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あがきの果てに  作者: 縁日の丸
ガレリア辺境伯領編
10/13

刻を越える署名

重厚な石造りの扉が静かに開き、拓斗はヴィクトールに伴われてボレアスの私室へと足を踏み入れた。部屋の奥、巨大な執務机の背後で、ガレリア辺境伯ボレアスが椅子に深く腰掛け、鋭い眼光を拓斗に向けていた。


ヴィクトールが横に並び、軍礼を捧げる。


「閣下、例の少年を連れて参りました」


ボレアスは答えず、ただじっと拓斗を見つめていた。その視線は、獲物を値踏みする鷹のように冷徹だ。ボレアスは拓斗の顔色を隅々まで観察し、やがて低く重い声を出した。


「……タクトと言ったか。報告によれば、お前はあの『檻』の表層に一週間以上も留まり、あまつさえ自力で生還したという。それも、瘴気に精神を蝕まれることもなく、これほど健康な体で、だ」


その声には、隠しきれない不審と、かすかな驚愕が混じっていた。


「常人ならば、あそこの瘴気に触れて数時間で理性を失い、三日もあれば魔物の餌食になるか、あるいは自ら命を絶つ。精霊の加護もなく一週間を無傷で過ごすなど、人間の業ではない。……答えよ。お前は何者だ。どこから、何の目的でこの地に現れた」


ボレアスは机に肘をつき、身を乗り出すようにして拓斗を圧迫する。その威圧感に気圧されそうになりながらも、拓斗は逃げずにボレアスの瞳を正面から見据え返した。ここで嘘をつけば、一生この世界で不審者として扱われる。今の自分に言える真実は一つしかなかった。


「……俺は、この世界の人間じゃありません」


「何?」


「日本……という国から来ました」


その瞬間、部屋の空気が凍りついた。


ボレアスの顔から余裕が消え、椅子を蹴るようにして立ち上がる。その表情は驚愕を通り越し、ある種の畏怖に近いものへと変貌していた。


「ヴィクトール! 今すぐこの部屋を退出し、扉を封鎖しろ。私が中から解錠するまで、たとえ王都からの使いであっても一歩も通すことは許さん!」


「はっ……!? 御意に!」


主君の尋常ならざる取り乱し方に、ヴィクトールも狼狽を見せたが、即座に一礼して部屋を去った。重い閂が下りる硬質な音が響き、広大な部屋は二人きりの密室となった。


ボレアスは拓斗の数歩手前まで歩み寄ると、絞り出すような声で語り始めた。


「……タクト殿。君が今口にしたその名は、我が王国に連なる全ての貴族にとって、数千年を貫く呪縛そのものだ」


「呪縛……?」


拓斗は思わず身を引いた。自分が生まれた国の名が、この異世界で恐ろしい響きを持って語られている。その事実に、背筋に冷たいものが走る。


「数千年前、この国を打ち立てた初代国王の傍らには、一人の異邦の英雄がいた。戦場では無敵の軍師、平時には民の希望として君臨した男だ。その異邦人――――日本人が、国を成した際に唯一求めた報酬。それが、精霊を証人とした『永劫の誓約』だった」


ボレアスは苦々しく窓の外を見据えた。


「『今後現れる我が同胞を、決して害してはならない』。……この誓約は絶対だ。契約の精霊の力を借りられる「誓約の涙」という特殊な触媒を使用して行われた、精霊を監視者とした誓約なのだ。物理的な暴力はもちろん、隷属させること、毒を盛ること、意図的に欺いて死地に追いやること。これら全ての『敵対行為』を、精霊は見逃さない。もし背けば、精霊は直ちにその貴族の血筋を認識し、その一族の心臓を止める。回避不能の自動処刑システムだ」


(そんなことが……)


拓斗は驚愕のあまり、声を発することができなかった。


「当時の権力者たちは、契約を更新・破棄するための『誓約の涙』さえあれば、いつでも反故にできると高を括っていた。だが、彼らはその力を乱用した。政敵を呪うために、あるいは自身の地位を保証させるために触媒を使い果たし、私利私欲のために豪商たちにまで流したのだ。……気づいた時には、『誓約の涙』はこの世界から完全に枯渇していた」


ボレアスが拓斗に向き直る。その瞳には、逆らえぬ運命への畏怖が宿っていた。


「破棄する手段を失った契約は、数千年の時を経て、我ら貴族を永遠に縛り付ける『呪い』へと変わった。我々が君を保護し、丁重に扱うのは、一族の血を絶やさぬための必死の足掻きなのだ。そしてその誓約には、一つだけ具体的な義務が含まれている」


拓斗は、ボレアスの言葉に圧倒されていた。まともに相槌を打つこともできない。ボレアスが語る情報の一つ一つが、拓斗に驚愕をもたらしていた。


ボレアスは話しながら部屋の奥、厳重な封印が施された隠し棚へ歩みを進めた。


「日本人が現れた際、我らが保管してきた『本』をその者に譲渡すること。その者が死せば、本は再び王族や我らの元へ還り、再び写本として記録される。……今、その時が来たのだ」


