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あがきの果てに  作者: 縁日の丸
原生林編
1/13

泥濘に刻む意志

彼が目を覚ますと、そこには全く知らない景色が広がっていた。幾重にも重なった巨大な葉が空を塗りつぶしている。差し込む日差しは、まるで深い海の底に届く光のように細く、頼りない。四方を囲む巨木たちは、意思を持って彼を閉じ込めているかのようだった。

ただ緑が多いのではない。むせ返るような青臭さと、足元の泥から漂う発酵したような悪臭が鼻を突く。どこか遠くで、金属を擦り合わせたような甲高い鳴き声が響いている。


「・・・は?」


彼、稲沢拓斗はそんな大自然の中にいた


(は?え?なにこれ。夢?夢か?どこだよここ。)


寝起きで全く見覚えのないところにいる。

そんな状況で拓斗はひどく混乱していた。

拓斗が住んでいた地域のまわりには森や山はなく、自然とは無縁の生活を送っていたのだから無理もなかった。

しばらくそうしていたが、ほどなくして冷静さを取り戻した拓斗は必死に記憶の糸を辿り始めた。


(昨日は確か、いつも通り朝起きて学校に行き、帰ってきたらご飯とお風呂を済ませて寝た。

 そう、俺は自分の部屋で寝たはず。なのに俺は学校の制服を着てここに立っている。

 自分でこんな大自然に来るわけがないし、こんなところに連れ去られる覚えもない――――――!!)


その時、前方数メートルの草むらが爆発したように揺れた。

「カサカサカサッ」という、無数の爪が地面を掻きむしる不快な音が鼓膜を刺す。


(なんだ、何が来る――!?)


飛び出してきたのは、全長数メートルはある緑の怪質だった。蛇の胴体に、節くれだった無数の脚。それが波打つように蠢き、湿った土を跳ね上げながら突っ込んでくる。 開かれた大口からは、幾重にも並ぶ鋭い牙と、紫色をした二叉の舌が覗いていた。


「っ、あ……!」


脳が理解を拒否する。キモい、なんて言葉では足りない。それは生理的な嫌悪感の極致であり、出会った瞬間に『死』を確信させる絶対的な捕食者の姿だった。 濁った瞳に映る自分の姿を見た瞬間、拓斗の全身の毛穴が逆立ち、本能が叫んだ。


( ――逃げろ。こいつにだけは、絶対に触れられるな。)


拓斗はなりふり構わず駆け出した。履き慣れたスニーカーの底から伝わるのは、アスファルトの硬い感触ではない。一歩踏み出すたび、底なしの不安を煽るように柔らかく沈み込む、得体の知れない土の感触だった。 160センチという小柄な体は、原生林の巨大なシダ植物を掻き分けるのにも一苦労だった。一歩踏み出すたび、底なしの不安を煽るように柔らかく沈み込む土に足を取られ、その度に低い視界がさらに揺れる。自分がどこに向かっているのかさえ分からない。ただ、背後から迫る「カサカサカサッ」という数百の足音が、心臓の鼓動を追い越していく。

何度も転び、そのたびに泥水をすすりながら立ち上がった。鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、なりふり構わず腕を振り、藪を掻き分ける。かっこ悪くたっていい、泥だらけでもいい。とにかく、あと一秒、あと一歩だけ、あの牙から遠ざかりたかった。


(追いつかれる。喰われる。死ぬ、死ぬ、死ぬ――!)


そのうち肺は限界を超え、吸い込む空気は火を呑んだように熱くなった。濡れた岩で滑り、膝を強打したが、痛みを感じる暇さえなかった。転べば終わりだ。 振り返る恐怖よりも、立ち止まる恐怖が勝る。 だが、どれだけ足掻いても、怪物の立てる不快な這行音は、逃れられない運命のように拓斗の背中に張り付いて離れない。


不意に、背後の気配が高くなった。 逃げ場の無い、絶対的な死の予感。 拓斗の視界の端で、怪物の巨大な影が、自分を包み込むように空を覆った。


(追いつかれる――!)


絶望が脳を焼き切ろうとした瞬間、拓斗の視界に、巨大な樹木の根が複雑に絡み合い、地表に小さな隙間を作っているのが映った。


(あそこなら……!)


拓斗は走るのをやめ、泥の中へダイブした。


「……ガッ、あ……!」


肩を鋭い根で強打したが、止まらない。彼は獣のように四つん這いになり、腐葉土の悪臭が漂う狭い空洞へ、文字通り自分の体を「ねじ込んだ」。


直後、背後で「ドォォン!」という重い衝撃音が響く。怪物の巨体が樹根に衝突したのだ。 隙間から覗く怪物の、三対の瞳と目が合う。


「キシャアアア!」


怪物は怒り狂い、無数の足を鎌のように隙間へ突っ込んできた。


「やらせるかよ……ッ!」


拓斗は恐怖で失禁しそうになりながらも、手元にあった重い石を両手で掴み、隙間から伸びてくる怪物の足に向けて、何度も、何度も叩きつけた。 爪が剥がれ、指先から血が流れる。それでも、彼は石を振り下ろし続けた。


「死ね! あっち行け! 殺されてたまるか!!」


不格好な、しかし狂気すら孕んだ拓斗の反撃に、怪物は一瞬怯んだ。その隙に拓斗は、さらに狭い根の奥へと、泥と涙で顔を汚しながら這い進んでいく。 どれだけ服が裂けても、肌が切り刻まれても、彼は止まらなかった。


どれほどの時間が経っただろうか。 背後の物音が消え、静寂が訪れても、拓斗はしばらくの間、暗い穴の底で泥を握りしめたまま震えていた。 やがて、彼はゆっくりと、這い出すように穴から抜け出した。


全身、泥と血にまみれている。学校の制服は見る影もなくボロボロだ。 だが、その瞳だけは、さっきまでの絶望に曇ったものではなかった。


「……生きてる。俺は、生きてるぞ」


拓斗はボロボロになった指先で、自分の顔を強く拭った。幼さのない、どこか尖った顔立ちが泥にまみれ、鋭い痛みとともに自分の「生」を主張してくる。

ポリエステル混紡の、安っぽいブレザーの生地が、湿った空気を含んで鉛のように重い。ネクタイはどこかで失くしたらしい。数時間前まで、自分はあんなにも退屈な『日常』の中にいたはずなのに。

それを見た拓斗が感じたのは、生きていることへの安堵ではなく、日常を奪われたことと、あの化け物への怒りだった。


「……ふざけんな」


その外見からは想像もつかないほど重く、男らしい低音が、静まり返った森に溶けていく。腹の底から絞り出した声は、自分を震い立たせる咆哮のように響いた。


「死んでたまるか。原因も場所も分からないまま、あんなキモい蛇がいるような場所で、一人で腐って終 

 わるなんて……絶対に嫌だ!」


拓斗は地面を強く握りしめた。指先に泥が食い込み、爪の間が痛むが、それが逆に心地よい。 彼はゆっくりと、震える膝を叩いて立ち上がった。


「まずは人だ。どこかに必ず、この森の外へ繋がる道がある。そこへ行って、誰かに会って……。それか

 ら、俺をこんな目に合わせた奴を絶対に引きずり出してやる」


不安と恐怖が消えたわけではない。足はまだガクガクと震えている。 けれど、その瞳には、単なる生存本能を超えた「怒り」と「執着」の火が灯っていた。


「行けるところまで行ってやるよ。……あがいて、あがき抜いてやる」


拓斗は服の汚れを乱暴に払い落とすと、原生林の奥、まだ見ぬ「人里」への道、その第一歩を踏み出した。

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