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泣くこと。

作者: ぴよ太郎

 小さい頃から、強い子だと言われて育った。

 周囲の大人たちはみんな褒めてくれたし、自分もそうであろうとしてきた。祖父は常々、強さとは優しさであると説いていたし、私自身そうあろうと努力を積み重ねてきた。敬愛するサッカー監督に倣い、対話を重んじ、絆を大切にしてきた。

 学校ではいつも級長に推薦してもらっていたし、所属していたサッカー部でもキャプテンを拝命した。部員による投票では満場一致で選んでもらったことを、私は今でも誇りに思っている。中学校で務めた生徒会長では多くの一流サッカー監督のマネジメント術を参考に、多くの生徒が満足し、かつ活躍できるシステムを構築しようとした。どこまで実践できたか分からないが、設置した意見箱を通して、多くのお褒めの言葉を頂いたことから、一定の成果を残したように思う。

 しかし、高校に入り、少し遅れてきた思春期を迎え、自身のアイデンティティーと向き合う年頃になった頃、私は愕然とした。

 私たち妖怪には、人間でいう白人や黒人、日本人やアメリカ人というような、いわゆる「人種」に相当するものがある。しかし、人間たちと違い、我々妖怪のそれはもっと明確である。あまりにも数が多すぎて差別が発生するどころではないが、「人種」よりも色濃く、我々の中に根付く「種族」という枠組みがある。私は知らぬ間に自分がはめ込まれたその枠組みに、愕然とした。

 私はどんな時でも、困難に立ち向かうことができた。

 私はどんな時でも、過ちを犯してしまった友人を快く許すことができた。

 私はどんな時でも、泣いたことがなかった。

 私がはめ込まれた枠組みの名は、「子泣きジジイ」だった。


 砂かけババアがまたやらかした。

 その知らせが私の耳に届いたのは午前二時ごろ、かなり冷える秋のことだった。いわゆる草木も眠る丑三つ時で、人間は我々妖怪が元気いっぱいに活動している時間と思っているようだが、そんな時間は我々だって寝ている。我々の世界は、人間界のように医療制度が整っていないし、医療保険に至っては存在しないに等しい。自己負担額は驚異の八十パーセントもあることから、妖怪たちは人間たちよりもよっぽど健康に気を使っている。

 体に良いと聞けばみんなこぞって取り入れるし、小さい子がいる家庭などは情報交換にも余念がない。人間界より少々遅れてやってきた発酵食品ブームは、もはや新たな宗教が生まれた感があるし、某情報番組のパーソナリティーである有名落語家を祭る祠も出来たほどだ。寒さがきつくなってくるこれから季節、そんな時間に起きているのは受験生と砂かけババアくらいのものだ。

 その砂かけババアがまたやらかした。

 某漫画家先生のおかげで、私と砂かけババアは盟友と思われがちである。決して不仲ではないし、仲間かと聞かれればイエスなのだが、実はあまり行動を共にすることはなく、どちらかと言うと、町内会で会長と副会長の間柄であるぬらりひょんの方が盟友に近い。チェス仲間でもある。紅茶の情報交換も毎週末の楽しみだ。

 しかし、時に噂は真実を凌駕するようで、若い世代などは私と砂かけババアが名コンビだと信じ込んでいる。コンビで活躍することはほとんどないが、その名を歴史に刻むツービートのような伝説の名コンビだと思っているのだ。故に、砂かけババアが何かしでかすと私が後始末することになる。


 「これで何度目ですか?」

 駆け付けた交番で、砂かけババアを保護した警官が腕組みをして私を待っていた。

 「申し訳ございません」

 私はただ頭を下げるしかない。

 「大体ですね」

 警官はため息をつきながら、砂かけババアの方を見た。本来なら度重なる迷惑行為でいろいろとお世話にならなければならないところを、保護と説教で済ませてもらっている立場にも関わらず、恨みがましい視線を警官に向けている。私は身を小さくしてするしかなかった。

