歌姫の涙
「ただいまー。戻ったよー」
なんやかんやあって、私たちはセレーネの自宅へと戻った。
「おー、帰ったか。買い出しご苦労さん」
出迎えてくれたのはアデルだった。
……そういえば、ケントの出生は詳しく分からないけれど、アデルはお金持ちの貴族家の御曹司だ。
楽屋に遊びに行った時、イザベラさんはアデルとも会っている筈なのに、アデルがイザベラさんが結婚したいであろう「お金持ちの令息」だということには気付かなかったのだろうか。
「……ん?何だよメリッサ。俺のことジロジロ見て」
怪訝そうな表情で私を見つめてくるアデル。
……まぁ確かに。こんなに口も態度も悪い貴族の令息がいるなんて、大抵の人は信じないだろう。貴族の令息といったら、上品な振る舞いに容姿を持った、それこそケントみたいなタイプを思い浮かべるだろう。
「……ううん。何でもないー」
無難な返事をしておき、私はこの部屋の奥にいるセレーネの元へ向かった。
「……」
セレーネは先ほどと変わらず、ベッドに横になっていた。
ゆったりとしたネグリジェを身に包み、以前とは打って変わって静かな表情で眠るセレーネは、お伽噺に出てくる眠り姫みたいだった。別に悪い人から呪いをかけられているわけではないけれど。
……いや、かけられているか。芸能人として、この国の歌姫として、絶対で、清廉で、みんなのもので誰のものでもない存在でいないといけないという呪いを。
「……セレーネ。戻ったよ」
私の呼びかけに薄く反応し、セレーネはゆっくりと目を開けていく。
「……」
ベッド脇にしゃがんでいた私と目が合う。目覚める姿は人生で見たことがないくらい綺麗で、美しくて、少し触れたら壊れてしまいそうなくらい儚かった。
「果物買ってきたんだけど、食べる?無理だったら食べなくても大丈夫だし」
私は透明の器に入った、食べやすい大きさにカットされた梨をセレーネに見せた。
「……」
セレーネは梨を見るとゆっくりと身体を起こし、そのまま口を開けた。
……!「食べさせて」ということだろうか。
私は梨を刺したフォークをセレーネの口まで運ぶと、セレーネはそれをぱくりと口に含み、もぐもぐと咀嚼した。
「……!よかったぁ、食べてくれたね」
近くで見守っていたナディアが安心した声を出す。確かにこの短期間の間に少し痩せてしまった感じがあるので、とりあえず何か食べてくれたのは安心だ。
けれども私たちは次の瞬間、また衝撃的なものを目にしてしまった。
「……」
梨を食べたセレーネが、何故か突然ぽろぽろと泣きだしたのである。泣くといっても、セレーネは今声が出せないので、本当に静かに泣いているといった感じだったが。
「えっ、はっ?ちょ、お、おい……」
突然泣き出したセレーネに狼狽えるアデル。どうやら女の子の泣く姿には弱いらしい。
「え、ど、どうしたのセレーネ……?」
とりあえずリュックの中から白いタオルを取り出し、セレーネに貸す。
何で梨を食べて突然泣き出したんだろう。街の果物屋さんでとりあえず買った、高級でもない普通の梨なのに。
それでもセレーネは静かに涙を流しながら梨をぱくぱくと食べていたので、セレーネの口に合わなかったなんてことではないのだろう。
私はその姿を、ただ静かに見守るしかできなかった。
「……ねぇみんな。ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
ナディアがゆっくりと口を開く。セレーネは梨を全部食べて、再び眠りについたところだった。
「……列車ってなに?」
「……は?」
まさかの質問に間抜けな声が出るアデル。
「いやついさっき、『ファーストクラスの列車で行く』って言ってたでしょ?その列車って何なの?あとファーストクラスって……」
……あぁ。ナディアは育った環境上、列車の存在を知らないのかもしれない。アデルは実家がお金持ちだから乗ったことがあるのかもしれないけれど。
なので私はナディアに列車のこととファーストクラスについて教えた。
「へえぇ!そんな乗り物があるんだねぇ!確かにそれなら人目も気にせず移動ができそう!」
「……うん」
確かに人目は気にせず移動ができるかもしれない。
……でも私は、根拠のない妙な不安と、得体の知れないざわつきを感じていた。
何事もなく向かえると良いんだけど。私はそう祈った。




