その後の話1【後編】 やさしい好きも、そうじゃない好きも
「それで、逃げて来たんですの? 皇帝陛下から!?」
フローリンデが言う。
私は慌てて辺りをきょろついた。
こちらはフローリンデが会長を務める文学サロン。
壁紙とかカーテンこそロマンチックだけど、真剣この上ない男女が集い、日々己の萌えを形にするため研鑽する『きれいな作業場』だ。日々インクと絵の具と紙のにおいが漂い、最新式印刷機の音が絶えない。
おかげでこっちの会話を気にしている人間はゼロ!
私は談話スペースの長椅子に縮こまり、隣のフローリンデにひそひそ返した。
「きゅ、休憩だよ、休憩に来ただけ……だって聞いて? 陛下とずっと一緒だと本気で体がもたないんだよ!! 陛下、もう、すごい、暗殺者かってくらい隙をついてキスしてくるもん!!」
「暗殺者」
「そう!!『キスを特別なものにしない』のと、『隙をついてキスをする』は全然違わない!? 私は違うと思うよ!! 違うと思うんだけど、気絶しちゃうからまったく言うタイミングがないわけ!! で、立ち直ったあとはそんなこと言う雰囲気じゃないわけ!! 詰んでる!!!!」
私は怒鳴ってその場に突っ伏す。
フローリンデはインクのにおいのする手で、そっと私の頭をなでてくれた。
「状況は把握しましたわ。双方そのズレっぷり、ちょっと萌えますわね……。とはいえ、わたくしの皇后陛下にもしものことがあっては大変です。いい案を考えましょう」
うん、なんだろう。
トンチキ要素がなくなった今回のフローリンデ、めちゃめちゃ冷静だな。
このサロンのことを話した瞬間からお嬢さんモードを脱ぎ捨てて、才女モードに入っちゃった。でも、そこがいい。そこが頼りになるよ、助かるよ……。
私はフローリンデを拝んだ。
「頼むよ、フローリンデ……!! 何か、何かいい案ない!? ううっ、この体質が憎い!!」
「体質というか、気質では? 緊張と興奮で気絶してしまうのでしょうから、慣れろというトラバントさまのご助言も間違ってはいないとみました。ただし、最初から本人で練習するのは刺激が強すぎる」
「ええええ……? でも、多分、他のひととキスしたら惨劇だよ?」
どんよりする私。
フローリンデはくすりと笑う。
「あら、その辺りはわかってるんですのね。ちょっとほっといたしました」
わかってるよ、騎士団で長々隣にいたし。
フィニスは根本的にいい人。優しいし、仲間は大事にする。
だけど、敵認定した相手には容赦ないもん。
拷問とかダルいことは嫌いだし、浮気とかしたら双方サクッといかれて終わりでしょ。
「そういうとこもこみで萌えなので、よーく存じております……」
「ではここはひとつ、無機物で。肖像画にキスなさってみるというのは?」
フローリンデは大真面目に提案する。
私は引きつった。
「えっっっっっ、ど、どう!? いけるかな!?」
「平面ですからいけるのでは? それでいけるようなら立体に挑戦!」
「ううううう、絵はギリギリいける気がするけど、彫刻、無理じゃない? 立体としての存在感があるとすでに無理めじゃない!?」
「弱い!! 皇后陛下、弱いです! そのくらいは勇気を出してください!! いいですか、皇帝陛下だってきっとお寂しい思いを抱えていらっしゃいます」
「そ、それは、はい、そうだと思います。皇帝が世襲制だったらマジぶん殴られてると思います。私はポンコツ皇后です」
思わず座り直してしまう。
フローリンデはため息まじりに笑った。
「いえ、そうではなくて。わたくしも気絶するような『萌え』はわかりますけれど、別に皇帝陛下は皇后陛下に萌えられたいわけじゃありませんでしょう?」
「…………あ」
私ははっとして顔を上げる。まじまじとフローリンデを見つめ、立ち上がった。
「それだ!!!! それだよ、フローリンデ!! ありがとう! 私、陛下に謝ってくる!!」
「まあ、察しのいいこと」
フローリンデはくすくす笑い、私を見送ってくれた。
□■□
「――で、そういう日に限って深夜まで社交だよね……!!」
バルコニーの手すりにすがり、私はどうにか息を整える。
な、長い。一日が長い!!
大事なお客さまとの晩餐が真夜中まで続いたせいで、私はふらふら。
「うー、ドレス脱ぎたい……おなかへった」
外はまだ肌寒いけど、とにかく新鮮な空気が欲しかった。
うなだれて、呼吸を繰り返す。
「セレーナ」
「あっ、はい!!」
呼ばれてぴーんと背を伸ばした。
慌てて振り返ると、フィニスがいた。
長い黒髪はゆるやかに結われ、銀糸で星みたいな刺繍をちりばめた夜会服にかかる。
彼は今夜もびっくりするほどきれいだ。
「寒いだろう」
静かに言って、フィニスは白い毛皮をかけてくれた。
「ありがとうございます、すみません。ちょっと空気が悪くて」
私はぴーんとしたまま言う。
フィニスは私の横で手すりに寄りかかった。
部屋からこぼれる明かりが、金眼にやさしく光らせている。
「とっととそのピンだらけの服をどうにかしてもらえ。君はもう少し落ち着いたら、新しいドレスを山ほど作るといい」
「え、ええー……。お言葉はありがたいですが、ますますポンコツの評判が立つやつじゃないで……」
そこまで言ったところで、私の口には何かが押しこまれた。
ほわっと甘く香ばしい匂いが広がる。
んん?
これ、ちっちゃな焼き菓子だな?
