回想3
目が覚める。お腹が痛い、と一瞬顔を顰めたが、これは空腹と言うやつである。お腹がすいて目が覚めた時ほど悲しいものは無い。パーティの財布を管理しているノインはこういう時ものを食べさせてくれないし、唯一料理が上手いオルフェウスも1日3食間食は1回までと決めているのでやはり何も作ってくれない。空腹に耐えながら眠る時の惨めさはかつての路地裏暮し時代を思い出させる。いや、あの時よりはずっと満たされた生活を送っているが。
(……ここは、どこだ……?)
起き上がってみると、そこは清潔なシーツを張ったベッドの上で、俺はやはり綺麗な、そしてだいぶ大きめの寝巻きを着せられている。ベッドの傍には丸椅子とイーゼルが置かれていて、イーゼルにはドラゴンのスケッチが立てられていた。なんだこれ、やたらめったらうまいな。ここには画家でも住んでいるのか?部屋を見渡す限り、この建物は木製で、せいぜいが一人暮らしの家と言った広さだ。ふむ、じゃあこの家の主が画家なのだろうか……。暖炉には火が燃えており、ここは暖かいが反対にいえば外はかなり寒いだろうということが察せられる。あたりは不気味なほどしいんと静かで控えめながら何かとやかましいノインも、小言の多いオルフェウスも、いつでも明るいイルザもいない。それから、いつも静かに微笑んで少し離れたところから俺たちを見つめているアサギも。
そうだった。俺は仲間たちとは遠く離れた地にいるのだ。意識が途切れる前に白い小さめの山に突っ込んで頭をぶつけたことは覚えているが……はて、それでは無事にナヴィガトリアに入れたのだろうか。そうであれば、とても信じられないがナヴィガトリアにはちゃんと人が住んでいてここはその人の家、ということになる。考え込んでいれば、ふと何かの気配が近寄ってきた。咄嗟にあたりを見回すが武器になりそうなものは無い。
極度の緊張から身を固めながら、この部屋の唯一の扉を凝視する。ゆっくりと扉が開いて……そこにいたのは、一人の男だった。こいつが画家か?念の為に視線を男に固定する。すると男の右上に白い字がピコンと浮かび上がった。表示はヒューマン。レベルは不明だが、一応人ではあるらしい。
「あれ、目が覚めたんだね。」
……とりあえず、声は優しげで敵意は感じられない。パッと見たところではほとんど丸腰で、少し警戒をとく。男は持っていた水差しをベッドのそばのサイドテーブルに置き、丸椅子に座った。精緻なドラゴンのスケッチと若い男が並ぶとミスマッチが起きて気持ち悪いな、と内心では思ったが、もちろんおくびにも出さない。男は座れるなら自分で飲めるかな、と言いながらグラスに水を注いで差し出してくれた。特に怪しいところはないし、俺のステータスなら大抵の状態異常は跳ね返す。大人しくそれに口をつけながらそっと男の顔を盗み見た。
近くで見てはっきりとわかったが、なかなかの美丈夫である。大陸ではまず見ない白金の髪は小綺麗に整えられているのに嫌味がないし、優しそうに目尻が垂れている眼なんかも青か緑の目が多いヘメラでは見たことの無いような色だ。アサギがいつだったか見せてくれたフジという花の色に似ている。全体的に色が薄く、衣服も白いので雪の中だと見失いそうだなと思った。
「君、多分空から落ちてきたんだよ。実際に見てた訳じゃなくて状況判断だからほんとのところはわかんないけど……どこか痛いところとかない?」
「……別に。」
斬られ焼かれた胸は未だじくじく痛むが死ぬほどではない。それよりもノイン、オルフェウス、イルザ……彼らは無事だろうか、と今更ながら不安になる。助けに行くにしても傷を直さないことにはどうにもならないし、だいたいここからニュクスどころか大陸に戻る手段すら俺は持っていない。とにかく現状を把握しないことには、なんとも。俺はこの謎の男とコミュニケーションを取る事にした。
「おまえ……じゃない、あなたは……」
「あ、おれはカストルだよ。カストル・リンドヴルム。カストルって呼んでよ。君は?」
男、カストルはサラリと答える。見も知らない、大破してボロ切れのようになった装備を身につけて気絶しているどう見ても訳ありの俺を世話して、名を教えるのも躊躇わないとはかなり大雑把な男のようだ。見た目はこんなに繊細そうなのに。俺は毒気を抜かれて思わずアルトゥールだ、と答えた。