ボレアスは隠し棚の奥から、何重もの絹布に包まれ、精霊の加護を示す青い光を放つ木箱を恭しく取り出した。彼はそれを拓斗の目の前にあるテーブルに置くと、震える手で蓋を開けた。


「……これが、我ら貴族と王族が数千年の間、血を吐く思いで守り、写し続けてきた『本』だ」


中から現れたのは、一冊の分厚い本だった。表紙には金箔が贅沢に施され、随所に宝石が埋め込まれている。だが、拓斗の目を引いたのは、その装飾よりも、表紙の端々にまで描かれた「紋様」だった。


ボレアスがページを開く。


「タクト殿、君の目にはこの世界の文字が自国の言葉のように見えているのだろう? ヴィクトールから、看板や書類を難なく読んでいたと報告を受けている」


拓斗は頷いた。不思議なことに、この世界に来てから目にする文字は、意識せずとも頭の中で日本語に変換されていた。


「だが、この書は違う」


ボレアスが真剣な面持ちでページを指し示す。


「これは我々の知らない、おそらく君たちの国の言葉そのものだ。我らには意味を解せぬ。ただ一線、一画も違わぬよう、数千年にわたり腕利きの絵師たちに模写をさせてきたものだ」


拓斗は差し出されたページを覗き込み、息を呑んだ。


そこに並んでいたのは、見慣れた、しかし異様なほどに「装飾」された日本語だった。 意味を理解できないこの世界の住人が、文字を「聖なる図形」として捉え、一筆一筆を忠実に、かつ過剰に写し取った結果、ひらがなの曲線は複雑なツタ植物のように伸び、漢字の「はね」や「はらい」は鋭利な剣や炎のような紋様へと変貌していた。


(……読める)


拓斗の脳裏に電流が走る。普段、謎の自動翻訳で「日本語に見えている」現地の文字とは、明らかに質感が違う。これは、誰かが筆を執り、確かに日本語として綴ったものの残滓だ。


歪んでいる。画数もところどころ怪しい。だが、拓斗がその複雑な紋様に意識を集中させると、バラバラの図形たちがスッと意味を成して脳内に結ばれた。


「あ……」


「読めるのか? タクト殿」


ボレアスが身を乗り出す。その瞳には、数千年の謎が解ける瞬間を待つ渇望が宿っていた。


「……はい。形は、すごく変ですけど。俺たちの国の言葉です。間違いなく」


拓斗がそう答えた瞬間、ボレアスの顔に安堵と狂喜が混ざったような色が浮かんだ。ボレアスたちにとって、この本はただの不気味な図形の羅列に過ぎなかった。それを「言葉」として認識できる者が現れたことこそが、契約における「日本人の到来」を裏付ける何よりの証拠だったのだ。


拓斗の指先が、紙面をなぞる。 数千年前の誰かが書き、その後、数え切れないほどの人間が「何が書いてあるかも分からず、ただ間違えてはならない」という恐怖と執念で写し続けてきた情報の地層。


そのインクの滲みひとつひとつに、この世界の人間たちの狂気的なまでの「日本人への執着」が刻まれているようで、拓斗は言いようのない寒気を感じた。


「……一番最初のページには何が書いてあるんだ?」


拓斗は逸る鼓動を抑えながら、金箔の装飾が最も古びた、写本の冒頭部分へと指をかけた。ボレアスが言った「数千年前の英雄」が、この世界の歴史の夜明けに何を書き記したのか。神話の原点に触れるような、厳かな緊張感が指先に伝わる。


慎重にページをめくった拓斗の視界に、ひときわ大きく、力強い筆致で描かれた一文が飛び込んできた。


そこには、歪んだ装飾文字の奥から、あまりにも見慣れた「現代の数字」が浮かび上がっていた。


『私は西暦2023年、日本の東京からこの地へ辿り着いた。』


「……っ!?」


拓斗の指が止まり、呼吸が凍りついた。 何度も目を擦り、写し間違えではないかと思考を巡らせる。だが、何度見てもそこにははっきりと「2023」という数字が刻まれている。


(2023年……? 嘘だろ、そんなはずがない)


拓斗が地球から「檻」へと放り出されたのは、つい先日のこと。暦は2025年だった。 拓斗にとって、2023年などついこの間の記憶だ。まだコロナ禍の影が残る、あの退屈で平和な日常の延長線上にあった年だ。


