第十九話 玲瓏と輪廻
皇女は、自分が何処にいるのか分からなかった。見えない筈の目が、はっきりと周囲状況を捉えていた。そして、目の前の光景に息を飲む。
(これは予知夢なの?)
皇女の面前に、巨大な生物が鎮座していた。
(あれは、龍では?)
龍は、その長い体をつづら折りの状態にして休んでいた。呼吸はしているようだが、そのペースは余りに遅く、非常に弱々しい。見ているこちらの胸が、締め付けられる姿だった。不思議なことに初めて見る光景のなのに、なぜか懐かしさと切なさがこみ上げて来た。揺れ動く感情とその思いを、無意識の内に抑え込もうとしていた。 それでも自分の頬を伝う涙までは、止める事ができなかった。その一滴の涙が床を叩いたとき、それまで目を閉じていた龍が、静かに目を開いた。その瞳は曇りなく真っ直ぐだが、ただのガラス玉のように何も写し出さない、空っぽの瞳だった。
第三皇女が、前世でOLの雪花として生きていたとき、その自分の瞳がとても嫌いだった。偽物の笑顔しか作れない、悲しみしか写せない、自分の深く沈んだ瞳が大嫌いだった。そんなかつての自分の瞳以上に、目の前にある瞳が最悪なことが理解できた。この瞳を知っている。全てを諦め、絶望したものの瞳。生きている筈なのに、その瞳は生きる喜びを知らない瞳だった。たった一人、寂しくて、哀しくて、声を上げ泣いても、それでも一人。その余りの寂しさから自分を守るため、感情を固く閉ざし、何一つ感じなくなってしまった瞳。その瞳がこちらを静かに見ていた。皇女はその瞳を見た途端、どうしようもなく胸が締め付けられ、涙が溢れ出していた。そして、それを止める事は出来なかった。
そうだ、この龍は孤独なのだ。この世界が生まれて間もなく誕生した命、それがこの龍だ。この世界の大空を独り占めしていた。地を駆け、空を飛び、自由気ままに暮らしていた。何百年もそうして生きて来た。やがて龍の後に続く生き物達が産まれた。しかし、そのもの達はただ生きているだけの動物だった。語ることも、笑うことも、泣くこともなく、ただ生きているだけだった。
龍はいつも独りで大空を飛び、見慣れた風景は変わることがなかった。若かりし頃は、胸の中に喜びと楽しさを抱え、口元は常に笑っていたように思う。やがて成長した龍は、色々なことをした。山を崩したり、川の流れを変えてみたり。しかし、何をしても以前のように楽しさを感じなくなっていた。それにも増して、空しさを感じることが多くなっていた。その頃から徐々に休眠する期間が伸びて行った。龍は活動と休眠を繰り返す生物だが、いつの間にか休眠期間の方が遥かに長くなっていた。
ある時、目を覚ました龍は、世界の状況が少し変わっていることに気付いた。何が起こったのか確認するため、大空を舞、大地を駆けた。森や湖や山に混じり、見慣れないものが出来ていた。それは人間達が作った、村や街と呼ばれるものだった。この人間は他の動物達と違い、考えることや話すことができた。ただ龍が近付くと、彼らは決まって建物の中に逃げ込み、何時まで待っても出て来ることはなかった。
そんなある年に、大きな嵐が人間の街を飲み込んだ。人々は、これを龍の仕業と考え、龍の住む山へ貢ぎ物を寄越し、嵐を起こさないで欲しいと懇願した。龍は人間の言っていることが、全く理解出来なかった。人間も龍の言葉が理解出来なかった。人間達は、龍が喋る度に開かれる口が、いつ自分たちを飲み込むか、気が気ではなかったのだ。
このとき人間達は、ここに一人の人間を置き去りにしていた。それは目も見えず、耳も聞こえない、小さな女の子だった。正直、これには龍の方が慌てていた。小さな女の子は、岩場の影で丸くなり全く動かなかった。街や村を訪れる度に逃げ行く人間が、いきなり現れたと思ったら、小さな人間を置いて行ってしまった。龍にはこの意味が全く分からなかった。そして困惑した。こちらから何かしようにも、その小さな人間は余りにも小さく、そして余りにも弱々しく見えた。