 「どうして人に砂なんかかけるんですか」

 それが彼女の生きる道、アイデンティティーの証明なのだ、とはさすがに言えない。

 「申し訳ございません。よく言って聞かせますんで」

 「今度こそはお願いしますよ」

 砂かけババアに反省の色はなく、ふんぞり返って何事かぶつぶつと呟いては、茶飲みを指さしている。おかわりが欲しいのだろう。

 「僕の祖母をそうだから、あなたの大変さもよく分かるんですけどね。徘徊と砂をかけるって以外は、記憶もこの歳からしたらすごくしっかりしてるし」

 なにやら誤解があるようだが、認知症ではない。

 「でも、砂をかけるってねえ。砂かけババアじゃあるまいし」

 それが答えだ。

 しかし、やはりそんなことが言えるはずもなく、私はただ頭を下げて交番を後にした。


 村の集会所に着いたのは明け方だった。砂かけババア保護の一報を受けて待機していたぬらりひょんが、三人分の紅茶を持って現れた。砂かけババアはそれを奪い取ると、あおるよう飲んでゲップをした。

 「なあ砂かけ。わしらはあんたが何もんか知っとるから、砂をかけるなとはよう言えん。あんたにとったら大事なことなんやろ。子泣きジジイが泣きわめくんと一緒やろ」

 「私は泣いたりしないよ」

 私は慌てて否定した。

 「せやけど、“子泣き”やん」

 むらりひょんは私が一番気にしていることを、ずけずけと言う。

 「名前だけだよ」

 「まあええわ。ほんでな、砂かけ。わしらも同じ妖怪や。あんたの好きなようにさせてやりたい気持ちはある。せやけど、世間のこともあるし、町内会の事情も分かったってや」

 ここ数年、妖怪たちの人間社会に対する憧れは強まる一方で、それに伴い進出も急速に増え、中には人間よりも渋谷、六本木に詳しい者もいる。新宿歌舞伎町ナンバーワンと言われるホステスも、実はキツネの妖怪白狐である。ナンバーワン史上最年少の絶世の美女との評判らしいが、実際は八百歳を超える超シニアだ。

 そんな時代の流れの中で去年の春、我々妖怪にとっては革新的な条例が町民投票によって可決された。

 公共の場で、みだりに妖怪的、またはそれに準ずる行為を行ってはいけない。

 時代の流れを痛感した。長い年月の中で出来上がった、人間と妖怪の間に存在する深い溝は、人間たちが妖怪の存在を忘れてしまった今、我々から歩み寄るしか埋める道はないのだ。

 だが今はまだ、妖怪であることを公言して人間界で生きていける時代ではない。今はまだ、妖怪であることを隠し、社会に溶け込んだ者たちが、個々に親近感を持ってもらった方が人間たちも我々妖怪を受け入れやすいのではないか。

 「妖怪としての矜持は大切だけど、時代の流れの中で守っていかなきゃいけないものはもっと多いんだよ。失くすものばかり数えたって・・・」

 「アホ抜かせ!」

 砂かけババアが怒鳴った。

 「矜持なくして、どげんして示しつけるんじゃ!どがな面ァご先祖様に見せるんじゃ!小豆とぎかてそうじゃぞ!若いもんは祀り上げとるけどなァ、あんなは最初に人間に魂売りよった裏切りもんじゃろうが!」

 小豆とぎは初めて人間界で職を得た、いわゆるパイオニア的存在の妖怪である。人間界と妖怪界の橋渡しをした、妖怪界の野茂英雄として語り継がれている。

 まだ人間たちのおじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行っていた時代、休むことなく小豆をとぎ続けた彼は、己の存在意義の中で見出し研ぎ澄ましたテクニックを用い、人間ではおよそ不可能な程に服を綺麗にすることで、人間たちから報酬を得ていた。陰陽師として名高い安部清明も顧客だったらしい。クリーニング屋の起源も彼である。

