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魂なき英雄伝説1話

   その日の朝、空はすでに重たい色をしていた。

灰を溶かしたような鈍い雲が低く垂れこめ、ざわめく風が森の木々を深く揺らしている。


「ただの天気ではない」――そう直感する者もいた。

行き交う人々は空をにらみながら足を速め、声をひそめて家々に戻っていく。


だが、全員がその異変に気づいているわけではなかった。

多くの人にとっては、嵐の前触れか、あるいは季節の気まぐれのように思えた。

しかし敏感な者だけが、胸の奥にひっかかるざらついた違和感を覚えていた。


――風が重い。

――空気の流れが、どこか“乱れて”いる。


それは、目には見えない魔力のざわめきが世界の底で狂い始めていた証だった。

ほんの一握りの人々だけが、その「魔力の乱れ」を本能で察し、不安を募らせていた。

クレアナは空を見上げ、眉をひそめた。

いつものように風や雲を数値に置き換えて天気を読む――はずが、式はすぐに崩れ、答えが出ない。


「……数値が乱れて、正しく読めません」


滅多に外れない計算が揺らぐ。それだけで、ただ事ではないと悟れる。


横に立つミレイナは黙って腕を組み、重たい風をにらみつけていた。

クレアナの様子を見て、小さく息を吐く。


「……このままじゃ、何かが起きる」


数字で異変を知るクレアナ。

直感で不吉を感じ取るミレイナ。

二人の答えは、同じだった。


ふたりの耳に、誰もいないはずの場所から声がした。

「……来なさい」


姿を見せぬまま響く、女性のものらしき声。

“未来を見る魔王”――クロノが、直接ふたりを呼んでいた。



クロノはめったに人前に姿を見せない。

ミレイナにとっても、ほとんど言葉を交わしたことのない存在だった。

彼女が知る魔王といえば、自分の父――家族として接してきた、身近な魔王の姿だけ。


だからこそ、クロノの呼びかけには特別な重さがあった。

あまり知らない魔王が、わざわざ自分たちを呼ぶなど、普通ではありえない。

ミレイナとクレアナは顔を見合わせ、短くうなずいた。

これはただの不吉な空模様ではない。


無言のまま歩き出す二人の足取りには、自然と焦りがにじんでいた。

向かう先は――“未来を見る魔王”クロノ。


めったに姿を現さない彼女が、自ら呼びかけてきた。

その事実だけで、ただごとではないと知れる。

魔王は青い光を帯びた机に手を置き、低く告げた。

「……この世界に、“規格外”の化け物が入りこんでいる」


クレアナはすぐに指先で数式を描くように空をなぞり、息を詰める。

「数が……合わない。範囲が広すぎて、まともに見えません。これは……普通の魔獣じゃない」


ミレイナは目を見開き、思わず問いかけた。

「どうして今まで気づけなかったの? そんなものがいたら、この世界じたいが歪んでいてもおかしくないのに……」


クロノは静かに首を横に振った。

「見えなかったのではない。“見えないように”隠れていたの。だからこそ、わたしの未来視とクレアナの計算を“増幅”する必要があった」


ミレイナは手を差し出し、想像の力でひとつの青白い玉を生み出す。

「……これなら、二人の力を強められるはず」


クロノは玉に手をかざし、深くうなずいた。

「これで三人の力を重ねれば……化け物の居場所を突き止められる」


ミレイナが額に汗を浮かべながら問いかける。

「……見つけたあと、どうするの?」


クロノの声は短く、重かった。

「封じるしかない」


沈黙ののち、クロノはゆっくりと言葉を継いだ。

「――本当なら、魔王と秘書がここにいるべきだった。だが二人は今、留守だ。だから……頼れるのはあなたたちしかいない」


彼女は普段、人に甘えることも頼ることもない。

常に孤高に立ち、未来を見続ける存在。

そのクロノが自ら助けを求める――それだけで、事態の深刻さは明らかだった。


「この世界に他の強者もいる。だが、わたしが一番信じられるのは、あなたたち二人だ。

 ミレイナ……あなたの直感。

 クレアナ……あなたの数字の正直さ。

 わたしはそれに賭けたい」


クレアナはわずかに息をのんだ。

不器用で、うまく説明することも苦手。

けれど、それでも彼女の言葉と数字は飾り気がなく――だからこそ、信用された。


ミレイナは短く息を吐き、うなずく。

「……わかった。やるしかないわね」


