魂なき英雄伝説3話
「影の心臓と、眠れる悪魔」
地下の風は、乾いた紙が擦れるような音を立てて流れていた。
崩れた“核”の奥、カゲナとリアは立ち止まり、静かに息を整える。
「……さっきの揺れ、まだ続いてる」
リアが囁く。魔法の灯りがほおをかすめて揺れた。
「大丈夫。通路の歪みは収まってる。――戻るにも、進むにも、今は――」
その言葉が終わる前だった。
目の前に、何かが“現れた”。
音も気配もなかった。
ほんの瞬きひとつの間に、闇が形を持ち、そこに敵がいた。
黒い“手”のような影が――
一瞬のうちに、カゲナの胸を貫いた。
空気が裂け、鉄の匂いが走る。
リアの瞳が大きく見開かれ、喉の奥で悲鳴がちぎれた。
「カゲナ――!!」
カゲナの体が、まるで糸を切られた人形のように崩れ落ちる。
視界の端で、闇が歪んだ笑いのように揺れた。
敵の姿は見えない。ただ“何か”がそこにいて、
見下ろすように息づいている。
けれど、その声は彼に届かない。
血が喉を塞ぎ、息が続かない。
視界の端がゆらりと歪み、光が遠のいていく。
――暗闇の中で、何かが入れ替わる。
⸻
「……っ、なに、これ……痛っ……!」
息を吸うたび、胸の奥で焼けた鉄が暴れていた。
血の匂いが濃く、皮膚の内側で心臓が裂ける音がした。
ノクシアが目を開いた。
視界が滲み、焦点が合わない。
自分の体が地面に押し倒されているのがわかる。
「カゲナ……お前、まさか――」
言葉が途中で切れ、
鋭い痛みが喉を裂いた。
胸にはまだ、闇の手が突き刺さっている。
その先が見えない。
影のような腕が自分の体を通り抜けて、後ろの空間に消えていた。
「ぐっ……ぁあああ――!!」
ノクの叫びが、崩れた空間に響いた。
床に落ちた赤が、光を反射する。
リアの息が詰まった。
その瞬間――
闇の腕が、わずかに蠢いた。
まるで何かを掴み、そして捨てるように。
「……っ――!」
鈍い衝撃とともに、ノクの身体が横へと投げ飛ばされる。
壁に叩きつけられた衝撃が全身を駆け抜け、視界が一瞬白く弾けた。
地に落ちた影が揺れ、黒い霧となって消えていく。
かすかに残ったのは、
胸の奥で暴れる“熱”と、
影の中に残ったわずかな鼓動だけだった。
「ノク!? どうして――!」リアが駆け寄ろうとした瞬間、身体が震え――
瞳の奥に金色の光が差した。
低い男の声が、リアの口から漏れる。
「……リア、すまない。今だけ、主導権をもらう。」
その声――リアの中の男の天使だった。
彼は一瞬だけ、リアの意識を押しのけ、
代償に自分の存在を削って現界する。
リアの周囲に淡い光が走る。
天使の羽の残滓がちらつき、
空間が震えた。
「ノクシア、聞け! そのままだと心臓が潰れる!
刺された部分も、血も、全部“影”で覆え!
内側から守れ、早く!」
ノクは痛みに息が詰まりながら、
震える指先で胸を押さえる。
「な、なに言ってんだよ……こんな状態で……動けるわけ……が……!」
「黙れ、今やれ! 間に合わなくなる!!」
叫びが雷のように響いた。
ノクの意識が一瞬だけ白く弾ける。
無意識の反射で、指先から黒い影があふれ出した。
それは生き物のように脈打ちながら、
胸を貫く闇の“手”にまとわりつき、
血ごと包み込んでいく。
「ぐぅっ……ぁああああああ!!」
全身が裂けるような痛み。
影が体内を走り、血と神経を縫い合わせていく。
焼ける鉄のような熱が骨を伝い、
ノクの声がしぼれた悲鳴に変わる。
天使の声が低く響く。
「そうだ、そのまま“繋げ”。……生きろ、ノクシア!」
ノクの胸に、黒い輪が現れる。
それが“影の心臓”として脈を刻み始めた。
呼吸は荒く、顔は汗と血で濡れている。
ノクはうつむきながら、かすかに笑った。
「……やべぇな……マジで死ぬかと思った……」
天使は静かに息を吐いた。
「まだ終わりじゃない。敵は、まだ“ここ”にいる。」その瞬間、床がうねり、冷たい風が吹き抜けた。
黒い影――さっきカゲナを貫いた“手”が、
再び動き出す。
リアが顔を上げた瞬間、
闇の奥で獣のような咆哮が響いた。
「来るっ!」
天使の声がリアの口を通して叫ぶ。
彼が主導権を握った瞬間、リアの瞳が金に染まった。
天使の羽の残滓が背から溢れ、光の粒が散る。
その光は刃となり、闇へ向けて放たれた。
バシュッ――。
青白い閃光が黒い空気を裂く。
だが敵は動きを止めない。
形を変えながら、壁や天井を這うように迫ってくる。
“形のない怪物”。
リアはすぐに両手を構えた。
光が集まり、無数の矢となって放たれる。
「距離を取れ! 遠距離で押し返すんだ!」
天使が指示を出す。
天使の声が頭の奥で響く。リアは反射的に構えを変えた
リアの放つ光が、暗闇に降り注ぐ雨のように輝いた。
それでも、敵は霧のように形を崩し、再び動き出す。
⸻
ノクは、倒れたままの体を起こし、
クレアナに教わった“視る術”を思い出した。
――視覚ではなく、魔力の“層”で捉える。
息を吸い込み、目を閉じる。
世界が静まり、意識の奥で光が形を結んだ。
そこに浮かんだのは、数値と色――