 「わしゃあの、人間界のもんいうたら、猫一匹通さんけぇの!」

 そう言うと、砂かけババアは立ち上がり、家に帰ってしまった。私とぬらりひょんは、砂かけババアの後姿を見送りながら、黙って紅茶を飲むしかなかった。

 「砂かけの言うことも分かるんやけど」

 ぬらりひょんはため息をつきながら言った。町内会は民主的に物事を決定しているが、だからといってそれが全員の納得できる答えだとは限らないし、多数だからと言って正しいとも限らない。あくまでも、納得できる者が多い採決でしかない。個の集団である限り、全会一致は難しい。

 「それでも、時代が変わっていく中で、妖怪だけいつまでも変わらんわけにはいかんしな。難しい問題や」

 ぬらりひょんはため息をひとつつくと、先週私が買ってきたハーブティーを淹れ、味わうようにじっくりと飲んだ。


 集会所の一室に布団を敷いて寝ていた私を起こしたのはぬらりひょんだった。

 「なんや、まだ寝てるんかいな。もう三時やで」

 「うん、ちょうど今起きたところだよ」

 「わしが起こしたからや。まあええわ。それより、広場の方に行ってくれんか」

 「どうしたんだい?」

 「砂かけがなんか騒いどる」

 私は慌てて起き上がると、急いで服を着て外に飛び出た。あんなことがあった後だ。嫌な予感しかしない。

 広場に着くと、砂かけババアは鉢巻を巻いて木箱に乗り、なにやら大きな声で叫んでいる。声はかすれ、何を言っているのかよく分からない。

 砂かけババアが何やら妙なことをやるのは珍しいことでもないので、普段はあまり驚かない人々も、今日は何やらただごとではない雰囲気を感じとったのか、心配そうに砂かけババアを遠巻きに眺めていた。

 私は、しばらく近くの花壇に腰掛けて待つことにした。去年、すぐに砂を掘り返してしまう猫娘を見かねたかぐや姫が、ツツジを植えた花壇だ。本当は根のしっかりした竹を植えたいと言っていたが、育ちすぎることを理由に町内会が許可しなかった。ここはゆっくりツツジでも眺めながら待った方が得策だろう。

 二時間ほど経っただろうか。「じゃけえ」と「おおぅ?」以外、何を言っているのかすでに分からなくなっていた砂かけババアが、突然座り込んだ。私はゆっくりと近づいた。

 「なんじゃ、子泣きか。なんぞ用か」

 砂かけババアが鋭い視線を投げかけてきた。疲れの中に敵意を感じる。今の砂かけババアにとって、現代に生きる妖怪たちはみな敵に見えるのかもしれない。人間社会に憧れ、妖怪としての矜持を失い、それでもなんとも思わない若い妖怪たちが、憎くてたまらないのかもしれない。私は黙ったまま砂かけババアの横に腰を下ろした。

 立ち止まっては生きていけない。過去を忘れては成長できない。文化を受け継ぎ文明の中で生きるのはまさに困難だ。若い世代の妖怪たちはただ、若者風に言えば「現実的に」生きているだけなのだ。責めることはできない。

 「あのなあ、砂かけ」

 「同情ならいらんぞ」

 「そういうことじゃないんだ」

 それだけ言うと、私と砂かけババアは黙ったまま何を眺めるでもなく、視線を前に向けていた。今目の前に広がる日常は、何の上に築きあげたものなのだろう。何を犠牲にしてきたのだろう。砂かけババアが守りたいものと私が守らなければならないもの。それが今、交錯している。

 妖怪が妖怪らしく生きることが良しとされた時代を生きてきた砂かけババアにとって、村民投票による決定が自己の存在を否定するものでしかなかったことは、想像に難くない。何も条例に反対したのは砂かけババアだけではないのだ。それでも、歳を取った妖怪たちはみな妥協点を探し、無理やりにでも自分を納得させて生きてきた。砂かけババアはそん中、誰よりも自分に正直に生きているのだと思う。

 「お前らはそれでええんか」

 砂かけババアが呟いた。

 「確かに人間界のもんが入ってきて便利にはなった。それは、悔しいけど、認める。じゃけどな、若いもんは便利じゃったら、それでええんか。自分らが何者なんか、考えんのか。わしゃあの、それが悔しいんじゃ」

