社長
セレーネに誘われるまま、私はホテルの中へと入った。
ホテルには深紅のカーペットに豪華なシャンデリア、一体いつ作られたんだろうと思わんばかりのアンティーク風の調度品の数々があり、本当に私が入っても良いのかという気持ちになる。
目の前に広がる光景に軽く圧倒されていると、前から小太りの女性が歩いて来るのが見えた。
このホテルの他の宿泊客かな?と思っていると、女性は私たちの目の前まで歩みを進めて立ち止まった。
「セレーネ……。買い物してきていいとは言ったけど、帰るのが遅い。明後日に響いたらどうするの」
私はびっくりして軽く目を見開いた。何せ、見た目は多分30代くらいなのに、声がそれ以上に低くしゃがれている。セレーネのことを呼び捨てかつタメ口で話し掛けているということは、セレーネの知人か何かだろうか?
女性はセレーネと同じくらい、私より低いくらいの身長で、女優さんが着ていそうな白いフレアワンピースにつば付きの白い帽子を着用していた。けれども体形が少し……いや、かなり太っていたためか、普通の人なら簡単に着こなせそうな格好なのに、この人が着るとどうも違和感を感じてしまう。それも、セレーネが細い為か尚更そう見える。
眉は八の字で目は小さく、口は山を描くように尖らせていて……すなわち、一目で分かるくらいには怒っていた。見ているだけで怒りが伝わってくるので、何だかこの人の赤いロングヘア―まで怒りの気持ちが伝わっていそうだ。
「社長、ごめんなさい……。今日は部屋に戻ったらすぐに練習をするね」
セレーネが耳の垂れた子犬みたいな表情でこの「社長」という人に謝罪をする。さっきまで楽しそうな笑顔を浮かべていたのに、今度は180度正反対の表情を浮かべる。やっぱり見ていて飽きないなと思う。
「分かれば良いわ。……で、私が怒っているもう一つの理由は分かるわね?」
低くしゃがれた声でそう言い放つと、この「社長」は私のことをぎろりと睨む。
……ちょっと。初対面の相手にそこまで睨まなくてもいいじゃない。別にこの子に何かしたわけでもないのに。
「あっ!社長!この人はね、追っ手から逃げていた私を匿ってくれた、私の友達なの!」
その言葉を聞いた途端、私は脳内が軽くフリーズした。いやまあ、匿ったのは確かに事実だが、一体いつセレーネと、ケルンセンの歌姫と友達になったのか。
セレーネの中の友達の基準が低いのか、それとも私が高すぎるのか。はたまたセレーネの基準がおかしいのか、私の基準が普通なのか。
「社長」の睨みから視線を逸らしていると、社長は私のことを見て「……ふぅん?」と一瞬睨んで私から目を離した。
……ん?何だろう、今一瞬睨まれたけど、それは憎悪とか嫌悪とか、そういうマイナスな気持ちじゃなくて、何かこう……嫉妬?寂しさみたいなものを少しだけ感じた。
けれども私がもう一度この「社長」を見つめた時には既に私たちに背中を向け、「いいわ。早く部屋に戻って練習をしなさい」と言ってどこかへと去って行った。
「……何だったんだろう」
「あっ!ごめんね、驚かせちゃって。あの人は私の所属してる事務所の社長で。アンナっていう名前なの。でも何か名前で呼ばれるのが嫌みたいで、だからいつも社長って呼んでるんだけど……」
軽く呆然としていた私に、セレーネはさっきの社長についての説明をする。
「見た目はちょっと怖いし、話し方も厳しいけど、悪い人じゃないから!気にしないで?」
「え?あぁいえ。私は気にしてないですよ。ただ、セレーネさんのことが大切なんだなって思って」
私がそう言うと、セレーネは一瞬きょとんとした表情を浮かべると、すぐに幸せそうな笑顔を浮かべる。
「……やっぱり、あなたは優しいね。さっき思わず私の友達って言ったけど、やっぱりそう言って良かったかも」
「……っへ?」
小さな声だったので何と言ったのか聞き取れず、思わず聞き返す。
「……ううん!何でもないよ!さっ!部屋に案内するから一緒に行こう!
メーちゃん!」
「あぁはい……。ってえ?めーちゃん?」
「うん!名前メリッサでしょ?だったらメーちゃんだよ!」
脳内がまだ追いついていないのに、セレーネは私の手を引いて部屋へと向かおうとする。
……めーちゃん?めーちゃん?めーちゃん?
今まで呼ばれたことのない名前に頭の中がぐるぐると回転する感覚に覆われ、私はセレーネに半ば引っ張られるようにセレーネの部屋へと向かった。




