その後の話1【前編】 キスって慣れるものですか!?
これはとある帝国のお話。
若く美しい皇帝と皇后が誕生し、まだ国中が浮かれ騒いでいたころの話だ。
わたし、フィニス・フォルモントは朝っぱらから史料編纂所にいた。
「相談がある」
わたしが言うと、トラバントはものすごく爽やかに笑った。
「これはこれは皇帝陛下、公務ですか、私用ですか? せっかくですから我が史料編纂所の現状を聞いて行かれますか? 天書が生きてたころ、この国のすべては天書の中にあった。もちろん過去の歴史もです。何かを知りたければ天書研究をすればよかったわけです。
だけど今じゃ天書はただのおとぎ話の本に変わり、我々は歴史を世界中からかき集めて編纂しなきゃならない。いいですねぇ、ただし、めっちゃくちゃ面倒ですね、ぞくぞくしますね、はー忙しい。――で?」
わかるぞ~、トラバント。自分は重要な仕事を楽しくやってて最高に忙しいので、ろくでもないことで邪魔したら殴りますよ、そういう気配がびしばし伝わってくるぞ。
暴君相手だったら即死だな。
わたしは完全に弱気になっているので、ひたすら素直に答えるけども。
「公務だ」
「なら聞きましょう。あ、ちなみに陛下が座らないと僕も座れないんですけど」
トラバントは腕いっぱいの羊皮紙を執務机に放り投げ、来客用の椅子を指さす。
『座ってください』と言えないあたり、実にこいつだ。
わたしはマントをさばいて、せいぜい優雅に座って言う。
「そうだったな。で、キスが体に悪い」
「はい?」
自分も座ろうとしたトラバントが固まった。
わたしは真剣に続ける。
「キスだ。口づけ。唇と唇を触れさせること。もしくはそれ以上。さらに言うなら」
「さらに言う必要がどこにあった!!?? 別にこっちはキスの定義で戸惑ってんじゃないんですよ、っていうかなんですって? 何が? どのへんが公務ですって????」
お、久しぶりにこいつの猛烈に嫌そうな顔見たなー。癒やされるな。
とはいえ、別に嫌がらせで来ているわけじゃないんだ、こっちは。
「公務には違いないだろう。セレーナのことだ。体調が戻ったのはいいんだが、そのまんまノリも以前の感じに戻ってしまって」
「はあ」
「キス程度で毎度気絶するようになってしまい」
「はあ……」
「最初はかわいーなー、ですませていたんだが」
「まずその反応が頭おかしい。で?」
「そんなに気絶しまくったら体に悪いんじゃないか、と最近気づいた」
「ははあ…………………………バカですね?」
めちゃくちゃ真顔で言われてしまい、わたしは少し考えた。
「バカか……? 普通そこは気にしないか? 体というのは癖がつく。骨が折れたら折れやすくなるし、関節が外れたら外れやすくなるし。気絶だってあそこまで行ったら癖だろう。気絶しやすくて都合がいいなんて、拷問のときくらいじゃないのか?」
「いや、うーん……まあ、わかりました。いつも通りどうでもいいことに真面目に悩んでるのはわかりました。で。セレーナさまの気絶癖をどうにかしたい、という相談を、どうして僕にしようと思いました?」
トラバントは眉間の皺をもみながら訊く。
他の所員たちはだだっ広い編纂所の隅のほうでこっちをうかがい、びくびくしているようだ。傍目には真剣、かつ険悪な雰囲気だから仕方ない。
わたしはトラバントの目を見つめ直して言った。
「この話をしても引かない奴が、お前以外に思いつかない」
「―――――言っときますが!! 僕は最初から最後まで引いてますよ! 昔っから今までずーーーーーっと引いてますけど、なんかちょっとあなたって可哀想だから! 聞いてあげてるだけです!! 可哀想だから!!」
「そんな理由だったのか? トラバントお前ひょっとしていい奴か?」
「わーーー、今気づきました!? 何年目!? あーーーーーー、もう、あのですね、あなた方の恋愛はそもそも五歳児レベルなんです!!」
「五歳児」
五歳って恋愛するのか。
少なくとも自分にそんな余裕はなかった気がする。
そんなことを思っている間に、トラバントは呼吸を整えた。
「そう、五歳。五歳児が二十歳児以上になるには、面倒でもひとつひとつ慣れていくしかありません」
「慣れか。慣れ。……このわたしでさえ、彼女の顔を見るたび初対面のときの感動を思い出して視界が星の光に包まれ全身が打ち震えるというのに、セレーナが慣れられるだろうか」
「くっそ、相変わらず平凡な程度の比喩が出てくるようになっててむかつくな。安心してください、人間は誰しも劣化しつつ生きていく。慣れはその新鮮な感性も必ずや殺してくれます」
トラバントは堂々と不敬なことを言い、身を乗り出す。
「――ということで、策はたったひとつ」
□■□
「『キスを特別なものにしない』作戦、が有効なんだそうだ」
目の前の推しがそんなことを言い出したので、私、セレーナ・フォルモントは硬直した。
や、むしろ、硬直する他に何をしろと?
何? なんて言ったの?
