4.ファーストラブ 1オブ3
自分を保とうとしても保てないくらい疲れている。棟内を表に出るとすでに人のいない夜のキャンパスが広がっていた。俺はいつものダンスレッスンを終えて帰路を向かう。
ふと入り込む甘い香水の香りが俺のがんじがらめになった身体をほぐす。世界の植物が空へと伸び上がる庭園には不似合いな匂いが視界を広げる。
キイコはカナリア色のミニスカートに、ふわふわのレースが付いた白いシャツを着て、にっこり微笑んで俺を見ていた。夜の外灯下に立つ女はファッション雑誌のモデルみたいに美しく見えた。
「久しぶり。こんな所で何してたの?」
「ちょっとした運動さ」と、俺はごまかした。市川の研究室には守秘義務があるからだ。「キイコは?」
「わたしはサークルよ」
人づてに彼女が服飾デザインのサークルに入っていることは聞いていた。いつも女仲間に囲まれて、その中心になって歩いている。キイコを想う男はたくさんいるが、女友達の壁に近寄りがたく誰一人として近づけない。そんな彼女がふと俺の前に一人で現れた。
「こんな時間に一人で?」
「そう。少しデザインに夢中になっていたら遅くなっちゃったの。あ、サークルは服飾をデザインするサークルなんだけどね」
「ああ、そうか。しょうがないな」
秋の冷たい風が辺りの植物をざわめかす。キイコの長い艶のある髪が揺れる。ふわりとした香りがまた俺の鼻をくすぐる。敏感な部分が変にざわざわしてくる。
「送っていこうか?」
「ほんとに?」
「ああ、ていうか、俺ら同じ駅だろう?」
俺とキイコは中学から一緒で、互いの住む家は俺の家からそう遠くない。キイコは親が大手企業の社長で豪邸に住んでいる。住む地域こそ一等地だが、俺はそこまでのボンボンじゃない。それでも常に学年トップの俺の成績をキイコも知っていたはずだ。男は俺で、女はキイコ、俺らは互いに一位で、互いは互いに意識していた。きっと。
「うん、そうね」
「それとも、お嬢様は、お迎えが来るのかい?」
思わず嫌味な発言をしてしまった。
「ううん。そうね。じゃあ、一緒に帰りましょうか?」
彼女は俺のトークミスを気にもせずに、そう応えてくれた。
静かな夜だった。キャンパスを出ても人はまばらだ。遅くまで飲んで遊んでいた学生がうろちょろしているが、寒くなってきた季節のせいかいつもよりも少なく感じられ、秋の学生街は物悲しさを醸し出している。こんな遅い時間に知り合いなどいるはずもないのに、俺はキイコと二人きりで一緒にいることを誰かに見られていないかと少しだけ周りを気にしながら弱い明かりに照らされる学生街をゆっくりと歩いてゆく。
当たり障りのないキャンパスライフの話をしながら駅まで歩いて、電車に乗って、最寄の駅まで乗り継いだ。キイコを間近にする時間はあっという間に過ぎていった。
地下から出た駅の入口で別れの挨拶を交わす。
「今日は一緒に帰れて楽しかった」
艶やかな髪が風にふわりと揺れて、その香りが漂い、俺はドキリとした。君をこのまま帰すには心切ないが、ここで見送るのが男らしさというものだ。
「ああ、こっちも久しぶりに、キイコと話ができてよかったよ。今度はどこかでゆっくり話ができたらいいね」
「ほんとに?じゃあ、連絡して」
キイコは携帯ブレスの付いた手首を俺に向ける。すでにブレス同士を合わせれば連絡先が交わせる状態になっている。俺も携帯ブレスの連絡先をオープンにしてキイコのブレスに重ね合わせる。これで俺とキイコはいつでも通信が可能になる。
「ああ、じゃあ、またな」
口角が柔らかく拡がって、目尻が下がる。互いに俺らは了承し合っている。そこで手を振り合い、惜しむ想いを持って別々の方向へと帰ってゆく。小型バイクで走ると道の風は冷たいはずなのに、その日の帰り道は不思議と心地よく感じられた。