 大粒の涙が落ちた。

 「分かっとる。わしも分かっとるよ。じゃけどのぉ、心が許さんのじゃ。自分を、よう騙せんのじゃ」

 「自分を騙すことと納得させることは違うよ。騙すことは逃げることだが、納得させることは、何か守ることに繋がるんじゃないかと思うんだ。確かに僕らの世代には辛い選択だったけど、次の世代をこそ、僕らは守らなくちゃいけないんじゃないだろうか」

 家族のこと、これからの世代のこと。守るべきものを数えてそれだけを見て、目を伏せたい過去に蓋をした。そうして私たちは、砂かけババアを置き去りにしたのかもしれない。

 ふと目の前を見ると、小さい子が立っていた。百目の子だ。体中についた目がくりくりとしていて、可愛らしい。

 「坊や、もう遅いし涼しくなってくる。帰らなくていいのかい?」

 「うん。今、お使いの帰りなんだ。お父さんもお母さんも花粉症だから出歩けないし」

 百目にとって、花粉ほどやっかいなものはない。

 「そうか。えらいな。気をつけて帰るんだぞ」

 「うん、ありがとう」

 百目の子はそう言うと、鼻で大きく息を吸った。

 「涙が出てるけど、おばあちゃんも花粉症?僕は分からないけど、今日はひどいのかな。おじいちゃんも普段はそんなにひどくないんだけど、散歩から帰ってからずっと泣いてるんだ」

 何かが胸にのしかかった。

 祖父の百目とは町内会での付き合いがある。条例が多数決で決まった時、砂かけババアと共に強く反対したのが百目だった。それでも、可愛い孫が生きていく世代を守ることを選んだ。寡黙な男だが、悔しかったのだろう。百の目から流した涙で水たまりが出来ていたことを覚えている。散歩中に、砂かけババアの演説と出くわしたのかもしれない。

 「よく分からないけど、元気出してね」

 百目の子の言葉に、砂かけババアは小さく「ありがとよ」と小さく答えた。「じゃあ」と手を振って去っていく百目の子に、砂かけババアは何か呟いたが、私にはよく聞こえなかった。それでも、百目の子は小さく笑った。砂かけババアが言ったことが何かは分からないが、伝えたい人に伝わったのなら、それでいい。

 

 「砂かけ、どうやった」

 ぬらりひょんは、夜遅く私の家に、紅茶片手にやってきた。私たちは紅茶好きと言ってもその道のプロからすれば少し邪道で、この日はぬらりひょんが最近凝っているという、オレンジペコーにストロベリー・リキュールを加えた紅茶を試すことになっていたのだ。少ししか入れていないが、それでもストロベリー特有の甘い香りと味が口の中に広がる。

 「気持は分かるよ。僕だって妖怪らしくあれた昔が懐かしい。僕らの世代なら誰だってそうだろう。それでやっていけるなら、それが一番いいと思っているのも事実だし」

 「わしもそうや。せやけど、若いもんがこんだけ人間界に食い込んでしもうたら、妖怪らしくいるにも限界っちゅうもんがあるわな」

 ぬらりひょんは、条例が制定された時一番に賛成を表明した人物だから、砂かけババアには敵視されている。しかし、ぬらりひょんだって砂かけババアや百目の気持ちをないがしろにしていた訳ではない。次の世代により良い時代を残したいという思いが、他の妖怪よりも強かったのだ。ぬらりひょんにとっても、苦渋の選択だったはずだ。私は立場上、可能な限り双方の意見を両立させなければならないから、正直ぬらりひょんの主張には助けられたものだ。