しかも、ちょっとあったかい。
……????
なんでこの時間にあったかいお菓子があるの?
私は首をひねった。
フィニスは手にしたガラス器からお菓子をとって、私の口につっこみ続ける。
「デザイナーとよく相談して、着るのが楽なドレスを開発して流行らせろ。君が着ればみんな真似をする。美しいから」
「も、もむ、う、は、はい……」
「小鳥のようにしか食事もできない服なんぞ拘束具だ。それを着ているときに何かあったら素直に死ねとでもいう気か? ばかばかしい」
あーーーーー………………。
り、理解した。
ドレスのせいで、私がろくに食べてないのに気づいてますね?
で、わざわざこの時間にあわせて、つまんで食べられて顔も汚れないお菓子を焼かせてますね……???
ひ、ひええええええ……。
な、なんだ、この優しさ魔人は……?
感動を飛び越えて、ちょっとこわくなってきたぞ!!
「フィニスさまって、どうしてそんなに優しいんでしょう……?」
もむもむを終えたあと、おそるおそる聞いてみる。
「わたしは優しくない。知っているだろう?」
長いまつげを伏せて言うフィニス。
私はぶんぶん首を横に振る。
「知りません。私の知ってるフィニスさまは、この世で一番優しい方です」
フィニスは笑った。
少し困ったような、悲しいような――でも、ものすごく、しあわせそうな微笑みだった。
彼の指が私のあごにかかる。
「……だとしたら、きっと君のことが好きだからだな」
ひっ、ひぇっ、これは、あれですね!!
気楽なキスの前触れですね!?
ちょ、ま、この空気、胸の高鳴り、すでに眼がチカチカしてきた!!
だけど!!
「あのっ!!」
力を振り絞って叫ぶ。
フィニスはゆっくりまばたきをした。
「どうした」
さあ、今だ!!
勇気の振り絞りどころは、今だよ!!
「今回は、私から!! してもよろしいでしょうか!!」
……………………。
い、言えたーーーー……。
言えた、ついに言えたぞ!!
私は心の中で拳を握り、ついでに現実でも拳を握った。
フィニスはぴたりと止まったあと、やがてほんのり笑う。
「うん」
か、かかかかわいいーーーーー。
かわいーな、フィニスさまかわいいな……。
美しくてかわいいの最高だな!!
私はぴょんぴょんしたくなる気持ちを必死に抑え、フィニスを見上げる。
おそるおそる両手を伸ばす。
フィニスはすぐにひざまずいてくれた。
彼の顔に触れる。さらりとした黒髪の感触。
そして――耳の近くにほんの少し、違和感がある。
これは、私がつけてしまった傷跡だ。
思い出すと、まだひやっとお腹が冷える。
彼の完璧な美貌を傷つけてしまったのは、私だ。
だからって、彼が好きな気持ちはすこしもゆるがない。
私が好きなあなたは、肖像画のあなたじゃなくて、たくさん傷ついてきたあなた。
そう思うと、ぶわっと全身が温かくなった。
「私も、好きです。だいすき」
囁いて、そっと唇にキスを落とす。
ふんわりやわらかくて、やさしい感触。
まるでそのまんま、『好き』の気持ちみたい。
そして。
………………やったーーーーー!!
ちゃんと意識があるよ!!
「……フィニスさま!! 平気でした!! いえ、死にそうにドキドキはしてますけど、いけましたよ!! やっぱり、『萌え』じゃなくて『好き』なら気絶しません!!」
私は叫び、フィニスは口元をおさえて立ち上がる。
フィニスはそっぽを向いて言った。
「……そうだな。そして、確かにこれは、ドキドキする」
「やっぱり!? やっぱりそうですよね、やっぱりするよりされるほうがドキドキするんですよ、不意打ちならなおさらです! じゃあこれからはキスの練習は私からで!!」
うきうきと叫ぶ私を、フィニスは急に抱きしめてくる。
あ、あれ。
あ、あれれれれれ。
きゅ、急に、これはこれで、目の前チカチカしますけど!?
フィニスは私の首元に顔をうずめて、囁く。
「わたしを好いてくれているなら、正直に教えてくれ。――最近君がやけに甘く香るのは、トラバントに頼んだ香水のせいか?」
ひ、ひぇ……。な、なんか、なんかお声が、甘いですね!?
軽く逃げようとしてみましたけど、無理ですね!?
ちょっと痛いくらいに、強い力。
優しいだけじゃない、これも――きっと、あなたの、『好き』なんですね。
「はい。あの……と、特注品なんですよ。最初は元気な香りで、次はキリっとした香りに変わって、最後にとびきり甘くなるようなのがよくて。結構難しい注文だったので、トラバントに頼んで……」
観念した私は、ことこまかに説明する。
フィニスはちょっと笑った。
「なるほど?」
「あ、あの……あの、あの」
「続けて」
甘い刃みたいな声で、息が詰まる。
私は。
どうにか、本当のことを言う。
「最後のあまい香りを知ってるひとは……あなただけが、よくて」
そうなんです。
ええ、うっかり真夜中までの公務が多くって、こんなところで甘い香りをさせてしまってますけど!!
本当は、あなただけが知ってるはずの香りです。
言い終えて、おそるおそる様子をうかがう。
長い沈黙のあと、フィニスは長いため息を吐いた。
「――恋は、体に悪いな。心臓が止まりそうだ」
「私もです! 私も、いつも……」
それ以上の言葉は、フィニスの唇にふさがれてしまったけど。
このときは、ちゃんと気絶しませんでした。
……で。
このとき以降、彼のやさしい『好き』も、ちょっとこわい『好き』も、みんな、私のものになったのでした。