そのいつもどおり完璧な顔面で、き、キス、その、えーーーーーっと!?
待って、事情が飲みこめない。
「えー……その。と、とりあえずお茶いかがです……? 今日は帝国南東部からいい感じのブドウの蒸留酒が来ててですね、売り出し中らしいんです。香りが高くて、ヌール王国のお茶によく合うんですって。公務でぴりぴりした神経がどうにかなるかなって」
時間稼ぎでお嬢さまムーブしてしまったけど、これで反応あってるかな!?
私はぎくしゃくとポットを手に取り、お茶を注ぐ。
大陸最大の皇帝と皇后になるのはやっぱり大変なことで、まだ二人とも宮廷の様子と帝国全体の様子をつかむので精一杯。
今日だって、二人きりになれたのは晩餐の後のこの時間だけだ。
だから、やっとだ! やっとフィニスとフツーのお話できる! って心は躍った。
躍りましたけども!!
さ、作戦……って……?
「お茶はもらおう。ちなみに作戦立案はトラバントだ。君がキスするたびに気絶するのが困るといって相談したところ、」
「ま、待ってください、ま、まままままま、そ、そんな話をトラバントとしてたんですか!? うわーーーーー、待って、客観的に見てキスのたびに気絶する皇后、やばすぎませんか!? 果てしなく実用性に欠けるというか、ポンコツというか、そういう意味で!!」
はっ、まずい、元気に絶叫してしまった!
でもここは絶叫する以外ないよね、よし、絶叫を許す!!
暖炉脇に腰かけていたフィニスが立ち上がり、やわらかく私を見る。
「君は健康だし有能だしちっともポンコツではないし、トラバントは君の気絶癖についてはよく知っている」
「そうでした!! そうだった、そう、トラバントだった、フィニスさまの女装姿も私の萌え気絶と詩と香水の趣味も、全部知ってるトラバントだった、今さらだ……」
今さら……今さらですけど……で、でもさぁ……。
でも、最近は、猛烈に頑張って頑張って頑張ってロイヤルしてたわけで。
だ、脱力してもいいかなぁ……? いいよ!
素早く受け答えし、私はその場にしゃがみこもうとした。
そこへ、するっとフィニスの腕が差しこまれる。
ううううううううう、早いよぉ。
相変わらず謎に移動が速いし、当然のように抱きしめてくるし、萌やし殺す勢いの美貌でのぞきこんでくるよぉ……!!!! 結婚したので!! 当然ですけども!!!!
「君の詩と香水の趣味。わたしはまだよく知らない」
――あ。トゲ。
嫉妬だ。
静かな美声に交じった嫉妬に、心臓がきゅっと痛くなる。
次に、じわっと全身が痺れる。
甘い痺れ。呼吸が浅くなる、この感じ。
……私、嬉しいんだ。
嫉妬が嬉しいなんて、濁ってしまったなあ、私。
ぜんぜん、嫌ではないのだけど。
「――ち、近いです、近いですし、そんなの、いつだって教えますよ……。それより、その、えーっと、今軽く記憶が飛んでるんですが、どんな作戦を実行するんですって……?」
顔が真っ赤になってしまう前に、私は必死に話を戻した。
フィニスは私を抱いたまま、くるくるの銀髪をそっと整えてくれる。
「『キスを特別なものにしない作戦』。つまり、いちいち身構えずに挨拶レベルでキスをしていれば嫌でも慣れるだろうという作戦だ。毎回気絶していては君の体に悪いし、諸々滞るし、わたしの罪悪感もヤバいし、合理的な作戦なのでは?」
「ご、合理的。まあ、合理的かな……?」
合理的と言えなくもないけど、それを実行すると、つまり?
つまり、その、私が?
ものすごーーーーく軽率に、キスされる、ということになり???????
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、待って、慣れる前に死にます、あのねえ、毒っていうのは致死量超えたら死ぬんですよ、そこに慣れるも慣れないもないわけですよ、推しのキスを毒認定するのはあんまりだっていう自覚はあるけど、刺激物なのは確かでしょ!!??
やめよう、根性論!!!!
私は脳内で身もだえ、フィニスは私をきちんと立たせた。
次にひざまづき、私の手を両手で包んで見上げてくる。
「だめか」
「ウワーーーーーーー!! お、推しがーーーー!! 推しがかわいい上目遣いを覚えたーーーーーーー!!!! 駄目ではないです、やりましょう、『キスはご挨拶作戦』!! 死ぬくらいどうにかなる!! 目標を達成するまで、命がけで挑みます!!」
私は軽率に覚悟を決めすぎです。
わかってるけどしょうがないじゃない、こんなの!?
フィニスは少し目を細めて、とろけるように笑った。
「わたしも誓おう」
指先にちょっとキスして、立ち上がって。
ごく自然に顎を取られて。
あ、そうですよね。そりゃ、この流れですもんね。
はいはいはい、わかるわかるー、軽率なキス、第一弾、大丈夫大丈夫このくらい――。
――――――――。
――――――。
――――。
……と、いうわけで。
私はもちろん気絶しましたし、ここから、とんでもない日々が始まったのでした……。