 「何を受け継ぐべきか、そういうことかもしれないね。今までのご先祖様も、そうやって苦悩しながら生きてきたんだろうな」

 「ほう、今日はセンチメンタルやな」

 ぬらりひょんがストロベリー・リキュールを加えて、一気に飲んだ。

 「砂かけには困らされることも多いけど、考える機会をもらっている事も事実だからね。ご先祖様たちが僕たちに受け継いでほしいのは何だろうなと思ったんだ」

 時代の節目である今、私たちは正しい選択をできているのだろうか。伝統だからと言ってなんでも受け継げばいい訳ではないが、それでも進化を言い訳にし、捨ててはならないものを手放してはいないか。

 ふと、ドアのノックする音がした。誰か来たようだ。ひょいと窓から顔を出したぬらりひょんが「おお、珍しいお客さんや」と声を上げた。こんな時間に誰だろうか。

 やって来たのは百目だった。孫の言うとおり少し泣いていたらしく、ところどころ赤い目がある。

 「百目の紅茶も入れるさかい、ちょっと待ってや」

 そう言うと、ぬらりひょんは台所に向かった。

 「今日、散歩していたら砂かけババアを見かけてね」

 百目は足元に視線を落としながら、静かに言った。

 「なに、一人で物思いにふけるのが寂しかっただけだ」

 ぬらりひょんが運んできた紅茶を口に運ぶと、百目は大きく息を吐いた。

 「何が正しいか、わしにはまだよく分からなくてね。わしら百目はいったんもめんみたいに飛んだり、白狐のように妖術が使えるわけではない。言ってみればわしら百目は、目が百個あるってだけなんだ。何が出来る訳でもない」

 「それを言うたら子泣きじじいかて、泣くだけや。泣くことがアイデンティティーやなんて悲しいもんやぞ。なあ?」

 「だから僕は泣いてないって」

 そんなやり取りを見て、百目は小さく笑った。

 「それを言ったらぬらりひょんよ、お前さんだって人の家におしかけるだけだろう」

 「それを言うたらおしまいよ」

 ぬらりひょんがおどけて見せた。

 妖怪と言っても、強力な妖術を持っているものもいるが、大半は妖力など持っていない。

 「公共の場で妖怪的な事をするなと言われても、そんな特技なんかありはしない。わしらはただ、目が百個ある妖怪として生きてきただけだ。それでも、自分の種族に誇りをもって生きていってほしい。目が百個あるからこそ、しっかりと見届けたいものもある」

 ぬらりひょんが静かに言った。

 「百目。町内会での決まりはそんな大げさなことやない。人間界に憧れ、移り住むもんも増えた中で、妖怪であることが知られるのが得策とは思えん」

 「どんな弊害が?」

 「人間は弱い。体力の問題だけやなく、心の問題やな。同じ人間同士でもちょっと違うゆうだけで差別しよるのに、人間でもない異形のもんが出てきたらどうなる?白狐ならともかく、わしらはただの“異形”や。数も少ない。これから世に出ていく若もんのためにも、まずは妖怪であることを隠して溶け込んだ方がええんちゃうかってことや」

 ぬらりひょんもどこか悲しげだ。

 「わしらの若い頃は人間を脅かして遊んだもんだし、人間もそれをどこか楽しんでおった。だが、その時代を知らん若者からすれば、妖怪であることを隠すことはある種の自衛なのかもしれんな」

 「そうでまでして人間界に行かんでもええんちゃうかとも、思うこともあるけどな」

 ぬらりひょんが言った。

 「それでも若者の人間界への憧れは強くなる一方だし、僕らに出来ることは彼らの選択肢をひとつでも増やしてあげることじゃないのかな」

 百目は考え込むように目を閉じた。

 「若者の未来か。十分考えてきたつもりだったが、そうだな。百個もある目を曇らせて、先が見えなくなっては百目の面目丸つぶれになってしまう」

 そう言うと百目は「じゃあな」と呟いて帰って行った。背中の目が光ったように思えたが、とても澄んだ目をしていた。

 私たちも人間同様、文化や伝統を重んじて生きている。いや、寿命が長い分、人間たちよりもはるかに大切にしている。そして妖怪たちはそれぞれの種族の特徴を活かした技を持っているから、人間たちよりも矜持を大切にしているのだ。ご先祖様たちが代々受け継いできたその技や能力は、妖怪たちの誇りでもある。