どうしたものかと散々考え、弱いのであれば強くするしかないと結論づけた。しかし、具体的にどうするかは、皆目見当が付かなかった。そんな時、岩場の影に隠れていた少女が、こちらに反応した。少女はゆっくりとした動作で、龍に近付いて来た。しばらく様子を見ていたが、その余りにも弱々しい動きを見て、龍の方が酷く動揺していた。地面を手で確認しながら、少しずつこちらに近付き、やがてその小さな手が届く範囲まで来た。ソッと手を伸ばすが、恐怖に何度も手を引き戻す姿に、龍の心が揺れていた。龍は、自分の中の何が反応しているのか、分からなかった。龍に心と言う概念が無かったのだ。やがて少女は、なんとか龍の鱗に触れる事ができた。その瞬間だった、龍の中に何かが聞こえた。それは少女の声だった。少女もまた、龍と同じように普通の人間と話すことが出来なかったのだ。ただ、何かを伝えようと、必死に唸り声にも似た声を上げていた。
次の日、同じように少女が唸っていた。相変わらず龍は言っていることが、分からなかった。そして、次の日、少女の様子が明らかにおかしくなっていた。弱々しく、身動きすら取れない状態になっていた。龍は、一切食事をするとが無かった。そのために、食事をするという概念すら存在しなかった。そして次の日には、もう少女は動かなくなっていた。昨日までは、それでも弱々しく唸り声を上げていたのだが、今日は全く動きもせず、唸りもしなくなった。そして、次の日も、その次の日も、もう少女は動くことは無かった。そのとき始めて、龍は少女が死んでいることに気付いたのだ。龍は余りにも長く生きるため、この世界において、死から最も遠い存在だった。それ故に、死に対してひどく疎く、その存在すら忘れていたのだった。
ただ、死と言うものを目の当たりにし、少女が生きていた頃のことを考えると、体の中の何かが酷く暴れ回っていた。少女の死体の傍で、じっとしていることが、龍には出来なくなっていた。気が付いた時には、人間の街を破壊していた。そして、抑えることが出来ない衝動のままに、空を駆け巡っていた。何日も、何日も、体の中の何かが落ち着くまで、何も考えずに飛び回っていた。
やがて疲れ果てた龍は、森の中にある小さな泉の近くで休んでいた。住んでいた山を遠く離れ、静かに目閉じ、死というものについて考えていた。
「申し、申し、これに御座すは、この森の主様でありましょうか。」
目を閉じ考え事をしていたら、人間が話しかけて来た。驚いて目を開けると直ぐ目の前に立っているではないか。こんなに近くに来るまで、全く何も感じなかった。それとも、考え事をしているうちに寝てしまっていたのか、とにかく龍にはよく解らなかった。そしてこの人間の声が、何故理解出来るのかも分からなかった。
「我の言わんとすることが分かるか。」
この問いかけに対して、人間は静かに頷くだけだった。この人間が言うには、この森の近くにある開けた場所を、一族で納めたいのだが、よろしいかとお伺いを立てに来たようだ。龍はたまたま休んでいるだけで、この地に住んでいる訳ではないと語った。そして、ちょうど良いので、死と言うものについて聞いてみた。その人間が言うには、死とは生きとし生けるものとって、平等に訪れるもの。そして、その先を生きるものにとっての糧となるもの。死は終わりではなく、次へ続く変化のようなものだと語った。
龍種と違い人間の一生は短い。何百年も生きる龍にとって、死とは遥か彼方の、まだその先の話なのだ。しかし、常に死に接している人間には、死というものが身近にある存在なのだと龍は感じた。やがて、その人間がこの場を離れ村へ戻ったが、龍はその場に残り、死と言うものに付いて考え続けた。
次の日も、また次の日も、その人間はやって来た。やって来る度に、色々な話をすることで、人間のことが少しずつ分かって来た。人間は龍と違い食物と呼ばれる栄養を取る必要があった。それを聞いた龍は、始めてあの少女が何故死んでしまったのか理解した。それと同時に、少女以外の人間達が何をしたのかも理解した。それからも、その人間は森を訪れては、龍と会話を繰り返していた。そんなある時、心の話になった。
「つまり、心とはなんだ。」
龍が尋ねて来る。人間は、上手く答えることが出来ない。何と言えばいいのかと迷っていた。体の中にあり、その人を形成するもの。その人物らしさやその中心となるものを形成するもの。喜びや悲しみ怒りや憎しみといったものを感じるもの。そんな話をしながら人間も頭を傾げていた。
