魂なき英雄伝説6話「影を連れて、外の光へ」
リアが倒れ込んだあと、
洞窟には、しばらく“何もない静寂”だけが残っていた。
砕けた岩が時々ぱらりと崩れ落ちる音。
血と焦げた魔力の匂い。
さっきまで天使の羽が照らしていた光の残り香が、ゆっくりと薄れていく。
最初に動いたのは、クレアナだった。
「……まだ、終わってません」
彼女は震える足を無理やりまっすぐ立たせ、
崩れた床の上に膝をつくと、指先で空中に式を描きはじめた。
淡い光の軌跡が、空間に複雑な輪をいくつも重ねていく。
未来視で一度だけ止められた時間はもう動き出している。
だから今度は――
数字と術式で、“時間を稼ぐ”しかない。
「クレアナ、あんた……またそんな顔して……」
ミレイナが歯を食いしばる。
クレアナの額には、すでに大粒の汗が浮かんでいた。
「ミレイナさんは……リアを。
今のうちに、回復できるだけ回復させてあげてください。
あの子だけでも、ここから出さないと。」
静かな声なのに、その言葉には逆らえない強さがあった。
その瞬間、洞窟の奥――
さっきまで天使と怪物がぶつかり合っていた闇の塊が、ぐじゅり、と音を立てて蠢いた。
「……まだ、いるわね」
闇は、一度は光にえぐられ形を失ったはずなのに、
残った“破片”同士が寄り集まり、
粘土のように自分の姿を作り直していた。
クレアナの目に、数値の波が一気に流れ込む。
「っ……魔力構造、再構成……!?
さっきまでと違う……!」
描き上げた光の陣が、闇の前にいくつも展開する。
重なる結界と、偏向する光の壁。
その全部を、クレアナは一人で維持していた。
「……少しは、足止めできる。
――いえ、本来なら、できるはず、なんですけど……」
その声がかすかに揺れる。
闇の塊が、ふいに動いた。
ガンッ――!
光の壁にぶつかった瞬間、
クレアナの計算では“反射される”はずだった闇が、
あり得ない角度で壁を滑るように曲がり、
まるで進行方向を知っていたかのように別の術式の隙間を抜けてきた。
「なっ……!? 計算どおりじゃない……!」
ミレイナが叫ぶ。
「クレアナ!」
クレアナはすぐさま式を書き換える。
しかし、その一瞬の遅れを嘲笑うように、闇の塊が別のルートを選び取る。
まるで――
“次の一手を読んで、さらにその先を曲げてくる”ような動き。
「……計算の“外”に……逃げていく……?
いえ……わたしの術式を、“見て”から変えてる……?」
理解した瞬間、背筋が寒くなる。
(――いや。違う。
“間違っている”んじゃなくて――
わたしのほうが、後手に回されている……?)
ミレイナはリアのもとに膝をついていた。
白く変わった髪をそっとかきあげ、瞳の様子を確認する。
「……リア、聞こえる? 返事は?」
まぶたは閉じたままだが、呼吸はある。
胸の奥に、かすかな光の脈動も感じる。
(……本当に、天使と“混ざっちゃったのね……)
ミレイナは深く息を吸った。
「――《癒織りの布》」
彼女の手から光の布が広がり、
リアの身体を包み込むように重なっていく。
ただの回復魔法ではない。
“命を削らずに天使の力を馴染ませるための、緩衝材のような術”。
布がリアの肌に触れるたび、
焦げたように荒んでいた魔力の流れが少しずつ整っていく。
「……ミレイナ……?」
細い声が、唇からこぼれた。
リアのまぶたが、重たそうに持ち上がる。
白くなった髪が、静かに揺れた。
「起きた? よかった……」
安堵の笑みを浮かべつつも、ミレイナの手つきは止まらない。
少しでも早く、少しでも深く、回復を進める必要がある。
リアはぼやけた視界の中で、
まだ光と闇が交差する天井を見上げた。
(……わたし……さっき……)
胸の奥がひどく熱い。
同時に、別の鼓動が重なっているような感覚があった。
――(……リア、まだ動かないほうがいい)
耳の奥で、確かに“あの声”がした。
(……あなた……?)
