第七話 好きな事
翌日、金曜日という事もあり業務時間を終えた僕と部長と後藤の3人は
いつもの様に「キャバクラ恋歌」に居座っていた。
「なんか元気なくない?」
僕の隣に座る厚化粧の女性が僕の浮かない顔を覗き込む。
厚化粧であっても何故か透明感のある彼女の整った顔にドキッとした。
彼女は僕がドギマギしているのを楽しんでいるのか、艶っぽく僕の腕に絡みつく。
甘ったるい香水の香りが体の中まで入ってくる様だ。
「実は病み上がりなんだよ。そいつ」
後藤がグラスを片手に持ち、隣にいる女性の肩に腕を回していった。
「あーだからウーロン茶なんだね」
僕の隣に座る厚化粧の女性が、ガッカリという感じで肩を大袈裟に上下させる。
今日は僕が病み上がりという事で、車の運転を頼まれていた。
酒を飲まず運転に徹する後藤は、久しぶりの酒に上機嫌となり次々とグラスを空ける。
キャバクラ恋歌への運転は、ほぼ後藤が担当しているが
今日みたいな時や、後藤がどうしても飲みたいときは僕が車の運転を買って出ているのだ。
いつもより白い歯を見せる後藤を見ると僕は嬉しくなる。
2,3時間後、僕たちはお店を後にした。
後藤の車の運転席に僕は乗り込み、すっかり慣れた手つきでエンジンをかける。
外は肌寒く、部長と後藤は酔い覚ましに都合が良い様で身体を伸ばしていた。
「部長、後藤。行きますよ」
僕が声をかけると、二人はケラケラ笑いながら車に乗り込む。
「佐藤くん。悪いね。これ」
部長が何枚かの紙幣を僕に渡した。
「すみません。ご馳走様です。」
「部長。ご馳走様です」
車を走らせてから暫くして車内がアルコールの臭いで満たされたころ、部長自宅前に到着した。
広大な庭を取り囲むように門が構える洋風の家。
ここら辺では有名で部長はこの豪邸に奥さんと子供の3人で住んでいるそうだ。
「じゃあ。また来週。お疲れい」
部長がニコニコして車を出る。僕と後藤は軽く部長に会釈した。
車内で後藤と二人になった後、後部座席に乗っていた後藤が助手席へ移動して来る。
「体調。大丈夫か」
「うん。お陰さまで」
僕の言葉にそうかとだけ後藤は答えると煙草に火を付けた。
車内が煙草の臭いで包まれていく。
「佐藤」
「なに」
「昨日の事さ。お前のこと幸せに見えるって言っただろ」
「あー。うん」
後藤はため息を着くように煙草の煙を吐いた。
「今もきっと幸せなんだと思うけど、心から幸せを感じてる訳じゃないんじゃないの。うまく言えないけどさ」
後藤は時々僕の心の中を読み取るような事を口にする。
僕は幸せだと思っていた。変わらない日々が。平穏な毎日が。
でも、神様の「きっかけ」で心が揺らいだのだ。
僕は今の生活に満足しているのか。好きなものはなんなのか。孤独なのか。
色々な事が解らなくなっていた。安定している今の生活が本当に幸せなのだろうか
「僕もわからないんだ。僕がどうしたいのか」
「なんでもいいんだよ。もっと素直になれば」
「素直に何も思い浮かばないんだよ。今の安定を維持したいのは確かだけど」
暫く、僕たちは無言になる。
「・・・佐藤の好きな事ってなに?」
後藤の言葉に僕は何も答えられなかった。
後藤を車で送った後、後藤の自宅付近からタクシーでミントへ向かった。
後藤が住む住宅街には温かい灯りが各家から零れている。
僕は将来所帯を持つだろうか。
しばらくしてミントの前にタクシーが着くと、重い足取りでミントに入る。
「いらっしゃいませ」
ミントに入ると、新藤さんの事務的な挨拶が聴こえた。
彼女はレジ付近で何か作業をしており、僕の方には見向きもしない。
これもいつも通りであるが「きっかけ」を願ったせいか意識してしまう。
僕は彼女を横目で確認した後、ドリンクコーナーへ移動した。
「あれ・・・」
いつもの海外輸入と思われる炭酸飲料が見当たらない。
ガラス面の大きな冷蔵庫のいつもの場所が空になっていた。
商品名と値段だけが空しく取り残されている。
在庫を切らすなんて、珍しい事もあるものだと
あまり気に留めず、代わりにリンゴジュースを選んでレジへ向かう。
レジの新藤さんはリンゴジュースをレジに読み込み、レジ袋に入れてくれた。
今日は長い髪を後ろで結んでいないせいか、動くたびに揺れるロングヘアーに思わず見惚れてしまう。
本当にきっかけなんて起こるのだろうか。
僕はただの客。いくらきっかけがあっても僕は新藤さんと結びつくのだろうか。
そもそもこんなに美人であれば恋人がいるのではないだろうか。
不安と期待が入り交じり、僕の心拍数が早くなった。
様々な想像が頭を駆け巡る。
「あのー・・何か」
新藤さんが困った様な不審がっている様な顔をして僕を見つめる。
僕は彼女の前で数秒立ち尽くしてしまった様だ。
「すみません。なんでもないです」
やってしまった。完全に不審がられたのではないだろうか。
僕は顔が熱くなるのを感じたまま、ミントを小走りで後にした。