4.ファーストラブ 2オブ3
冷たい空気は生命の活動力を低下させる。
夏に蒸発する水滴は冬には凍り、活発に飛び散る分子の粒は固まって動かない。冬とはそういう状況の中にあって、温かい部屋の中でぬくぬくと過ごしたくなる。俺はキイコと二人きりになれる場所ばかりを考えていて、勉学に身が入らない。講義室では上の空だ。
春の幸せはひたひたと近づき、俺の心をごっそり掴んで笑顔に溢れさせて放さない。愛とはつまり何なのかと俺の心臓を振るわせる。下半身の大げさな反応が嫌になるが、寄り添ってくるキイコの身の温もりが俺にとっての全てを奪ってゆくのは嫌になれない。
現実感のない視界が今日もおぼろな光となって現れて、大学キャンパスを包んでいる。どこかにキイコがいていずれ俺に近づいてくる。その事ばかりが気になって今日の生活を奪われてゆく。
市川のいる研究室にももう四日連続行っていない。心はふわふわしている。誓いの全てを忘れたまま、俺は今日もただキイコに会う術を探す。そして二人きりの部屋に入って、甘い時間を送れないかと思考回路を慌ただしく巡らせる。
一月一日朝の初詣を最後にしてキイコと過ごした時間はほぼない。メールでのやり取りは数日に一回、互いにキャンパスですれ違う姿を意識し合いながら別々に過ごしている俺とキイコがいる。
しかし今日はキイコを見ていない。『メールして居場所を聞き出せばいい。そんな弱気な俺でいたくはないな』一人頭の中でゴーとストップを繰り返す。俺は彼女を忘れようとする。別の何かを考えようとすればするほど、彼女を気にしている俺がいる。
「ねえ、あんなのと遊ぶの、止めたほうがいいよ」
あおの顔が急に目の前に現れて俺にそう言った。あおは俺のメールを勝手に覗き込んで、俺とキイコの関係を知った数少ない知人の一人だ。あれと言ったのはつまりキイコの事で、だから俺はその呼び方にカチンと来て、あおを無視したくなった。
さっきから俺はあおと一緒にいた。同じ長机並びの隣同士で講義を聞いていた。そして講義の内容をあれやこれやと話していた。その全ての言葉に俺は上の空で、最後の一言が聞こえた。俺には君がただのブルーレディー。心をブルーにさせる女。今日から君の名はブルーレディーだ。なるべく話したくはない。
「俺の勝手だろう?おまえにどうこう言われたくはないね」
俺はぼそりとそうとだけ言って会話から逃げた。あおの顔はしばらく見たくない。
高い塀に囲まれた城のような屋敷に住み、専属の料理人が拵えた高級食材の一級品料理を食して、広々とした浴場で大理石の湯船に浴して、旧西洋のお姫様が眠りに就くような大きなフカフカのベッドで就寝する。朝になって鳥の囀りで目覚めたら、彼女を取り巻くありとあらゆる奉公人が支度のお手伝いをする。そして昨夜と同じ一流料理人による朝食を取って、たくさんの従者に見送られて家を出れば、可憐な女子大生となって普通に大学へと通ってゆく。
俺のキイコに対する勝手なイメージだ。付き合い始めて二ヶ月経つ。それなのに会ったのは数える程度でメールのやり取りも変わらず何日かに一回きりで、電話での会話は一度もない。その毎日が想像を駆り立て、俺は勝手な妄想ばかりに耽ってしまう。
おまけにキイコに対する悪い噂ばかりを耳にする。噂を集めたのはショーで、俺の耳に届けてくれたのはタケだ。ショーは噂を聞いておきながら「いいなあ。おまえは。あんな女と羨ましいぜ」なんて言う嫌な奴だ。タケが教えてくれたショーが聞いたキイコの噂というのは、裏口入学に、友人を金で売却、気に入らない人間を無視させて、おまけに男の候補をたくさん置いているといった話だ。
「じゃあ何か!俺もその候補の一人だって言うのか!」
俺は昨夜、酒に酔ってたせいもあるが、無関係なタケに声を荒げてそう怒鳴った。
「ち、ちがう。あくまで、ショーくんが言っていた噂だよ」
「チキショー。ショーのヤロー」
俺に何を信じろと言うのか。いつもの朝が始まっていて、不機嫌にさせる冬の寒冷さが身心をブルブルさせる。こんな日の朝に限ってキイコに会うんじゃないかと鼓動を高めたが、会うことなく一日の講義が始まる。俺はこのままじゃ居られない。
落ち着かない生活が続く。近頃は終始上手くいかないとばかり気掛かりにさせられる。
『煩悩を消し去れ!今は無駄を弾き飛ばせ!』と、不安定に荒々しく踊る。市川はそんな俺の姿を見ていた。暗黒に包まれた世界で、現れる光の点を追いかけ手足を激しく動かし、無駄なき動作を決めきる。青白く輝く光が集まり、広がって、膨張して燃え上がる。俺の体は汗だくになって、それでも光の点を追い続ける。
俺はどこへ行く?どこまで広がって、どこまで大きくなってゆく?その疑問が浮かんだ瞬間に世界は再び闇に包まれる。
人工回復装置の中で目を覚ます。市川の鋭い目が俺を睨むように見ている。
「今日もまた雑で冴えがないね。それが君の実力だとしたら少し見込み違いだったようだ。君は精気を吸い取られているかのように存在が薄らいでいる」
肌から浸透していたアミノ酸の液が役目を終えて排水溝からゆっくりと抜け出てゆく。自分のふがいなさを強く感じ、目の前にいる男の声に否定できず、また目を閉じる。
期末のレポートも妥当な文章でまとめ上げた。つまらない物にしか仕上がっていない。最良の能力を持つはずの俺はかつてないほどセルフコントロールに失敗して、そこいらの平凡な優等生と同等レベルまで落ちている。
「自分のまずさには気付けているようだな。今を打開する方法を見出せずに、いつまでも無駄に悩み続けてもいい答えは何もないさ」
その言葉が俺の脳を刺激する。
液体が抜け出た空の槽の中で自己と向き合う。能力を最大限に伸ばせば唯一無二の活動が、自分の想像する未来には待っている。一人の女を追いかけるために力を費やして到達できる、キイコの虜となる男になり下がるもう一方の人生を考えるならば、捨てなくてはならないものがある。彼女の真相が見え隠れして、そこにいるキイコは爽やかに笑んで俺に言う。
『いつも私の方を振り向いていて』
「そうする事はできないさ」
ふと口から出た自分の言葉を聞いて、俺は目を開いた。




