5.ニューシーズン 4オブ4
地下路へと下ろうとする意識を体が拒んでいる。力がうまく入らない。恐れのような、不満のような、イライラしている微細胞どもが慌ただしく震えている。
「何を恐れている。何への不満だ?」と、自問。
「それはね。君に心がないからだよ。磯島君」
背後から市川の声が地下路に響いた。俺の独り言に答えやがった。
「違う!俺は望んでいる。完璧なまでに望んでいる」
「ならばなぜそれほど君は震えてるんだ。覚悟はできているんだろう?まずはリラックスしろ」
俺は首を捻って、肩の凝りをほぐす。軽くジャンプをする。肩をグルグルして、手首をブラブラさせる。呼吸を深め、脳に酸素を運ぶ。
そしていつもの装置のある世界に放り込まれ、闇の中をブラッククロス姿の男となって踊り出す。市川の声が俺の脳に直接伝う。
「死を恐れて生き急ぐ時に死が近づく。冷静なままに時を見送れとは言わない。ただ瞬時の危険察知と逃げるタイミングを覚えることも大切だと言っておこう」
集中の意識を高めて闘争心を盛り上げる。燃え滾る感情のままに拳を握りしめて、弱りかけた欲望を湧き上がらせる。充足の時を送りたくば全てを身に付け、役人として働くがいい。
ライム、モカ、ベージュ、ピンク、ライトグリーン、塗料の匂いで溢れかえるイメージに放り込まれ、俺はリズム良く踊りだす。
今日も悪くはない。俺は先へ進めそうだ。
「どんなに優れたランナーでも自分の好不調をコントロールできなければ、重要なゲームでは負けてしまうものさ。最上の折に最善の状態にあれることがマストとなるだろう」
市川は俺の動きの悪さを感じ取って忠告する。俺もその意見には同感だ。重要なシーンでは最善の状態に持ち込めることが大切だ。
訓練を終えたのち、俺は大学とは関係のない都会の外れにある、海を臨むレストランにやってきていた。空一面にはスタービューが煌いて、海が波だってうごめいていた。命を持つかのような大地の鼓動が俺の心臓のリズムを慌ただしく震わせていた。
「あれをやると周囲が敏感に感じられる。過敏に反応してしまいそうな感情に悩まされるようになるだろう?」俺の姿を見るなりマサキは挨拶もせずに話しかけてきた。「こんな所まで呼び出して悪かったね。周囲を気にしなくていい場所が良くてね」
マサキと俺は研究室を出た後、別々の経路でここまでやってきた。最近は二人とも時間をずらして装置を使っているから地下の研究室で顔を合わせる時間も減っている。
「例の件ですが」と話しかけようとした俺の声をマサキは遮る。
「まあ、まずは食事にしよう。ここの料理はうまいよ。腹も減っているだろうし」
だから話を急がず、食後までを過ごすこととした。赤ワインを口にしてから三種の前菜にカラスミのパスタ、ローストビーフを口に含むまでの四〇分、俺らはろくに会話もせずにゆっくりと食事を楽しむ。
食後のコーヒーとブルーベリーのタルトが運ばれてきて、会話は始まった。
「さて、例の件だけど、気持ちの整理はついたかな?」
「あれこれ考えてみたけれど、考えは変わらないです。俺は続けますよ」
本当は迷いなど寸分も無かったけれど、それでは数週間の時間を空けた格好がつかない。ここはそう答えて話の筋を通す。
「じゃあ、質問を変えよう。磯島君は、市川先生を信用するのか、それとも」
そこでマサキは俺をじっと見て声を止める。
「それとも?」と、俺は聞き返す。
「信用はしないが、ただ付いてゆくのか」
そこには何かの意図がある。この質問には真意が裏に隠されている。
「信用しないとしたら?」と尋ね返す。
「君は、僕と組むことになる」
「市川を裏切ると?」
「そういう事じゃないんだ。そもそも市川先生の本当の狙いが何かもわからない。ただ、彼の訓練を受ける者は自分の意思を持たなければ、誰かに利用されるだけにしかならないだろう。僕も君を利用するよ」
マサキはそう言って、満面の笑みを見せた。一瞬こいつは狂っているのかと感じたが、そうじゃないことは彼のクリアな栗色の瞳から感じ取れる。
「もう一回聞くよ。このまま、市川先生の訓練を続けるか、整理はついた?」
利用されたくなければ抜けろという事か。普通の人間なら抜けると言うだろう。でも俺は違う。この世の中なんて人間のエゴで成り立っている。どの道を選んでも、利用し利用される世の中だ。それなら俺もその利用され利用するトップの世界で、利用する側の人間に変わってやろうじゃないか。
俺は真顔を止めて、マサキに笑顔を投げ返す。
「整理はついた。マサキさん、俺はあなたに利用されますよ」