心の中で問いかける。
――(うん。たぶん、もう……前と同じには、戻れないけど)
――(それでも、君の中で……“光”だけは、残れたみたいだ)
リアの目が潤む。
(……消えたんじゃ……ないんだね……)
――(僕自身は……もう“形”を維持できない。
でも、君が戦うなら……少しだけ、力を貸せる)
ミレイナの声が現実に引き戻す。
「リア。聞きなさい」
リアは顔を向けた。
姉の目はまっすぐだった。
恐怖も焦りも、その奥にちゃんとあるのに、決意で押しつぶしている目。
「このままここにいたら、あんたは確実に巻き込まれる。
クレアナも、わたしも、あいつをここで足止めする。
あんたは今すぐ外に出て。」
「でも……!」
リアは反射的に叫んでいた。
「わたしも戦えるよ……! 少し休めば――」
「ダメ」
ミレイナの声が鋭くなる。
「今のあんたは、“一人分以上”を背負ってる。
ここで無理に戦ったら――本当に、戻れなくなる」
その瞬間、リアの胸の奥で金の羽の気配が、少しだけ強く震えた。
――(……その通りだよ。今のまま戦えば、君ごと燃え尽きる)
リアは唇を噛む。
クレアナが背中越しに叫んだ。
「ミレイナさん! 早く! 壁が……もう、もたないっ……!」
光の陣が、音を立ててひび割れていく。
闇は、そのひびを狙うように動き――
計算された“はず”のルートを、なぞるようでいて、
毎回わずかに外しながら攻撃してくる。
あたかも――
「計算されること自体」を学習し、ずらしているかのように。
ミレイナは、その気配に気づいていた。
だからこそ、決断は早かった。
「リア」
彼女は、リアの肩を両手で掴んだ。
「外に出なさい。
ノクシアがどこかで倒れてるはず。
入り口付近だと思う。――あの子を見つけて。」
リアの目が揺れる。
「……ノクを……?」
「そう。天使の光を“回復だけ”に使えば、
まだあの子を助ける余裕くらいはある。
ここであんたを戦わせるより――
外でノクシアを起こしたほうが、この先の“戦力”になる。」
「でも、お姉ちゃんたちは……!」
「わたしとクレアナは大人。
しかも、今この場で一番“慣れてる”二人よ」
ミレイナは少しだけ笑った。
無理している笑顔だけど、それでも姉の顔だった。
「大丈夫。死にかける前に、どうにかする。
――あの子たちの、姉だからね」
リアの喉が詰まる。
(……本当は、一緒に戦いたい。
でも、わたしがここに残ることが……“みんなを助ける”になるとは限らない……)
胸の奥で、天使の声がそっと背中を押した。
――(行こう、リア。
“守るための選択”は、残ることだけじゃない)
リアは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……わかった。
絶対に……二人とも、追いつくから」
「当たり前でしょ」
ミレイナはリアの背中を、軽く押した。
「走れ。
後ろは見なくていい。
――振り返ったら、殴るからね。」
「……うん!」
リアは、よろよろと立ち上がる。
まだ脚は完全じゃない。
でも、胸の奥の光が、弱々しくも前へと押し出してくる。
彼女は洞窟の通路を駆け出した。
背後で、ミレイナの声が響く。
「クレアナ! もう遠慮はなし!
