だって、忘れていくものだから
あれは確か、私が高校一年生の六月に起きた出来事だった気がする。
高校に入学して約二か月が経過し、出身地を離れての新生活にも徐々に慣れ、暖かい気候の元で咲いていた桜は全て散って、暑い夏に向けてじんわりと気温が上昇していた時期に起きた出来事だった。
私は小・中学生の頃、児童養護施設で生活していた。理由はたった一人の家族だった母親に捨てられる形で預けられる……という、ヒューマンドラマなんかではよく見るような、そんな理由だった。
そこで私は、一緒に生活していた男の子たちからいじめを受けていた。いじめの内容については思い出したくもないが……とにかく男の子たちとは離れて呼吸が楽になったというくらいには嫌な思い出だった。
そんな施設を出て安らかな生活に安心し、学校から帰宅していた時、何と私をいじめていたうちの一人とばったり再会した。
その人も高校生だったけど、髪は派手な赤色に染めてピアスも開けていて、制服は着ていたが明らかにまともではない学校の制服を着ていて、その時私はあぁ、人ってなかなか変わらないものなんだなと思ったのを覚えている。
彼は私を発見すると何を思ったのか、私をいじめていたことなんて忘れたように、「よぉ!久しぶり!」と声を掛けてきたのだった。
突然の出来事に全身が硬直したが、私の反応なんて気にせずマシンガンのようにぺらぺらと話すその姿に、こいつは本当に人間なのか?過去にしたことも何もかも忘れてこんなに馴れ馴れしく接してくるなんて、こいつ人間なのか?と思ってしまった。
さらに極めつけはこれだけではなかった。その人はしばらくぺらぺらと話して満足した後、私の頭の先から足元まで舐め回すように眺めると、いきなり「なぁ……俺施設にいた頃からお前のこといいなって思ってたんだぜ……」とねっとりした口調で言い出して、全身の鳥肌が立った。
しかもそれを私の胸元や脚、身体に綺麗にフィットした制服姿をじろじろ見ながら言うものだから、一瞬でその台詞に性的な意味が含まれていることを本能的に察した。
その後はもう、相手の反応なんて存在しないもののように扱いながら逃げた。
理由はもちろん、こんな風に見られたことへの屈辱的な気持ちもある。けれどもそれ以上に、どうして過去に犯した過ちと向き合おうとしないで、存在しない出来事のように扱えるのか、その当時の私の気持ちをどうでも良いものとして扱うのか、私という存在を、本当の意味で認識していないことへの虚無感が、全身を巡って私を離さなかったからだ。
そして月日は経って、私とは内容は異なるけれど同じような苦しみ縛られるに人が……私の目の前にいる。
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「……されて嬉しかったこと、悲しかったことってあるでしょ」
ぽつりぽつりと話す私を、セレーネはもちろん、仲間たちもシリアスな表情で見つめる。
「道を案内してもらったり、勉強を教えて貰ったり、身の回りのお世話をして貰ったり、そこはまあ何でも良いんだけど。そんなことをしてもらったら嬉しいし、あぁ私、幸せだなって気持ちになる」
セレーネが徐々に「何だろう、これ?」という顔を浮かべる。そのせいか涙は止まっていた。
「……でもね。どれも全部ものすごい労力がいるし、自分の貴重な時間を相手のために費やしちゃうし、神経だって使う。……だけど、その努力や大変さが、相手に本当の意味で伝わることなんて、多分だけどない。どれだけ自分が身も心も擦り減らす思いで頑張っても、相手にその気持ちが完璧に伝わることなんて、きっとない。……それは歌姫の仕事でも言えることだよ、セレーネ」
セレーネが「えっ」というような、驚いた表情で私を見る。
「もし仮にセレーネがファンの人たちの気持ちを考慮して、愛を諦める道を選んだとしても、次は恐らくだけど、『一生結婚しないで』『子どもも産まないで』『死ぬまで一人でいて』、そんな感じの要求が出てくると思う。……そんなこと誰もしないって顔してるね。でもね、セレーネの気持ちを本当の意味で分かっているのは、セレーネ。あなただけなんだよ。あなたしか分からないから、みんな分からないから、勝手なことばかり言えるんだよ」
殺風景な車内に、私の少し低い声だけが響く。
「こんな風に人の気持ちを無視して幸せになろうとするのに、人っていうのは自分の痛みには敏感で。でもそれは、みんなに言えることかもね。今までファンの人たちに誠実に向き合ってきたセレーネに少し浮いた話が出てきたことで、身内を殺されたみたいにみんな騒ぎ立てる。けどそんなことばかりしても、いつかは記憶の中から薄れていく」
「だから自分を不幸にしたくないなら、時には人の声なんて無視して、自分の進みたい方を選ぶしかないんだよ。セレーネ」
「(自分の、進みたい方……)」
メリッサの言葉が、頭の中で繰り返される。
その言葉が記憶の中の扉を開けて、まだ歌姫なんて綺麗な呼び方で呼ばれる前の、田舎で楽しく歌を歌っていた頃の記憶がゆっくりと目を覚ました。