「アルツ、ア……アル、テル……?なんか、変な名前。」
「失礼な男だな、おまえ……」
「あ、ごめんね。この辺にはあんまりない名前だから、ちょっと……言いにくいんだよね。えっと、ア、アルティ……アル……やっぱ無理、アルティでいい?」
「カストルが呼びやすいように呼んでくれ。」
「ありがとう。アルティはこの辺の人じゃないよね。髪も目もこの辺では見たことない色だなあ。大陸の方だと金髪と青っぽい目の人が多いんだよね、たしか。うーん、金髪といえば金髪だし……目は赤だけど……アルティはヘリオスの方から来たの?」
「ああ……まあ、こんな見た目だが一応ヘリオスの出身だ。じゃあ、やっぱりここはナヴィガトリアなのか?」
カストルは気負いもせずにそうだよ、と言った。なんということだ、魔物も魔族も入れない、幻想と神の国には人が住んでいたのか……。しかも彼の口ぶりからすると住んでいるのは彼一人ではなさそうだ。それも流れ物が住み着いたなんてレベルじゃない。何百年単位で連綿と血を継いできた一族、あるいは小規模な国家がある、と見ていいだろう。
「大陸からこっちに人が渡ってくることは本当にないんだよ。大陸の人間には長く空を渡る手段がないんだろう?かと言って海は流氷もあるし、氷山も……あと、強い魔物もいるからね。」
「魔物もいるのか、あの海。」
「うん。あれ、知らない?すごーく大きなウミヘビみたいなやつがいるんだよ。ナヴィガトリア近海にはさすがに入ってこられないみたいだから、遠目に影を見た事しかないんだけど。」
あの海には誰も立ち入らないからあまり知られていないだけで、あそこは本物の魔境だったらしい。陸のアイテル、海のニヴルと言ったところだろうか。
そして今の話から新たにわかったこととしては「少なくとも魔物は絶対にナヴィガトリアに入ってこられないのは確か」ということだ。カストルやその仲間たちが住む居住域だけではなく、その近くの海までもがその範囲内……トリアが異様な高さを飛行していたこと、ある場所で急停止したことを考えれば魔物だけでなく魔族もここには入れないのもほぼ確実。しかも上空、それもかなりの高さまでその立ち入り制限が適応されている。
(神の土地、ってのは虚飾でも誇張でもなさそうだな。)
「ところでアルティ。」
「うん?」
「アルティは、状況から察するにあのすてきな女性に連れてこられたんだよね。」
すてきな女性?……俺を連れてきた女、と言えばトリアだが……カストルはトリアと接触したのだろうか。すてきな女性、というか主に「すてき」という部分があまりにもトリアにはそぐわないので動揺する。怪物みたいな腕力してるぞあいつ。人を投げるし。あと父親が魔王だし。
「……彼女と知り合いなのか?」
「ううん、すごーく遠くから一目見ただけ。」
「よ、よく見えたな?随分遠くにいたはずだろう。」
「こう見えても視力は鍛えてるんだ。あと念話で話しかけられた。」
「へえ……」
視力って別に鍛えられるもんじゃなくないか?というか、なんか嫌な予感がしてきた。なんでこのイケメンは頬を上気させて微笑んでるんだ。怖い。
「あの、アルティは彼女と知り合いなの?」
「まあ……顔見知りというか。」
「じゃ、じゃあ彼女がどこの御令嬢なのかも知ってるんだね?」
「ご……御令……いやまあ、そうだな!知っているが!……あの、なんでそんなこと聞くんだ?」
もう嫌な予感どころじゃない。首の後ろがゾワゾワする。まさか、まさかだよな?顔だちはともかく、あの異形の外見でその……普通の男はひとめで「かわいい!」とはならないよな?なるのか?そんなまさか……その上お前は知らないかもしれないが、あいつの父親は魔王だぞ!?手を出したら「死」だぞ!?
俺が慄いているのに気づいていないのか、カストルはあくまで朗らかだ。決まっているじゃないか!という彼の声音はいやに弾んでいる。
「決まっているじゃないか────おれは、彼女にすっかり一目惚れしてしまったんだ!」
……いや、決まってはいないだろ。俺はかろうじてそう突っ込んだ。