あんたの“ずるい計算”、全部使いなさい!」
「言われなくても!」
クレアナの魔力が爆発的に跳ね上がる気配を背中で感じながら――
リアは、暗い通路をひたすら走った。
*
どれくらい走ったのか、感覚が曖昧になった頃。
湿った空気がわずかに軽くなった。
「……ここ……入り口の近く……」
崩れた岩の隙間から、外の風らしき冷たさが入り込んでいる。
同時に――違う気配があった。
「……影……?」
壁際の暗がり。
そこに、丸くうずくまるように“何か”が膝を抱えて座り込んでいる。
黒い繭。
赤と青の光が、規則正しく、しかし弱々しく脈打っている。
リアは息を呑んだ。
「ノク……!」
駆け寄り、繭に触れた瞬間――
内側から、かすかな鼓動が返ってきた。
(生きてる……! よかった……!)
影の繭は、危険な反応は見せない。
リアが触れても、拒絶も攻撃もしてこなかった。
(きっと、自分を守るために……ここで眠ってたんだ)
リアは両手を胸の前で重ねた。
胸の奥から、金の羽の気配が、ゆっくりと光を広げていく。
「……少しだけ、力を貸して」
リアは心の中で呼びかける。
――(わかってる。回復だけに使う。
“攻撃”は、もうしばらくおあずけだ)
リアの両手が、淡い金の光に包まれた。
それはさっきまで戦場を焼き尽くそうとした“断界の光”ではない。
繊細で、静かで、壊れたものを“繋ぎ直す”ためだけに削ぎ落とされた、細い光だった。
リアは、その光をそっと繭に当てた。
「――《天光癒紋》」
光が繭の表面に染み込み、
黒い影と金の光がまるで対話をするように揺れ合う。
ノクシアの中の“影の心臓”が、その光に反応した。
ドクン――。
さっきまで乱れていた鼓動が、少しだけ一定に近づく。
裂けていたはずの内側の影が、ゆっくりと編み直されていく。
「……あったかい……
これ……ルミナの時と、似てる……」
リアは胸の奥で、別の記憶がきしむのを感じた。
ノクの中に残る青い羽の光と、自分の中の金の光が
一瞬だけ共鳴する。
繭にひびが入った。
ぱきん――。
黒い殻が割れ、中からゆっくりと手が伸びてくる。
影をまといながらも、その指先は確かに“人の形”をしていた。
「……ぅ、あ……」
聞き慣れた、少し気怠そうな声。
「ノク……!」
繭が崩れ落ち、
そこから現れたのは――血に濡れた服のままのノクシアだった。
赤い瞳が、ゆっくりとリアを捉える。
「リア……?
……なんで……あんたがここにいるのさ……
中、まだやばいんじゃ……」
リアは涙をこらえながら笑った。
「それはこっちのセリフ。
どう見たって、こっちのほうがやばいじゃない」
ノクは自分の胸に手を当てた。
影の心臓はまだ完全ではないが、
さっきまでの“潰されるような痛み”は少し和らいでいる。
「……なんか、楽になった……
これ……あんたの中の、“あいつ”の力?」
リアは少しだけ目を伏せたが、すぐにうなずいた。
「うん。回復だけ。
攻撃は……もう、使わない」
ノクはふっと笑う。
「……あいつ、らしいや。
ほんと、守ることばっかり考えてる」
ゆっくりと立ち上がろうとしたとき、脚がぐらりと揺れた。
リアがすぐに肩を貸す。
「無理しないで。外に出よう。
お姉ちゃんとクレアが……時間を稼いでくれてる」
ノクは一瞬だけ目を細めた。
胸の奥で、“嫌な予感”がざらりと広がる。
(……あいつら二人が揃って**「時間稼ぎ」**なんて、
ロクな事になってないに決まってる)
「……わかった。行こう。
外の空気、ちょっとくらい吸わねえと、
マジで影の中で腐っちまう」
リアはくすっと笑った。
「腐らせないよ。
一緒に、外まで行くんだから」
二人は肩を預け合いながら、崩れかけた洞窟の出口へ歩き出した。
暗闇の向こうに見える光は、
今までよりも、少しだけ眩しく見えた。
――その外で、
白虎と龍と“剣士”が待っていることを、
まだ知らないまま。