※
澄んだ空気の夜空には些少の粉雪が舞っている。毎年イルミネーション彩るイヴに限り気象庁が天気を操って雪を降らせている。失敗する年もあるけれど、今年はとてもうまくいったようだ。もみの木の森林公園には幻想的なイルミネーションに白い雪が溶け込み、美しさを増している。
たくさんの恋人同士や夫婦、家族がその光景を眺めたり、映像を映したりして楽しんでいる。俺は夜空を見つめるキイコの美しい横顔を見とれる時を送っていた。
互いのパーティーを抜け出して、短い時間を俺とキイコと過ごす。ベージュ色のハーフコートにチェック柄のスカート姿をしたキイコはしっとりしていておとなしい。俺の中での本当のキイコはもっと明るく人と話をするイメージが強い。でも俺と会う時間の君は、いつも淑やかで上品だ。
「行こうか」と、俺は言う。
時間はそう多くはない。別に隠す仲でもないのだからおおっぴらに一緒にいたとしても構わないはずなのだが互いにそんな形を好まないかのようにこうして二人きりの時間のみを送っている。
イルミネーションのライトに照らされたカラフルな森を歩き、地下へと下りて、閑散としたビジネス街の通りを抜け、人のいない休日夜の地上へと出た。
ここは平日のビジネスマンが休息するための場所だ。実質は固い黒曜石風のキューブと光を地下へと送る巨大な半透明ガラスが交互に組み合わさって造形されているだけの、何もない場所だ。
「今日はありがとう」と、キイコは言う。
俺は礼を言われるような行為をした覚えもない。時間もなく、クリスマスプレゼントを選び損ねて手ぶらで来てしまったくらいだ。
「それは俺の方だよ。今日はとても楽しかった」
一緒にイルミネーションを見ただけの僅かな時間だけだったけど、それが本心だ。
「いつも色々な人たちに囲まれていて、それが嫌なわけじゃないけれど、いつもどこかで自由になれない。ハヤ君と一緒にいる時だけは自由な気持ちになれる。わたしはそれで、ありがとうってこと」
俺はお城のお姫様を塀の外へと連れ出したナイトといったところだろうか。
いつも遠くでキイコを見ていた。そしてキイコも同じように俺を見ていた。いつかこういうときが来ればいいと考えていた。そしてその想いが一つになった。これはとても自然の成り行きだ。
人のいないキューブに囲まれた細い路地を歩きながら俺はキイコの顔をじっと見つめた。視線に気づくキイコの瞳が俺の顔を見つめ返す。雪がサラサラとその視界を掠めてゆく。俺らは立ち止まり、互いに向き合う。そっとキイコの両肩の手を置き、キイコの鼻立ちのいい顔を見つめる。
「ずっとこうなりたいと思っていた。いつかこうなればいいと」
俺は優しくキイコの黒い艶やかな髪を撫でる。少しだけ雪に濡れた冷たさが掌を伝う。今度はキイコの頬に触れるととても温かい。その頬は赤く染まる。
キイコは瞳を閉じて、少しだけ上を向く。俺はキイコに掛かる長い髪を少しだけ後ろに払い、キイコの顔に自分の顔に寄せて唇を近づけた。ほんの一瞬だけ触れた柔らかい感触を受け、俺はすぐに顔を上げた。唇にキイコの口紅の香りが残る。心の音が高鳴っていた。
「また会いたい」と、俺はキイコに言う。
「また会いましょう」
そう言葉を返して、キイコは唇を向け、俺はもう一度少し長いキスをした。君をずっと忘れない。そう刻み込むようなキスをして、離れた君は照れ笑いを浮かべていた。ずっとこうなる時がくればいいと想っていた。願いは叶い、未来が開けてゆくかのようだ。
新年も近づいている。二一六八年が終り、二一六九年が始まる。来年はキイコ、君とのときを育てる年にしたい。そんな願いを持って、俺はキイコを見つめていた。