 しかし、今受け継ぐべきは精神の部分なのではないだろうか。流れ続ける時間の中で、変わりゆく時代の中で、ご先祖様たちもきっと葛藤と工夫を繰り返し進歩してきたに違いない。そんな中、それでも変わらず受け継がれているのが「より洗練されたものを次の世代に渡す」という、進歩という名の“精神”ではないだろうか。

 砂かけババアが間違っているとも思えない。先祖の生み出したものを、そのままの形で受け継いでいきたいのだ。だが、それだけでは継承できないのも事実だ。

 庭で大きな音がした。私とぬらりひょんは顔を見合わせ、様子を見に行った。

 雲一つない夜空に浮かぶ満月に照らされる砂かけババアの姿が見えた。砂をかける時にいつも使っているザルをたくさん重ねて、その前にちょこんと座っている。彼女の前には、小さな焚火が仄かに揺らいでいる。さきほどの大きな音は、倒れたザルが植木鉢に当たった音だったようだ。

 昼間騒動を起こしたとは思えない、穏やかな笑顔を湛えている。そういえば砂かけババアの笑顔を見るのはいつ以来だろうか。元々笑顔の少ない妖怪ではあったが、町内会議以降、全く笑わなくなってしまった。

 「なんや、憑き物が落ちたみたいな顔して」

 ぬらりひょんが楽しそうに砂かけババアの顔を覗き込んだ。彼を見るといつも不機嫌になる砂かけババアだったが、穏やかな笑みを湛えたままだ。

 「もう、捨てようかと思うての」

 そう言ってザルを指さした。ぬらりひょんの顔から、笑顔が消えた。

 紡ぐべき言葉はあるのだろうか。ザルはババアが何百年も、ただ砂をかけていただけではあるけども、それでも自身の分身のように大切してきた道具だ。

 「大暴れして、言いたいことも言わせてもろうたけえ」

 「いや、そない言うても・・・」

 ぬらりひょんも、どう言葉をかけていいのか分からないようだ。

 「お前らの言う事は正しいと思う。反発はしとったが、ほんまは前から思うちょったんじゃ。じゃけどの、心の奥底から賛成はできんかったんじゃ」

 「まあ、わしも分かるよ。わしらの世代はみんなそうや。変わらんでええなら、変わりたない。せやけど、わしとしては・・・」

 「分かっとる。分かっとるよ」

 砂かけババアは視線を落とした。

 「こんなも、辛かったじゃろ」

 ぬらりひょんの肩が、小さく揺れている。

 「百目のおかげで吹っ切れた。もう決めたんじゃ。これは、もういらん。これがあったら、前に進めんけえ」

 穏やかだが、とても寂しそうな眼をしている。

 「ちょっと待ってくれないか」

 気が付けば、私はザルを燃やそうとする砂かけババアの手を掴んでいた。しかし、それよりも早くぬらりひょんが声を上げた。

 「わしが貰う。ババアが捨てるいうんやったら、わしが全部貰う」

 砂かけババアの目から、大粒の涙が一滴こぼれ落ちた。

 進歩には変化はつきものだ。しかし、過去をなくしてしまっては進歩する意味をなくしてしまう気がする。先人が何を思って、どのような道を辿って歴史を積み重ねてきたのか、それを忘れてしまっては、進歩とは言えないのではないだろうか。

 砂かけババアのザルが先人の知恵と呼べるかどうかは分からない。歴史の中では小さなことだろう。しかし、我々妖怪の歴史の一部であることは間違いない。それが燃えるのは、見たくない。

 自分のために泣くことは、私にはできない。泣いてはいけない。辛い時も悲しい時も、どんな時でも笑えという祖父や父の教えに背くことはしたくない。涙を流すなど、恥ずかしいことだと思って生きてきた。

 今は、少し違う。友のために流す涙は、恥ずかしくもなんともない。笑顔よりも美しい涙があることを、初めて知った。私の頬を今、ほのかな暖かみが伝っていった。



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