「どうした。顔色が悪いぞ、タクト殿。最初の賢者は、この世界の始まりに何を遺していたのだ」


ボレアスの問いかけが、遠くの方で聞こえる。 拓斗の頭の中では、狂った時計の歯車が激しく音を立てていた。


この世界の歴史では、この手記が書かれたのは「数千年前」の出来事だとされている。建国の神話、失われた古代魔法、触媒の枯渇……。それら全ての歴史が積み上がるのに必要だった膨大な時間が、地球の尺度では、わずか「二年」の間に収まってしまっている。


(俺が檻にいた一か月の間に、地球ではもう何年も経っていた……? いや、違う。逆だ。あっちの二年間が、こっちでは数千年になってるんだ)


圧倒的な時の断絶。 自分が地球で見ていた世界は、この世界の住人にとっては、神話にも等しい遠い過去の出来事。 もし今、地球へ帰れたとしても、拓斗だけ玉手箱を開けたような、そんな歪な世界が待っているだけだろう。


拓斗を襲ったのは、孤独という言葉では言い表せないほどの、疎外感だった。


「……タクト殿? 答えよ。賢者は何と?」


ボレアスの声が鋭さを増す。拓斗は震える唇を噛み締め、必死に動揺を押し隠した。 ボレアスたちが「数千年の神話」として崇めてきたものの正体が、自分たちと大差ない「現代人」の記録だと知ったとき、彼らが自分をどう扱うか、想像するだけで恐ろしかった。


拓斗は重い沈黙の中で、次の行へと視線を移した。 そこには、日付の衝撃を塗り替えるほどの、さらに切実な「叫び」が記されていた。


西暦2023年という数字の衝撃に目眩を覚えながらも、拓斗は続く行に目を走らせた。そこには、これまでの優雅な模写とは一線を画す、殴り書きのような、しかし執念の籠もった言葉が綴られていた。


『まず、これを読んでいるお前。 決して、この本の内容をこいつらに教えるな。 こいつらは我々の知識を吸い尽くし、乾いた雑巾のように使い捨てる。 この本は、お前が誰にも支配されず、この世界で対等に生き抜くための唯一の武器だ。』


拓斗の胸が、ドクンと大きく跳ねた。 それは数千年の時を越え、同じ日本という地からやってきた先人からの、血を吐くような忠告だった。


「……あ」


拓斗は悟った。同胞がこの国の貴族に数千年もの間、この本を大切に守り、写させ続けてきた理由。それは彼らが自分の利益のために他者を使い捨てるような存在だからだ。いつか現れる日本人にこの本を渡させ、彼らの犠牲になる日本人を減らすため。そして、日本人が死ねば再び本を回収するのは、時代に合わせてその本を修正・加筆したものを後世に残すためだ。。


「タクト殿、沈黙が過ぎるぞ。そこに何が記されている。我が領地に、我が一族に、どんな繁栄をもたらす知恵が眠っているのだ」


ボレアスの声が、先ほどまでの敬意を孕んだものから、徐々に統治者としての威圧的なものへと変質していく。その眼光は、拓斗という少年を見ているのではなく、彼が抱える「本の中身」を暴こうと、獲物を狙う猛禽のそれだった。


拓斗の指が、写本の縁を強く掴む。


この本は、自分を守るために先人たちが遺してくれた「盾」だ。これを手放し、全てを明かしてしまえば、自分はただの「便利な辞書」として、一生この街、もしくは館から出られないまま使い潰されるだろう。


拓斗はゆっくりと、しかし確かな意志を持って、重厚な表紙を閉じた。そして、その本を誰にも渡さないと言わんばかりに、自分の胸へと強く抱き寄せた。


「……申し訳ありませんが、これの内容を教えることはできません」


部屋の温度が、一気に数度下がったかのような静寂が訪れた。ボレアスの眉が険しく跳ね上がる。


「何と言った? 忘れるな。それを数千年守ってきたのは我ら貴族だ。相応の対価を支払う義務が君にはあるはずだ」


「いいえ。これは、私と、私の先祖にしか触れられない『聖域』だと書かれています。これの内容を他人に漏らすことは、私にかけられた『契約』が許しません」


拓斗はとっさに、ボレアスが先ほど語った「契約」という言葉を盾に取った。 ボレアスの顔に、困惑と怒り、そして隠しきれない焦燥が浮かぶ。契約の精霊を恐れる彼にとって、「契約が許さない」という言葉は、何よりも強力な拒絶の理由となった。


ボレアスを真っ直ぐに見据える拓斗の瞳には、先ほどまでの怯えはなかった。


「私は、あなたの駒にはなりません。ですが、この本を読み解き、私自身の意志で、あなたの協力者になるかどうかは考えます。……それでいいですね、ボレアス辺境伯」


守られるだけの迷子から、対等な条件を提示する「交渉者」へ。 たった数分前まで拓斗を見下ろしていたボレアスは、今や目の前の少年の瞳に宿る、侵しがたい光に気圧されていた。


数千年前の「神話」と、わずか二年前の「現実」が交差する密室で、拓斗の新しい運命が静かに、しかし力強く動き始めた。

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