クレアナは長く息をはき、目を閉じてから言った。

「なら、急ぎましょう。だれかが出会ってしまったら、もう手遅れです」


地下の家の共用スペースで、七歳の双子――カゲナとリアは机をはさんで向かい合っていた。

板の壁はランプの光を受けてやわらかく光り、外の不穏な空模様など届かないかのようだった。


リアは小さな木の人形を両手でつかみ、楽しそうに机に並べる。

「見て、こっちが勇者で……こっちは魔王! カゲナ、どっちが勝つと思う?」


カゲナは、ほんの少し大人ぶった顔をして考えるふりをしたあと、肩をすくめて答えた。

「勇者だろうな。でも、本当の魔王は……そんなに弱くない」


そのときだった。

リアの中から――彼女にしか聞こえないはずの声が、かすかに響いた。

(……昔、勇者は本当にいた。ある女を愛し、共に魔王に挑んだ。そして二人は……一緒に死んだのだ)


リアははっとして人形を握る手を止めた。

「ねえ、カゲナ……知ってる? 勇者はね、女の人を好きになって、一緒に魔王を倒したんだって。でも、その時に……二人とも死んじゃったんだよ」


カゲナは驚いた顔を向けたが、リアはただ幼い笑みを浮かべていた。

彼女自身も、その声の意味を深く理解してはいない。


――けれどその言葉は、未来への深い影となって残るのだった。


胸の奥で、カゲナのもうひとり――ノクシアがくすりと笑った。

(へぇ……一緒に死んだ、か。なあカゲナ、死んだ後ってどうなるんだろうな? 消えるのか、それとも……残るのか)


カゲナは一瞬だけ目を伏せる。

心の中で返す言葉を探したが、答えは見つからない。


ノクシアは楽しげに、しかしどこか確かめるように続ける。

(もし残るのなら――ノクみたいに、お前と一緒にいるかもな)


カゲナは小さく拳を握り、黙っていた。

リアは兄の表情の変化に気づかず、人形を再び打ち合わせて遊び始めていた。


幼い遊びの中に混じった「死後の声」。

それもまた、この物語の行く末を暗く照らす予兆だった。

しばらくして、二人は人形遊びにも飽きてしまった。

外に出ると、空はまだ重たく曇り、風がざわめきを運んでいた。


リアは駆け出しながら振り返る。

「ねえカゲナ! クレアがいない今なら、チャンスだよ!」


カゲナは眉をひそめる。

「……チャンスって、まさか」


リアは得意げに笑い、森の奥を指さした。

そこには、岩山の陰にひっそりと口を開ける暗い入口があった。

二人は前から気づいていた。だがクレアナが「危ないから近づくな」と強く言い聞かせていたため、足を踏み入れたことはなかった。


けれど今は――そのクレアナがそばにいない。


リアの瞳がきらりと輝く。

「ダンジョンだよ、きっと! ずっと気になってたでしょ? 一緒に行こう!」


カゲナはしばし黙り込み、闇の奥を見つめた。

胸の奥でノクシアがくすっと笑う。

(へぇ……クレアナに内緒で探検か。面白ぇじゃん。行こうぜ、カゲナ)


リアはすでに足を進めている。

カゲナもため息をつきながら後を追った。

幼い双子の冒険心が、静かに禁忌がを開きつつあった。


リアとカゲナの二人が、足音をひびかせながら地下へと歩いていた。


表から見れば二人きり。

だが実際には――カゲナの中にはノクシアが、リアの中には男の天使が、それぞれ静かに寄り添っていた。


リアは無邪気に笑い、カゲナもそれに合わせて口元をゆるめる。

だが胸の奥で、二つの存在は息をひそめていた。


もし危険が迫れば――自分たちが出て守らなければならない。

ノクシアは、いつでも飛び出せるように影を広げて構えていた。

男の天使もまた、静かに備えている。だが彼には制約があった。


リアが眠っているか、気絶している時にしか現れられない。

それ以外で無理に出れば、リア自身に大きな損傷が走る。

だから戦う時は、リアを守るために自分の命を削るほかない――。


それでも彼は迷わない。

(……いざとなれば、出る。リアを守るために)


ノクシアはくすりと笑い、赤い瞳を胸の奥で細める。

(へへっ、頼りにしてるぜ。お互いにな)


こうして幼い双子の冒険心の影には、悪魔と天使という二つの存在がひそみ、ただ「守るために」静かに牙を研いでいた。

その真実をまだ知らぬまま、

彼らは新たな一歩を踏み出す――。


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