「ひどく難しいものです。自分達は普通に言葉として使っているものなのに、いざ、そのことを説明しようとすると、あやふやな感じになってしまいます。」
「いや、随分と理解できた気がする。」
龍は、これまでの自身の挙動の理由が、少しずつだが掴めて来たような気がした。月日は流れたが、相変わらず森での日々が続いていた。そんな時、ふと疑問に思った事を尋ねてみた。初めて会った時、目の前にいる人間は今よりずっと小さかった気がした。そのことを聞くと、人間の成長は龍に比べてはるかに早いらしい。つまり、老いも早く訪れると言われた。
「老いとは何だ。」
この問いかけに、人間は少し機嫌を悪くしたようだが、龍には理解出来なかった。その人間が語るには、人間には雄と雌がいて、特に雌の場合は、老いについて語りたがらないそうだ。それでも、老いとは肉体の衰えであり、生物の成熟期から減退期への移行だと言われた。何故か早口で喋られて、言いたく無いことなのだと察した。
やがて、龍は自分の休眠期間が近付いていることに気付く、その時になって自分の塒に、少女の死体があることを思い出した。その時のことを目の前の人間に話すと、その人間は哀しそうな顔をした。そう、今なら龍にも、色々な事が理解出来た。
「よろしければ、私がその人間の亡がらを葬りましょう。私は目が悪いので、私の侍女に手伝わせないとなりませんが、なるべく手厚く葬りましょう。」
この提案を龍は受け入れた。あれ程、荒ぶっていた気持ちは落ち着き、心穏やかになっていた。
「主様、お名前を伺っておりませんが、如何なるお名前のお方なのです。」
「我に名前などない。」
これまで、敢えて名前を聞いていなかったのだが、ここで始めて人間が尋ねて来た。やはり龍に名前はなかった。ただ、人間の方ではこの龍の名前に心当たりがあった。その名は“天駆ける龍”、人間の少女が亡くなり、その悲しみの衝動を理解する事無く、泣き叫びながら百年近く飛び続けた龍の名前だった。
龍の塒の少女は、白骨になっていたが、その場にちゃんと残っていた。森で出逢った人間は、約束通り少女の遺体を手厚く葬ってくれた。そのとき、龍は礼だといい、透明な丸い石を人間に授けた。人間を森に戻し、龍は塒で休眠期間に入った。再び相見える事が無いと知っていた人間は、もし自分の子孫に会う事があれば、少し気に掛けてくれればと、それだけ言って分かれた。
再び目を覚ました龍は、かつての森に行ってみたが、そこは砂の海と化し、その近くには不気味な黒いドームが形成されていた。それきり、二度とそこへは近付いていない。
そして、どれほどの月日が流れたか、龍の死期が近付いていた。そんな龍の目の前に、再び人間が現れた。しかも、その少女は目が悪く、指にはその龍が授けた石が輝いていた。
「また巡り会うとは、不思議な定めなのか。主はどう思う。これが因果と呼ばれるものか。」
「どうでしょうね。分かりかねます。」
「まだ、目が悪いのだな。治らぬのか。」
「ええ、こればかりは無理のようです。」
「そうか、ならば最後に礼をしておこう。達者で暮らせ、御主には悪いが子孫には会えず終いだ。せめてもの気持ちだ。受け取れ。」
その言葉と共に、体の中に何かが注ぎ込まれる。それは緩々と体の中に満ち、さらに優しく柔らかなヴェールが体を覆った。何が起こったのか分からないが、龍が力を分けてくれたことは理解できた。それはとても暖かく、心が穏やかになるもの。魂の安らぎと呼べそうな、満たされた感覚だった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「姫様!姫様!」
誰かの呼び声で意識が覚醒する。周囲を見回すと、相変わらずぼやけた世界だった。
「私、どうしたのですか?」
「姫様!心配いたしました。その玲瓏の指輪をはめられて直ぐ、意識を失われていました。どうされたのですか。私は心配で、心配で。」
マルティナは泣きながら抱きついて来た。傍らにボードレックがいるようだった。そして、おもむろにセフィードのいる方向を向くと、皇女は周囲の者が唖然とするような質問をするのだった。
「セフィード!あなたが子孫なの?」