敵の“レベル”と“属性”を表す指標。
けれど、ひとつだけ異常があった。
その中心にある黒い塊には、
何の文字も映らなかった。
【測定不能 ――????】
「……は?」
ノクの顔が一瞬で強張る。
「ふざけんな……クレアナの術でも読めねぇ……!」
それは、存在そのものが規格外という証だった。
“世界の理に登録されていない”存在。
ノクが歯を食いしばる。
「……こいつ……何なんだ……」
⸻
その間にも、リアと天使は戦い続けていた。
光の矢が次々と放たれ、通路を照らす。
だが敵の動きは止まらず、
壁を溶かすように滲み出して近づいてくる。
天使が判断する。
「……このままでは持たない。」
彼はリアの体を操り、ポーチを探る。
中には、クレアナが渡した青いお守りがあった。
「リア、その護符を使う。ノクシアを飛ばす!」
リアが息を呑む。
「でも、それじゃあ――!」
「いいから! 奴の命を守れ!」
リアの手が震えながらも、お守りをノクの影に押し当てた。
青い光が弾け、転移陣が展開する。
ノクは焦点の合わない目でリアを見る。
「……まさか、飛ばす気か……!」
天使の声が重なる。
「ノクシア、聞け。
今のお前じゃ、この敵とは戦えない。
“入口付近”に転送する。そこにはまだモンスターがいるが、
動くな。能力だけで身を守れ。」
ノクは唇を噛み、息を乱しながら笑った。
「……命令口調がムカつくけど……了解だよ、天使さん。」
天使が短く頷く。
「よかった。……まだ余力はあるな。」
光が強まり、転移陣の紋様が広がる。
リアの髪が風に舞い、ノクの身体を包む。
「――ノクシア、もしお前を救える者がいるとしたら……
この世界で、ただ一人だ。」
ノクが眉を寄せる。
「誰だ……?」
天使はリアの口を通して答えた。
「……お前たちの父、魔王だ。」
ノクの目が見開かれる。
その直後、光が爆ぜた。
白く弾けた光が視界を奪う
ノクの身体は闇を抜けて消えた。
⸻
リアの周囲では、なおも闇がうねる。
天使は主導を握ったまま、光の盾を展開した。
「……よし、これでノクは安全圏だ。リア、距離を保ちながら攻撃を続けろ!」
リアは息を荒げながら頷く。
「わかった……!」
光の弾が連続して放たれ、
闇の中に星のように閃いた。
「右、二歩後退――射線、維持!」
天使の声がリアの口から鋭く落ちる。
リアは後退しながら矢を放ち、闇を押し返す。
だがその間に、ノクシアの身体は光に包まれ――
視界が白く反転した。
⸻
着地の衝撃が、鈍く胸を突き上げた。
息ができない。
血が喉の奥で泡立ち、咳のたびに鉄の味が広がる。
「……はぁ……っ……」
転移先はダンジョンの入口付近。
崩れた岩の間から、かすかに外気が流れ込んでくる。
敵の気配は――ない。
だが、痛みがある。
胸の中で“影の心臓”が不規則に鳴っていた。
ドクン、ドクン、と、
音がずれるたびに体が軋む。
「……はは、笑えねぇな……」
ノクは岩に背を預け、ゆっくりと影を地に広げた。
わずかな魔力で周囲を探るが、反応が薄い。
力が……抜けていく。
「……このまま……寝たら……たぶん……」
言葉が最後まで続かなかった。
まぶたの裏で、リアとカゲナの顔が揺れる。
ノクは苦笑を浮かべたまま、
静かに目を閉じた。
「……起きたら……怒られそうだな……」
影がゆっくりと少女の体を包み、
心臓の鼓動と同じリズムで波打ち始める。
それはまるで――
**自分自身を眠らせ、生かすための繭**のようだった。
暗闇の奥で、
黒と赤の光が交互に瞬く。
“まだ死なない”
そんな、かすかな意志だけが
ノクシアの中に残っていた。
⸻
そして、どれほどの時間が経ったのか――
その場を照らす青白い光の中、
軽やかな足音が二つ。
空気がわずかに温度を取り戻す。
「……ここ、魔力の乱れがひどい……」
「まって……この気配……!」
影の繭の前に、
クレアナとミレイナの姿が現れた。
クレアナが息を詰め、膝をつく。
「ノクシア……!? 生きてる……!」
ミレイナが頷き、
「でも、放っておいたら……心臓がもたない!」
二人はすぐに行動に移る。
クレアナは符を、ミレイナは光の布を展開し、
応急処置を始めた。
「リアたちはまだ戦ってる……!」
「なら急がなきゃ――助けに行く!」
彼女たちの背で、
ノクシアの影がかすかに震えた。
眠りの中で、微かな声が漏れる。
「……頼む……リアを……」
胸の奥で、何かがこぼれ落ちた。
ノクの指先が、ゆっくりと動く。
そこにあったのは――
青く輝く一枚の羽。
ルミナの羽。
あの日、光と共に消えた彼女が残した唯一の欠片。
ノクはその羽を、
痛みに震える手でそっと握りしめた。
「……ルミナ……まだ、ノクの中にいる……」
かすれた声が風に溶け、
影の繭の光が一瞬だけ強く瞬いた。
それはまるで、
羽が彼の願いに応えるように柔らかく光を返したかのようだった。
そして――
影の繭は再び静かに光を落とした。
赤と青、二つの光が重なり合い、
暗闇の中で小さな命の鼓動を刻み続けていた。




