそうになっていた。
部屋に夕食が運ばれてきた。それは「檻」で口にしていた干し肉や黒い実とは比較にならない、白パンに香草を添えた肉料理、そして冷えた果実水という贅沢なものだった。
しかし、それを運んできた三人の給仕たちの様子が、拓斗には異様に映った。彼らは床を這うような低い姿勢で、拓斗と一度も目を合わせようとしない。皿を置く手は目に見えて震えており、銀の食器が微かに触れ合う音が、静かな部屋にカチカチと寒々しく響いた。
「……あの、そんなに怯えなくても」
拓斗がたまらず声をかけると、彼らは弾かれたように頭を下げ、逃げるように部屋から退出していった。
入れ替わりに入ってきたのは、ヴィクトールだった。彼はいつも通りの鉄のような無表情を保っていたが、その立ち振る舞いは以前よりもさらに硬く、機械的なものになっていた。
「タクト様。お召し上がりになる前に、失礼いたします」
ヴィクトールはそう言うと、小さな銀の匙を手に取り、拓斗の前に並んだすべての料理を一口ずつ口に運んだ。
「毒見、ですか?」
「はい。契約の精霊は、我々が意図せずとも『結果として日本人を害した』事実を容赦なく認識します。食材の鮮度、調理の不手際……それら全てが、ガレリア家の滅亡に直結する。これはあなたの身を案じているというより、我らが生きていくための義務です」
淡々とした、しかし冷徹な説明だった。 ヴィクトールにとっての拓斗は、もはや「保護すべき子供」ですらない。自分の、そして一族全員の命をいつでも誤作動で爆発させかねない「不発弾」のような存在なのだ。
毒見を終えたヴィクトールは、一歩下がって深く頭を下げた。
「何も問題ございません。どうぞ、ご安心してお召し上がりを。私は扉の外に控えております」
以前、馬車の中で自分を「監視対象」として厳しく見ていた時の方が、まだ人間同士としての距離感があったように思えた。今のヴィクトールの慇懃な態度は、ただただ拓斗を孤立させ、彼を「人間」ではない「神聖な象徴」として棚に上げようとしていた。
ヴィクトールが部屋を出て、扉が閉まる。 一人残された拓斗は、湯気の立つ贅沢な料理を前にして、フォークを持ったまま動けなかった。
(……味なんて、しないよ)
自分が生きて、この豪華な食事を一口飲み込むたびに、この館にいる人々の「安堵」が聞こえるような気がする。彼らは拓斗が健やかであることを願っているのではなく、拓斗によって自分たちが殺されないことを願っているだけなのだ。
拓斗は無理やり肉を一口飲み込んだが、喉に石でも詰まったかのように苦い。 この黄金の檻の中で、自分を唯一「人間」として扱ってくれるものは、もうここには存在しない。
(わかってる。使用人たちからすると、俺はこの家に立場を利用して居座っている暴君だ。それも、領主一族の命を人質にとっている最上級のな。)
分かってはいても、人から拒絶されるというのは、どうしても心が締め付けられる。
拓斗は食事を半分も食べられずに切り上げると、救いを求めるように机の上の写本へと向かった。 ボレアスも、ヴィクトールも、誰も本当の自分を見てはいない。この世界で生きる手がかりは、この本の中にしかない。
「……わざわざ契約までして、あんたは何を伝えたかったんだ。」
拓斗は震える手で、ついに『西暦2023年』と書かれた、最初の空白を越えた。




