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コンフロント・マイノリティ  作者: 珊瑚菜月
第4章 芸術の都・ケルンセン
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……え。

 セレーネ。セレーネねぇ……。

 頭の中でさっきのポスターに描かれた姿と、どこか清涼感のある名前を浮かべる。

 さっきの女性二人組は、セレーネのことを我儘で人使いの荒い、性悪な女性だと語っていた。

 自分のあまり好きではない芸能人のことを何が何でも悪く言い、信憑性のかけらもないのに罪人のように仕立て上げるのは、割とよくあることだ。私のクラスメイトも同じようなことを、ほぼ毎日やっていた。

 

 けれども、悪意と欲望、偽善に塗れた世界で長い間生きてきたせいで、その人を見れば大体の本性は掴める私には……そんな風には見えなかった。

 悪意のある人間というのは、一見優しそうだったり穏やかそうに見えても、目の奥は光がなかったり、笑っていなかったりする。

 かつてパン屋でアルバイトをしていた時、私を愛人にしようとしたあのメンヘラ奥様をもつ社長も、目の奥には希望も明るさもなく、どす黒い欲望の色を隠していた。

 それ以外の場所でもそうだ。私を変な目で見てくるクラスメイトたちも、私を町中で恐らくそういうことをしようとしたあの軍人たちも、あの冬の日の、あの人も……。

 

 そこまで考えて、私は急いで思考を中断させた。

 思い出さないようにしてるのに、何で旅に出てから思い出すことが増えたんだ。……いや、違う。あの人と出会ったから、私はこんな風に人の悪意に敏感になったんだ。おかげで知りたくないことまでどんどん私の意識と神経に流れ込んでくる。

 

 けれどもあのセレーネという女性は、ポスターからでも目に光を感じた。それも何て言うか、真昼のカンカン照りの太陽みたいな感じじゃなくて、早朝に昇る太陽みたいな、激しすぎない、でも温かい太陽みたいな。

 ……まあ、全部私の推測でしかないんだけどね。もしかしたら、さっきの女性たちの噂の方が合っている、なんてことも十分あり得る。

 私の旅の中には必要のない要素だと割り切ったその瞬間、鼻に小麦と砂糖の甘い香りが通ってきて、私は思わず警察犬みたいに嗅覚を研ぎ澄ませた。


 「……ん?なんか、いい匂いしない?それもなんか、どっかで……」

 私の嗅覚からくるこの言葉に、通りすがりのおじいさんが「あぁ」と細く声を漏らす。

 「もしかして、旅の方かい?このケルンセンはチョコクロワッサンが名物なんだよ」

 「!!!!!」

 チョコクロワッサン、という言葉を聞いて、私の中のパンセンサーが反応した。何せ、私はパン屋さんでアルバイトをしていた関係もあり、大のパン、その中でも菓子パン好きなのだ。

 菓子パンの中でも、チョコクロワッサンは五本の指に入るくらいの好物だ。クロワッサンだけでも美味しいのに、それにチョコレートを丸々入れようという、シンプルだが幸せの最高潮になれる食べ物を考えた人には、是非とも功労賞を贈りたい。

 そういえば、時間は今15時だ。みんな丁度小腹が空いているだろうし、間食がてら食べてみるのも良いかもしれない。


 「ねえみんな、チョコクロワッサン食べない!?お金は私が払うし!」

 「お、おう……。いいけどよ、何か妙に目ぇキラキラしてんな……」

 そんなこんなで、私は全員分のチョコクロワッサンを買いに行くことになった。


 チョコクロワッサンの購入を目指して、私はさっきの甘い香りの元を探していた。

 実は街にはチョコクロワッサンの店が多数あり、30秒あるけばまた別のチョコクロワッサンのお店があるといった感じだったのだが……。

 私の鼻に入ってきた匂いは、その中でも別格の甘い香りを放っていた。美味しいパンというのは香りまで一級品だ。

 嗅覚を最大限まで研ぎ澄まし、辿り着いたのは街のちょっとした地下の通りへと繋がる階段だった。

 もっとも、地下といってもアラクみたいな暗い感じでも、違法地帯といった雰囲気でもなかった。地上よりは静かで店も人気もほとんどなく、ミステリアスな雰囲気がある。そんな感じだ。

 

 地下へと下りた瞬間に匂いは私の数センチ先まで近付き、右方向へ顔を向けると、そこには木製の丸い扉に赤いレンガ造りの、小さな建物があり、扉にかけられた看板には「アンリじいさんのパン屋さん」と書いてある。

 「ここだ!」と思った。宝探しで宝箱の前に辿り着いたときはこんな感じなんだろうな。

 扉を開けると、そこには白髪の優しそうなおじいさんが店の奥で椅子に座りながら本を読んでいて、私を見ると「おお、いらっしゃいませ」と微笑んできた。

 

 店は部屋の両サイドに長机が置かれていて、その上にトレーが何個か置かれていた。

 そのトレーを確認していると、私は健康的な山吹色に焼かれたクロワッサンと、その中に入った程よく柔らかそうなチョコレートを、チョコクロワッサンを発見した。

 「わあ……!おじいさん、このチョコクロワッサン、4つ下さい!」

 はいはい少しお待ちを、と言って椅子から立ち上がると同時に、店の扉が開いた。さっきの通りにも人はいなかったのに、ここまで来る人がいるんだ、と思った。


 「おじいちゃんごめんなさい。チョコクロワッサンってまだ残ってる?」

 その声を聴いた途端、体が浮いていないのにふわりと浮いたような、心の隅までじんわりと温かくなるような感覚に包まれた。

 ゆっくりと扉の方を確認すると、そこにはハンチング帽に白い長袖のフリルワンピースを着た、水色の髪の女性が立っていた。顔立ちはかなり……いやとても端正で、目は吸い込まれそうな翡翠で……。

 ……この人、初めて会うのに初めて見た気はしない。どこかで……。


 「(……え。)」

 この人の恐らくの正体に気付いた時、私は体が硬直した。何せ、芸能人なんてそう簡単に会えるものじゃない。

 

 

 

 

  ケルンセンの歌姫が。女神と拝まれる存在が、私の目の前にいる。

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